海に沈むジグラート 第79話【芸術の試練】
七海ポルカ
第1話 芸術の試練
「本当に、シャルタナ家は方向によって窓から見える景色が違うのですね」
シャルタナ兄妹と、アデライード、ネーリの四人は午前中の散策のあと、一度別館に戻り、ゆっくりと昼食を取った。
その昼食は温室に整えられて、他に客はなく、アデライードも人の目を気にせず寛いで過ごすことが出来るようになっていた。彼女は社交界に詳しくなくとも、それが公爵家の普通の昼食とは違うことは知っていたから、シャルタナ兄妹の気遣いであることは理解出来た。
共に過ごせば過ごすほど、シャルタナ兄妹は高貴な身分であるのに飾らない性格をしていて、ラファエルとの関係を重んじてのことだとしても、アデライードに対しての接し方は、決してそんな打算的なものばかりではないことが感じられた。
【死のリスト】のことが過ると、実際会ったシャルタナ兄妹の印象とそれが全く相容れず、戸惑う。ネーリが言っていた、それが犯罪かどうかは分からないが、ドラクマには何かがあるというのも、気になっている。ネーリがそう言うのならば、何故かそうに違いないとアデライードは信じ切っている所があった。
自分がどのように立ち振る舞えばいいのか分からなかったが。
ネーリは昼食はゆったりと取ったが、昼下がり「行ってきます」と紙をいっぱい鞄に詰め込んで、描きに行った。
ドラクマが茶会の方に顔を出しに行き、レイファと二人、冬でも花が咲いている温室の中で、話しながらネーリが描いたスケッチを眺めていた時に、思ったのだ。
アデライードが手に取った一枚のスケッチ。小舟の上でレイファとアデライードが寛いでいる姿を描いたもの。そこに描かれたレイファ・シャルタナを見た時、ネーリには彼女がこう見えているのだと思ったら、それを無性に信じたくなった。
アデライードが今日、半日共に過ごしたレイファの印象は、ネーリが描いた彼女と完全に一致した。明るく快活で、自分のように他国からやって来て、まともに社交界にも出ていないような娘にも、自然体で話し、笑いかけてくれる。
人間の中に恐ろしい悪心は潜むことはある。
だけど、それを疑って誰も信じれなくなったり愛せなくなったりするのは、違うのではないかと彼女は思う。
人の声に耳を傾けて、自分の目で見たものとそれを照らし合わせてみる。
ネーリ・バルネチアはとてつもなく大きな秘密を抱えた青年だ。
それゆえに、あんなに温かな人柄にも関わらず、ごく最近まで誰とも慣れ合うことが出来なかった。そんな彼が、ラファエルを信じてくれて、結果として妹のアデライードも信頼してくれ、秘密を打ち明けてくれた。
だからアデライードはネーリの為に自分も何かしたいと思うようになったのだ。
自分自身で自分を変えることも出来るが、
他人の言葉や、優しさで自分が変わっていくこともある。
シャルタナ兄妹の真意は見えずとも、例え、その奥に考えの及ばない何かが隠れていたとしても、自分や他人が害を与えられていないと信じれる限りは信じるべきだ。
そのように接した時、もしかしたら、他人の考えを変えることすら出来るかもしれないのだから。
「ずっと見ていらっしゃるわ」
レイファが温かい紅茶を淹れ直しながら、小舟のスケッチを見ているアデライードを笑った。
「はい……。わたし、他人の方に自分を描いてもらったこと、初めてなのです」
「まあ、そうでしたの?」
「はい。ネーリ様に描いていただいて、他人から見ると、私はこんな風に見えるんだって分かって……」
「自信がつきましたでしょう」
レイファが明るく笑ったので、アデライードは目を丸くしてから、少し恥ずかしそうにしつつ、頷いた。
「ネーリ様の絵の中の、フランス令嬢は……素敵だと思います。お二人とも」
「その小舟のスケッチはアデル様に差し上げますわ。ぜひラファエル様に見せて差し上げてくださいな。きっと喜ばれますわ。ラファエル様もご多忙な方ですけれど、呼び寄せたご自分の妹がヴェネトでものびのびと過ごされていることが分かれば安心なさるでしょう」
「レイファ様も映っておられますけれど、私が頂いてもよろしいのですか?」
「私はこのツァベルの愛くるしいスケッチを頂くからいいのです。どんな額に入れて飾ろうかさっきからずっと考えていますのよ」
アデライードも見せてもらった。
木炭のスケッチだが、黒馬の豊かなたてがみや、大きな黒い瞳が印象的に描かれている。
「ネーリ様に描かれる動物は本当に愛らしいですね」
「そうね。確かに正確に姿形を捉えている以上の、感情を感じますわね」
「ネーリ様は神聖ローマ帝国の駐屯地にいる竜もよく描かれるのですよ」
「まあ、竜を?」
レイファはそういえば、ネーリは竜騎兵団の駐屯地に出入りしているのだと報告を受けている。団長のフェルディナント・アークと、どうも親しい知り合いらしいのだ。レイファは竜騎兵団が嫌いだったので、兄がネーリに興味を持っていると知ってからは、万が一に備えてそれとなく竜騎兵団と、フェルディナント、そしてネーリとの関係性を探ろうとしているのだが、駐屯地が王都ヴェネツィアの外れにある為、市街までしか尾行は出来ず、駐屯地には全く近づけない。
かといって市街で尾行を付けると、フェルディナントはよく勘付くので、結局ネーリとの関係性は分からずじまいになっている。
フェルディナントはどうやらあのミラーコリ教会に足しげく通っているようなので、アデライード同様偶然教会のアトリエでネーリと知り合ったのかもしれない。
偶然竜の話になったので、実際はあんまり竜に興味は無かったが、試しに尋ねてみる。
「妃殿下から、竜はそれは見目の恐ろしい、凶暴な生き物だと聞きましたが……ネーリ様は神聖ローマ帝国軍から依頼を受けてお描きになったのかしら?」
レイファの問いに、アデライードは微笑んで首を振る。
「とんでもありません。ネーリ様は竜がお好きなのです。だから頼み込んで描きに行っているのです。竜は、神聖ローマ帝国から保有していませんから」
「まあ……でも、恐ろしくないのかしら?」
「レイファ様でも、竜はご覧になったことはないのですね」
「ええ。私、馬や鳥は好きですけれど、あまりにも野蛮な肉食獣は好きではありませんわ」
「私も、実は一度竜騎兵団の駐屯地にいらっしゃるネーリ様を訪ねて行ったことがあります」
「まあ。勇気がおありになりますわ」
レイファはあまり竜にいい印象を抱いていないようだったので、【竜の森】の話をしたいと思ったが、そういえばネーリが竜の森に行ったことはかなり特別なことだったようだと聞いた。ネーリの過去のことはあまりヴェネト貴族に話さない方がいいかもしれないと考え、あとでネーリにそのあたりのことを確認しようと思い、今は駐屯地の入り口までにしか行ったことがないことにした。
「駐屯地の入り口までですけれど、わたし、竜を見ました。レイファ様、竜とは本当に賢い生き物ですよ。従順で、確かに見目は愛くるしい動物には見えにくいかもしれませんけれど……でもとても知能が高くて、だからこそ無駄に乱暴な行動など取らないのです。竜騎兵の方の話によれば、竜が反抗的な態度を取る時は必ず何らかの理由があるのだとか。
ネーリ様もスケッチしている間、ずっと竜は大人しくしていて、中にはウトウトし出す竜もいたと仰っていました」
「そうですの。俄かには信じがたいですけれど……」
「ネーリ様はもうたくさん竜をスケッチなさっているから、きっと描いてください、と頼んだらすぐに描いてくださいますわ。ネーリ様の描いた竜を見れば、レイファ様もきっと美しさと気高さと愛くるしさが分かっていただけると思います」
「竜って愛くるしいことありますの?」
「まあ、ひどい」
あっさり言ったレイファに、アデライードが笑ってしまっている。
「でも兄もよく『あんな恐ろしそうな生き物会いたくない』って言いますわ」
「それはそうですわよ。フランスは実際神聖ローマ帝国軍との戦線を持っていますから。脅威は現実ですのよ」
「確かに……そうですね。私は戦をしている竜の姿はまだ見たことがないから、こんな風に暢気なことが言えるのかもしれません。ラファエル様は実際、お知り合いやご友人を神聖ローマ帝国軍との戦いで亡くされていますものね……」
あの【竜の森】……。
聖域のように美しい、静かな場所で、竜たちは翼を休めて過ごしている。
あそこは本当に、聖域なのだ。
「でも、アデル様がそこまで竜をお気に召したのなら、一度ネーリ様に描いていただきますわ。あの方の描いたツァベルは本当に愛くるしい様子をこんなにそのまま描いてくださっているのですもの。ネーリ様が描いた竜が美しかったら、私も一度くらい見てもいいわ」
「本当ですか? 私は、竜の美しさを、レイファ様なら分かっていただける気がします」
「そういえば……ネーリ様が駐屯地で絵を描かれているということは、竜騎兵団団長のフェルディナント・アークとお知り合いなのでしょうか?」
「ご存じですか?」
「名前だけは。あの方社交に本当に興味がない方でいらっしゃるから、夜会などでも全く見ませんのよ。この間の仮面舞踏会では例の侵入者を捕えようと奔走なさって、随分目撃情報がありましたけれど。あまりどのような方かは分かりませんね。ちょっと不愛想な感じ」
ネーリの絵をフェルディナントが贔屓にしたり買ったりしていることは、秘密にした方がいいのかもアデライードには分からなかった。こうして話していると、ネーリが関わってる人のことをどこまでシャルタナに話していいのかを決めてこなかったことに気づく。
ネーリが帰ってくれば時間があるだろうから、そのあたりのことをちゃんと話しておこうと思った。
「駐屯地に入って、竜を描く許可は頂いたと聞きましたけど、それ以上のことは分かりません。もしかしたらネーリ様はフェルディナント様とお知り合いなのかもしれませんが……」
「いけませんわね。私は戦嫌いだから、どうも空から突然飛来して他国を襲うようなやり方好きになれませんの。だから神聖ローマ帝国の方だと思うと心証が悪くなってしまいますわ。でもネーリ様のお知り合いなら、あまり嫌なことを言っては駄目ね」
頬杖をついてそんな風にぼやいたレイファに、アデライードは笑いかけた。
「ネーリ様はそんなこと、あまり気にされませんわ」
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