第39話 それから8



 青猫ブルーシャトンのおばあさんは、本当に素敵な人だった。


 僕たちの街には、ブルーシャトンと呼ばれるおばあさんがいた。

小柄で、いつも穏やかな微笑みを浮かべたアジア人の彼女は、若い頃は日本に暮らしていたらしい。僕たちは、そんなおばあさんのことが大好きだった。


 おばあさんは、かつて世界を旅した旅人だった。カメラを片手に、果てしない砂漠を歩き、波の砕ける岸辺を訪れ、未知の街角で人々の笑顔を切り取ってきた。その写真は高く評価され、数々の賞を受賞したという。彼女の家に、誇り高く輝くトロフィーが並んでいるのを、僕たちは何度も見かけていた。


「写真はね、光を見なきゃ駄目なのよ」


 そう言いながら、おばあさんは僕たちにカメラを手渡し、構図の大切さを教えてくれた。僕らが幼い頃から、何度も何度も。おばあさんの言葉は、いつも優しく、どこか懐かしい響きを持っていた。


 けれど、そんなおばあさんにも、たった一つだけ苦手なことがあった。


 それは、ドビュッシーの音楽を聴くこと。


 テレビから流れてくる《月の光》や《亜麻色の髪の乙女》の旋律が聞こえた瞬間、おばあさんはびくりと身を震わせ、まるで忌むべきものを見るようにチャンネルを変えた。


「ごめんね、ちょっと……これだけは駄目なの」


 理由を聞いても、おばあさんは決して語ろうとはしなかった。ただ、その瞳には、ほんの少しだけ遠くを見つめるような陰が落ちていた。


 まるで、彼女の旅のどこかで、ドビュッシーの音楽とともに封じ込めた記憶があるかのように。


 けれど、それももう、確かめる術はない。


 おばあさんは、本当にいい人だった。


 そして、僕たち街の写真部は、そのおばあさんの最期を看取った。


 部屋に差し込むやわらかな光の中で、彼女は静かに目を閉じた。


 まるで、永遠の旅へと出るように。


そしておばあさんは火葬されて、骨になった。


フランスでは墓地不足が深刻だ。埋める場所がなかったのだ。


『私が死んだら、宇宙に撒いてもらうよ』


生前、おばあさんはそんなことを言っていた。


『私のような老人が宇宙へ行く手段なんて、もうそれしかないからね。冒険するのよ。死んでもね』


そして遺言執行人がやってきて、おばあさんの骨を持って行った。


彼は骨の入った壺を抱えて、去り際に言った。


「彼女の骨は、灰になって宇宙に撒かれます」

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