第3話- 歪む境界
0時を前に、私は再び6階へと向かっていた。
胸に抱えた1972年のアルバムが、異様に重い。50年前の姉とそっくりな女性の写真が、制服のポケットに入っている。火災。605号室。そして管理人室。これらの謎が、すべて繋がっているはずだ。
エレベーターのボタンを押す。上昇する箱の中で、私は姉の最後のメッセージを反芻していた。
「23時に境界が開く。605で待つ」
デジタル表示が狂い始める。
1...2...88...4...605...6
エレベーターが不自然な振動とともに停止する。扉が開くと、そこは明らかに「普通の」6階廊下ではなかった。
天井の蛍光灯が不規則に明滅を繰り返し、赤い絨毯の模様が蠢いているように見える。壁に掛けられた絵画の中の人物が、わずかにこちらを見つめている。そして何より、空気が違う。まるで水中にいるような、重たい圧迫感。
私は震える足で前に進む。
廊下が不自然なほど長く伸び、遠近感が完全に狂っている。天井まで届く巨大な鏡が、無限に続く廊下を映し出している。
そして、604号室と606号室の間の壁に...ドアがあった。
しかし、それは通常の客室ドアとは明らかに異なっていた。古びた木製で、表面には奇妙な模様が彫り込まれている。ドアノブは錆びついて、長年使われていない様子。表札には「605 - 管理人室」の文字。
アルバムを開く。1972年の写真に写る605号室と、目の前のドアが完全に一致している。しかし、このドアは火災で消失したはずなのに。
ドアノブに手をかけた瞬間、廊下の温度が急激に低下する。呼吸が白く濁り、全身に鳥肌が立つ。
そして、背後から──
「そこは開けない方がいい」
振り返ると、一人の老婆が立っていた。しわだらけの顔で、哀しそうな目をしている。しかし、その姿が廊下の照明に照らされると、影が落ちない。
「あなたは...」
「わたしはこのホテルの...ま、元管理人とでも言っておきましょう」
老婆の言葉に、私は息を呑む。アルバムに挟まれていた一枚の写真。そこに写っていた若い女性と、目の前の老婆が、どこか重なって見える。
「1972年の火災のこと、ご存じですか?」
老婆は深いため息をつく。
「あの火災は、事故じゃなかった。605号室で何かが起きた。現実と非現実の境界が壊れかけた。それを止めるために、わたしたちは...」
老婆の言葉が途切れる。廊下の照明が激しく明滅を始め、壁の絵画が揺れ動く。
「時間がない。23時を過ぎると、このホテルは"境界"になる。現実と非現実の、存在と非存在の、過去と現在の...様々な境界が溶け合う場所。そして、その境界に惹かれる人たちがいる」
「姉も、その一人だったんですか?」
老婆は悲しそうな表情を浮かべる。
「あの子は...50年前の過ちを正そうとした。でも、それは危険すぎる。境界の向こう側には、戻れない場所がある」
私の手が震える。アルバムから取り出した古い写真。1972年の佐々木麻衣。姉と瓜二つの女性。そして今、目の前にいる老婆。
すべてが繋がり始めていた。
「美咲、あなたの姉は...」
その時、605号室のドアが、軋むような音を立てて、ゆっくりと開き始めた。
老婆の表情が変わる。
「もう始まってしまった...」
ドアの向こうから、冷たい風が吹き込んでくる。その風は、まるで誰かの吐息のように、生きているかのような揺らぎを持っていた。
開いたドアの奥には、通常の客室とはまったく異なる光景が広がっていた。
古い管理人室の内装。しかし、それは現実の空間ではない。壁や天井が不規則に歪み、家具が宙に浮いている。そして最も異様なのは、部屋の中央に開いた暗い穴。まるで深い井戸のような、漆黒の空間。
「これが...境界?」
「ええ。50年前、わたしたちはここで何かを呼び寄せてしまった。現実と非現実の境界を揺るがすような...何か」
老婆の声が震える。
「火災は、それを封じ込めるための最後の手段だった。605号室を物理的に消し去ることで、境界を閉じようとした。でも完全には消せなかった。23時になると、また境界が薄くなる」
部屋の中から、かすかな声が聞こえてくる。
「美咲...」
姉の声。しかし、それは現在の姉の声なのか、それとも50年前の麻衣の声なのか。もはや区別がつかない。
「あの日、姉さんは何を見つけたんですか?」
「彼女は古い記録を見つけた。1972年の管理日誌。そこには、境界の向こう側にある可能性について書かれていた。失われた時間を取り戻せる可能性。でも、それは危険すぎる賭けだった」
部屋の中の暗い穴が、ゆっくりと広がっていく。家具が次々と闇に飲み込まれていく。
「あの子は、50年前の過ちを正そうとした。境界を安定させ、失われた可能性を救い出そうとした。でも、それは逆効果だった。境界が不安定になり、彼女自身が...」
老婆の姿が、少しずつ透明になっていく。
「もう時間がない。選択をするのはあなた。このまま境界を閉じるか、それとも...」
「美咲、来て」
姉の声が、より鮮明に聞こえる。暗い穴の中から、白い制服を着た人影が見える。手を差し伸べている。
「姉さん!」
私は一歩踏み出す。その瞬間、部屋の空気が大きく歪んだ。
鏡に映る景色が崩れ始める。壁という壁が波打ち、床が揺れる。まるで現実そのものが、溶けていくような感覚。
「選択は一つだけ。決めるのはあなた」
老婆の声が遠のいていく。
時計が0時を指す直前。私は決断を下した。
震える手で、アルバムを開く。1972年の写真に写る若き日の管理人。老婆の正体であり、最初の佐々木麻衣。その隣には、もう一人の女性が写っている。その人物の名前を見て、私は全てを理解した。
「美咲、本当の物語を知りたいの?」
姉の声。しかし今度は、確かな強さを持っている。
「境界の向こう側で、待ってる」
605号室の闇が、私を包み込んでいく。
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