第2話- 消えた部屋
「申し訳ございません。すぐにご案内いたしますので」
私は男性客を案内して6階へ向かう。エレベーターの扉が閉まる瞬間、フロントロビーの鏡に映った異様な光景が、まだ網膜に焼き付いていた。
エレベーターのデジタル表示が、数字を刻んでいく。
1...2...3...
男性客は深いため息をつく。スーツ姿はきちんとしているが、顔色は明らかに悪い。
「実は、605号室で奇妙なことが...」
4...5...6...
「私、出張でこのホテルには月に一度は泊まるんです。でも今夜は何かが違う。廊下を歩いていたら、突然めまいがして」
その時、デジタル表示が異常な数字を示す。
「88」
一瞬の出来事だった。目を疑って見直した時には、もう「6」を示していた。男性客は気付いていない様子だ。
エレベーターが停止し、扉が開く。
6階の廊下には、いつもと違う空気が漂っていた。
壁に設置された照明の明るさが、微かに揺らいでいる。赤い絨毯の模様が、まるで生き物のように蠢いているように見える。そして何より、空気が濃い。まるで水中にいるような、重たい空気感。
「こちらです」
男性客の背中を見ながら歩を進める。601、602、603、604...
そして、異変が起きた。
確かにそこにあるはずの605号室が、消失していた。604号室と606号室の間の壁は、まるでそこに何もなかったかのように、シームレスにつながっている。
「ほら、こんな風に...」
男性客が震える声で言う。その姿が廊下の照明に照らされ、一瞬影が二重に見えた。瞬間、男性の表情が歪む。
「気分が...」
私は咄嗟に男性客を支える。冷や汾が全身を伝う。その手が、一瞬だけ異常に冷たかった。
「大変申し訳ございません。別のお部屋をご用意させていただきます」
私は冷静を装いながら、男性客を新しい部屋へと案内した。しかし、心の中では様々な思いが渦巻いていた。605号室が消えるという現象は、この3ヶ月の間で何度か目撃されている。だが、それを実際に体験した宿泊客は初めてだった。
「ありがとうございます。でも...」
別室に案内した男性客が、おずおずと切り出す。
「さっきの廊下で、誰かの後ろ姿を見たんです。制服を着た女性で...」
私の心臓が高鳴る。
「その方は、振り返らずにそのまま壁の中に...いや、すみません。疲れているんですね」
男性客は苦笑いを浮かべた。しかし、その表情には確かな恐怖が刻まれていた。
フロントに戻り、すぐに防犯カメラのモニターを確認する。6階の廊下を映すカメラには、605号室がちゃんと存在している。現実と映像の間に歪みが生じている。時刻は23時45分。
この時間帯、防犯カメラの映像は時々おかしな挙動を示す。姉が失踪した夜も、23時から0時までの映像が無音と奇妙なノイズで埋め尽くされていた。
私は引き出しから一冊のノートを取り出した。そこには、この3ヶ月間で起きた不可解な出来事が克明に記されている。
- 23時15分:605号室が消失
- 23時30分:エレベーターが存在しない階に止まる
- 23時45分:鏡に映る景色が実際と異なる
- 0時00分:廊下の突き当たりに見知らぬドアが出現
そして、それぞれの現象の欄外には、赤ペンで「麻衣」という文字が書き込まれている。これらの現象は、すべて姉の失踪に何らかの関係があるはずだ。
カタカタカタ...
突然、キーボードを打つ音が聞こえた。フロントには私しかいないはずなのに。
振り返ると、奥のビジネスセンターに設置されたパソコンの画面が青白く光っている。誰かが作業をしているように見える。しかし、そこに人影はない。
ビジネスセンターに近づくと、モニターには意味不明な文字列が次々と打ち込まれていく。
M41...K41...605...23:00...L1M1N4L...
私は息を呑んだ。これは暗号なのか、それとも...
画面が突然暗転する。そして、モニターに映ったのは、605号室のドアだった。映像なのか、鏡像なのか、判別がつかない。しかし、確かにそこにあるドアは、ゆっくりと開いていく。
その時、ビジネスセンターの電話が鳴った。
凍りつくような音色。受話器を取る手が震える。
「も...もしもし?」
「...美咲?」
姉の声。しかし、どこか違う。まるで深い井戸の底から聞こえてくるような、歪んだ声音。
「麻衣...姉さん?」
「美咲...来て...605...」
ノイズが混じり始める。断続的な雑音の中で、姉の声が遠ざかっていく。
「どこにいるの?姉さん!」
「...23時...境界が...気をつけて...」
通話が途切れた。受話器からは低い機械音だけが響く。慌ててモニター画面を見るが、既に通常の待機画面に戻っていた。
時計は23時50分を指している。
私は震える手で、さっきまでパソコンに表示されていた文字列をノートに書き写す。
M41...K41...605...23:00...L1M1N4L...
麻衣(MAI)のイニシャル?それとも何かの暗号?そして「LIMINAL」という単語。この組み合わせには、きっと重要な意味が。
防犯カメラのモニターに目を戻すと、6階の映像が乱れ始めていた。画面がノイズで覆われる中、かろうじて映る廊下。そこには、605号室のドアが確かに存在している。
しかし、現実の6階では消失しているはずなのに。
映像の中の605号室のドアが、ゆっくりと開いていく。ノイズの間から、何かが見えた。
廊下に立つ人影。
白いスーツを着た女性。
そして、その手に持たれた古びたノート。
心臓が早鐘を打つ。あのノートは、姉が失踪前に持っていた業務日誌だ。
映像の女性が、ゆっくりとこちらを向く。顔が見える直前、画面が真っ黒に染まった。
「お客様、すみません」
突然の声に飛び上がる。振り返ると、先ほどの男性客が立っていた。顔色は先ほどより悪化している。
「あの...605号室のことで、もう一つ」
男性は言いにくそうに言葉を選ぶ。
「実は、この3ヶ月ほど前から、毎回同じ夢を見るんです。このホテルの廊下を歩いていると、突然すべてのドアが消えて...そこに一つだけ、古びた木製のドアが現れる。開けようとすると、必ず目が覚めるんです」
私は息を呑む。その夢の描写は、姉が失踪前に語っていた体験と、あまりにも似ていた。
「そして今夜、初めてその夢と同じ光景を、現実で見てしまった」
男性の表情が歪む。
「あの廊下で見た女性の後ろ姿...彼女は、まるで私の夢の中から出てきたようでした」
男性の証言を詳しくノートに書き留めながら、私の中で新たな仮説が形作られていく。605号室は、単なる消失現象ではない。それは、何かの入り口なのかもしれない。
現実と非現実の境界。夢と現実の狭間。そして23時という特異な時間。
これらはすべて、姉が残そうとしていたメッセージの一部なのではないか。
その時、背後のビジネスセンターから、カタカタという音が再び聞こえ始めた。
今度は複数のパソコンが同時に起動する音。暗がりの中で、次々と青白い画面が点灯していく。
「お客様、申し訳ありませんが、お部屋でお休みになられることをお勧めします」
私は男性客を客室に案内しようと振り返った時、彼の表情が凍りついているのに気付いた。その視線の先には...
ビジネスセンターのガラス窓に、無数の手形が浮かび上がっていた。内側から誰かが押し付けたような、曇った跡。それが、ゆっくりと壁を伝って這うように移動している。
「あ...あの...」
男性客の言葉が震える。私も言葉を失う。手形の動きが止まり、そして突然、すべてのパソコンの画面が点滅を始めた。
画面には、次々と断片的な映像が映し出される。
- ホテルの廊下を歩く制服姿の女性
- 605号室のドアの前で立ち止まる姿
- ドアを開ける手
- そして、その先に広がる漆黒の空間
防犯カメラの映像だ。しかし、日付を見ると、それは1年と3ヶ月前。姉が失踪した夜の記録。
「これは...」
私が画面に見入っていると、突然すべての映像が停止する。そして、画面上に赤い文字が浮かび上がった。
「23時に境界が開く。605で待つ」
その瞬間、ビジネスセンター内のプリンターが唸りを上げる。紙が次々と排出されていく。
私は恐る恐る、出力された紙を手に取った。そこには、手書きのメモが印刷されていた。姉の筆跡。しかし、日付は今日のものだ。
『美咲へ
このメッセージが届くのは、きっと23時過ぎ。時間がない。
605号室は、ただの客室じゃない。それは境界の一つ。
でも、それを理解するには、まず真実を知らなければいけない。
このホテルの歴史の中に、隠された記録がある。1972年の火災事故。新聞には載っていない出来事。そして、消えた客室の謎。
美咲、あの日私が見たものは──』
そこで文章は途切れていた。インクが滲んだような跡が、残りの部分を判読不能にしている。
時計は23時55分を指していた。
男性客は既に立ち去っていた。いや、正確には気付いたら姿が見えなくなっていた。フロントロビーには、再び私一人きり。
しかし、もう迷っている場合ではない。姉からのメッセージは明確だった。1972年の火災事故。それが、すべての始まりなのかもしれない。
私はフロントデスクの奥にある、古い資料庫に向かった。埃を被った棚の中から、該当する年の記録を探し始める。
その時、背後で物音がした。
振り返ると、床に一冊のアルバムが落ちていた。古びた革表紙のアルバム。表紙には「ホテル・ミッドナイトパレス - 1972」と金文字で刻まれている。
ページをめくると、そこには衝撃的な写真が。
火災後のホテルの写真。しかし、現在の建物の配置と明らかに違う。そして、写真の隅に写り込んだ一枚の表札。
「605号室 - 管理人室」
その時、アルバムの間から、一枚の写真が滑り落ちた。
それは、現在の姉とそっくりな女性が写った古い白黒写真。裏には日付と名前が記されていた。
「1972年 佐々木麻衣」
私の体から、血の気が引いていく。
時計が0時を指そうとしていた。
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