セラナ、一撃をもらう

 静寂が、美少女と美青年を包んでいた。

 そこに風が吹くと、ひるがえる山羊皮の外套がいとうから美青年のたくましい胸板が、セラナの前に露わになる。


「おや、もしかして、俺さまの腹筋に見惚れた?」


 六つに割れた腹筋は彫像のように美しかった。それを見たセラナはその美しさに目を……。


くさい……」


 奪われてはいなかった。セラナは鼻をつまんで美青年から距離を取る。


くさい? 山羊ヤギの香りはこの世で最高にかぐわしいのに。それをくさいだなんて。君の鼻はどうなってるんだい?」


「いや、あんたの鼻の方がおかしいよ! ってか、あんた誰?」


 山羊皮の悪臭と寝不足でセラナは苛立ちやすくなっていた。その証拠に、突如現れた美青年に対面して僅か数分で、眉は吊り上がり、口はへの字になっている。


「申し遅れました。俺さまはアイヴィ王タゲス――神々を怒らせる所行をやっといて、未だに神罰が下らないなんてね――と対立中のプギア王ダプネス。花も恥じらう二五歳。この世で最高の美貌を持ち、一人で数百頭の山羊を育て、それを我らが父にして世界を照らし続けるヘルマイアスさまに捧げる美丈夫! そして」


「長い! あと、名乗りながら近づくな! 臭いんだってば!」


「え? 俺さまの顔を見たい?」


「言ってない!」


「しかたないなあ。じゃ、兜を取って、俺さまの美しい顔を見せてあげる」


「だから人の話を――」


 セラナは勝手に話を進めるダプニスに腹が立ち、両手足をムカデに変化させ始めた。


「人の話を、なんだい?」


 だが、ダプニスが兜を脱ぎ、その顔を陽光に晒すと瞬時に力が萎えてしまう。


 肩にまでかかる長さの、波打つ金髪。

 太陽のように、赤い双眸そうぼう

 髭が丁寧に剃られていることで際立つ、面長の顔。

 そして笑顔を作れることで発せられる、男の色気。


「あ、えーっと」


「おや? どうしたの? あ、まさか俺さまの美貌に惚れたとか?」


「ん、んな訳、ねえだろ」


 言葉では否定しているが、セラナは明らかにダプネス王の容貌に惹かれているようだった。


(セラナさん……?)


 木陰から彼女の姿を見ていたキプスの心中に嫉妬が渦巻く。


 どうしてあんな男に、あの人セラナは顔を赤らめているのだろう。

 あの男は不純で不潔なころもを、助平すけべな太陽神ヘルマイアスの愛する山羊皮を纏う不埒ふらちなやつなのに、どうしてあの人セラナは熱い吐息を……。

 僕の方が、あんな男よりもずっとあの人セラナを知っているのに。

 僕の方があんな男よりもずっと、ずっと……。


 ここでキプスはハッとする。


(僕、セラナさんのことが……)


 自分は『掟』を破りまくった。

 神殿に、タゲス陛下の国には戻れないのは確実だ。

 だけど、どうしてかそれに対する罪悪感が薄れていくのを感じていた。


 今までの自分なら……アイヴィから一度も出たことのない自分ならば、あり得ないことだった。


 でも、今の自分になら分かる。


 勝手な行動をしたことで、あの人セラナのことをすぐに陛下に通報しなかったことで、自分は未知の世界を知ることができた。


 『掟』を破れば死罪と教えられたが、それから三日が過ぎても自分は特に罰を下されてはいない。つまり、自分の行動は神々から正しいものと判断されている。だって、神々は悪事を見逃されず、必ず罰をお与えなさるのだと陛下に教えられたから。


 でも、あの男は確か「神々を怒らせる所行」を陛下がなさったと言ってたような。あれはどういう意味なんだろう?


「お、いいねえ。君の髪。いその香りが俺さまを興奮させるよ。ちょっと前に捕まえたゴロツキ共の放つ香りよりもずっと良い。ああ、永遠に嗅いでいたい!」


「おい、だから勝手に髪に触るな! 嗅ぐな! 鬱陶しい!」


 キプスが木陰で続けていた独白はダプネスが嫌がるセラナの髪を触り、香りを嗅ぐのを見たことで中断される。彼は視線をプギア王とセラナの双方に移し、その推移を見守る。


「……てかあんた、ゴロツキ共って言わなかった?」とセラナが尋ねる。


「ああ、言ったよ。君とは似ても似つかない、脛毛すねげ無精髭ぶしょうひげを生やした、黒服に身を包む野郎どもをね。あ、でも一人だけ小綺麗な奴がいたな。確かデメトリオとかいう」


「デメトリオ!?」


「知り合いかい?」


「ああ、あいつはうちの副船長兼雑用係なんだ」


「ってことは、君がデメトリオくんの言ってたセラナちゃん?」


「うん、あたしがセラナ。ムカデ海賊団の頭領さ!」


 得意げに自らの肩書を語るセラナ。対して、ダプネスはそれを聞くとにわかに顔を曇らせ、雲一つない青空を仰ぎ、大きく溜息をつく。


「な、なんだよ、急に」


「いや、これも運命の出会いなんだと思ってね」


「え?」


「昨日、俺さまはヘルマイアスさまに百頭の山羊を捧げて託宣を授かったんだ。俺さまは贄に捧げた山羊の心臓からそれを正しく読み取った。その内容を今思い出して、途方に暮れてしまったんだよ。だって――」


 ダプネスが次に放っていたのは、ユルタ河の岸に林立する木々を、枝に止まる鳥を、そしてキプスを震え上がらせる一撃。


「がはっ……」


 それを腹部に喰らったセラナはユルタ河を遡って吹き飛ばされ、女神キュベベが愛してやまなかったマンネンロウの木の幹に体を叩きつけられていた。


「お、お前、なにすんだ!」


 不意の出来事に怒りが抑えきれなくなった彼女は手足をムカデに変化させ、近づいてくるダプネスに立ち向かおうとする。


「ごめんよ。セラナちゃん。君のことは大好きだけど、これはヘルマイアスさまの御指示なんでね」

 

 うめく彼女にダプネスが近づいてきた時、ダプネスはさせていた。セラナがその臭いを嫌った、に。


「セラナちゃん。恨むなら俺さまじゃなく、『月の女神セラナ』の名をもつ君を殺せとお命じになったヘルマイアスさまにしてくれよ」


 ダプニスは冷酷な笑みで、セラナを見据えるのであった。

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