第25話 それは、対の片方――
「……もう、女じゃ……なくても?」
その言葉が耳に入った瞬間、世界が止まったかのように思えた。
雑音も、心臓の鼓動も、遠くで鳴く鈴虫の声さえも、遠ざかっていく。
聞こえるのは、となりにいる彼女の、かすかな息遣いだけ――
視線を落とすこともできず、ただ、隣に寄り添う彼女を見つめることしかできなかった。
荒れた部屋の埃が月明かりに揺れ、薄暗い空間に静けさが満ちる。
まるで時間そのものが、二人だけのために止まったかのようだった――
彼女は小さく肩を震わせながら、お腹に手を添え、もう片方の手でスカートの裾をぎゅっと握りしめていた――
その仕草だけで、胸の奥が締め付けられるようだった。
そして、静かに告白を続けた。
「……知ってるよね……私はもう……子どもが産めないって」
「……うん、知っている……あの時、一緒に居たから」
あの時――二年生になったばかりの頃、二人だけ生き残った日。
彼女が負傷し、後方の野戦病院で診てもらった時に、一緒に聞いた……
「……戦場のストレスで、生理が止まるなんて……思いもしなかった。
もう赤ちゃんは諦めなさい、なんて……
……もう、普通の女の子には、戻れない……なんて……
人は、生きるために、その環境に適応するために、不必要なものを捨てるっていうけど……
まさか、それがこれだなんて――」
「………………」
言葉は静かで、しかし胸を刺すようだった。
俺は何も言えず、ただ小さく頷くしかなかった。
人を殺すよりも、辛くて、どうしようもなかった――
彼女は続ける。
「私ね……赤ちゃん、産むのが夢だったの……」
軽やかな口調の裏に、深い哀しみが潜んでいる。
一言一言が胸の奥にずしりと響いた。
それは、諦めを知った人の言葉だ。
……これから、諦めざるを得ない……俺への……
「ねえ、天宮くんは知ってる……? 赤ちゃんって、好きな人を繋ぎ止めることができるんだって」
「……それは、どうして?」
「二人の……愛の結晶だから…… 」
彼女の瞳にわずかに光る涙。
俺は言葉を探すけれど、何も出てこない。
その沈黙を、彼女は優しく包むように続けた。
「好きな人と結婚して、赤ちゃん作って……つなぎ止めて……幸せな家庭を築いて……そして、一緒に死んでいく……
それが、私の夢だった……小さい頃からの、夢だったの……
だけど……その夢は、もう叶えられなくなっちゃった……
もう生きる意味を失ったから、あの時……私は……
死のうとした。
それを、天宮くんが止めてくれた……『俺が哀しむから』って」
胸が締め付けられる。
あの時の記憶が、鮮やかに呼び覚まされる――
新潟にいた頃、手榴弾を握ろうとした彼女を、必死に止めた。
どうやって止めたかは覚えていない。ただ、確かに言った――
『近衛さんが死んだら、俺が悲しむから』と。
そして、彼女を繋ぎ止めるために、あの時に――
「……ねえ、天宮くん……あの時の約束……まだ覚えている?」
「うん……覚えている」
「じゃあ……」
彼女は一呼吸置き、そして、”再び”問いかけた。
「こんな壊れてしまった私と、本当に結婚してくれますか?」
涙を滲ませ、肩を震わせ、身体に手を添える――
片方を心臓に、もう片方を失ったところに――
「もう、女じゃない……私と……」
「それでも……好きだって……言ってくれますか……?」
虚ろな瞳から、涙が零れる。
あの時と同じ告白――再現された瞬間だった。
手榴弾で自殺しようとした、あの時の――
なら……俺は――
彼女の告白を受け止めたまま、俺は静かに息をついた。
その胸の奥は、痛みと切なさでいっぱいだった――
そして、あの時と同じ言葉を、今度は確かな意志を込めて言った。
「山田さんは……俺にとって、大事な人だ……好きだから……」
「嬉しい……」
涙を袖で拭きながら、再び笑顔を見せる山田さん。
……その笑顔を見て、胸が痛む――
「――けど」
彼女の表情が、一瞬歪んだ。
申し訳なかった――
でも、言わざるを得なかった。
……あの時も、そうだったから……
……あの時、言えなかったことを、ここで――
「だけど……俺は、みーちゃんを忘れられない……だって、俺とみーちゃんは――」
「”
「……ついの、かたえ?」
彼女は小さな声で問いかけ、かろうじて震える唇を噛む。
胸の奥が、引き裂かれるようだった。
――それでも、俺は――いや、”ぼく”は”決意”した。
初めて、彼女に語り始めた。”ぼく”と、みーちゃんのことを――
辿り着いた……みーちゃんの部屋で……
「――”ぼく”と、みーちゃんは、いつも一緒だった。
小学校でも、休みの日でも……
風邪で休む日には、みーちゃんも同じように休んで隣にいてくれた。
逆に、みーちゃんが休んだ日には、ぼくも学校を休み、一緒に過ごした。
授業も、掃除も、昼休みも、放課後も――いつも二人一緒だった。
それほど、二人でいることが好きで……お互い、好きになった。
その日々が積み重なって、ぼくたちは互いに欠かせない存在になった。
いつまでも……これからも……ずっと――
……けど、その積み重ねが、同時に呪いにもなったんだろうな……」
「呪い……ですか?」
「ああ……離れ離れになって、敵国同士になって、ぼくたちは遠くなってしまったけど――決して消えない、あの積み重ねた日々が、未だにぼくたちを繋げてるんだ……」
ぼくは懐から、あの手紙を取り出し、そっと撫でる。
……右目に映る、みーちゃんを見ながら……続けた。
「……もし、あの子が死んでいたら……ぼくも後を追うだろう」
「……え?」
「どちらかが欠ければ、もう立ってはいられないんだ……
ぼくたちは、心でつながっちまってるから……
あの頃から、ずっと……たった三年間しか過ごせなかったけど、その三年間で、ぼくたちのキズナは強く結びついたんだ……
……ぼくたちは、鏡のように向かい合ってるから、合わせないとダメなんだよ……
鏡のように、互いを映し合う存在だから、どちらかが欠ければ、もう片方も壊れる……
小さな日々が積み重なって、ぼくたちを”対”にしてしまった……
かけがえのない、唯一の……初恋だったから……
だから、ここまで来た。
あの日の約束を胸に、止まった時間を取り戻すために。
瀕死の友だちをこの手で殺してまで、生き延びてここまで辿り着いたのは……ただ、その答えを確かめるためだった。
……今のみーちゃんを、確かめに。
ようやく、ここまで来たんだ……
けど、みーちゃんはもういない。
死んだ痕跡すらない。
……だから、もう、みーちゃんを諦めようとした……前に進むって、約束したから……
なのに――納得したいのに、まだ納得できない。
もう大人になるっていうのに……
子どもの頃の、淡い恋物語で終わらせるはずだったのに……
それでも、忘れられない……
みーちゃんが嫌いだった人殺しになっても、君と隣で寝ていても……
負傷して、生死を彷徨っても……
いつも頭に浮かぶのは、あの時のみーちゃんだけだった……
忘れることができないから……
ぼくの青春は、あの時別れた時から止まったままで――
だから――」
「ぼくは……いや、俺とみーちゃんは――」
――『対の片方』なんだ……――
……言葉を重ねた直後、部屋の空気は静まり返った。
山田さんはただ、唇を噛み、声を失ったまま――
沈黙が長く流れた――
その沈黙が、俺の胸を締め付ける……――――――
………………やがて、絞り出すように――
「……天宮くん」
儚くて、切なそうな声だった……
まるで、あの時と同じ……
――だから、俺は――
「ごめんね、山田さん……山田さんの気持ちもわかってるんだ……だけど、どうしようもないんだ……本当にごめんね……こんなイカレタ俺を、好きになってくれて……でも――
忘れたくても、思い出してくるんだ……だから――」
……そう言って、俺は――手紙の真ん中を両手で掴んだ。
指先に触れただけで、今にも崩れそうに脆い”みーちゃんの痕跡”
それが、今の俺たちの繋がり――
「……天宮くん? なにを」
「……この手紙を、破り捨てる」
「っ!?」
……そうだ。納得できないなら、納得する努力をすればいい……
……そうすれば、いずれは――
そうだ。対の片方だとしても、会えないなら、どうしようもないじゃないか……
……もしかしたら、きっとみーちゃんも俺のことを忘れて、今ごろは別の男と――
【 本当に? 】
一瞬、誰かの声が聞こえた。
聞き覚えのある、声をしていた。
……錯覚か。
ともかく、震える手でその端を掴み、破ろうと力を込めた、その瞬間――
「……っ、天宮くんッ!!」
山田さんの声が鋭く走った直後、彼女は咄嗟に俺の手首を掴み阻止した。
その力は震えているのに、驚くほど強かった。
けど、なんで止めるのか、その事に一番驚いた。
「山田さん、何を……?」
「それを破ったら……あなたが壊れる!」
「壊れるって、もう壊れているよ……ぼくは」
「それでも、あなたには大事なモノですよっ、その手紙はっ!」
「……前に進むって約束したんだ……君にも、親父にも……だからッ」
「前に進むことと、切り捨てることは違う!」
彼女の声が涙で滲む。
その潤んだ瞳が、俺を真っ直ぐに射抜く。
その叫びに、俺の指先は震え、動きを止め、引き裂く力が消えた……
「……山田さん」
「あなたは、あの日の手紙で生きてきたんでしょう?
破ったら……きっと、あなた自身が消えてしまう!!
私はっ……今まで隣で見てきたから、わかるんです!!!」
彼女の必死の声に、胸が締め付けられる。
……言われて、気付いた……
そうか――俺はこの手紙に縋って、生きてきたんだ……
この手紙が、みーちゃんの手紙が、俺との細い糸で、
――生きる糧なのだと……
そう思った瞬間、俺はゆっくりと力を緩め、破ろうとした手紙を自然と胸に押し当てた。
山田は、泣きそうな顔のまま、それを見つめていた。
”みーちゃん”も、笑顔のまま、俺を見つめている。
……だけど。
「……なら、どうしたらいいんだろう……」
声はかすれ、答えを求めるように宙をさまよう。
前へ進むことと、切り捨てることは違うと、彼女は言った。
なら、俺はどうしたらいいんだ?
彼女に、みーちゃんのことを初めて言ったこの状況で……
……みーちゃんがいないこの状況で……
このまま繋がったままの状態で、どう目の前の彼女と向き合えばいいんだ?
みーちゃんを忘れられないまま、このまま彼女の隣に立ち続けたら……山田の心が壊れてしまう。
だけど、忘れるなんてできない。
袋小路のような答えのない迷路に、自分を押し込めてしまったような感覚だった。
「……山田さん……俺は……どうしたらいい……?」
震える声で問う。すがるように。
初めて彼女に弱さをさらけ出した……
……きっと、軽蔑されているだろう……
そう思いながら、彼女の顔を見た。
山田さんは、潤んだ瞳を揺らしながら、それでも微笑みを俺に見せていた。
その微笑みは、あまりにも切なくて、あまりにも優しかった。
そして、綺麗だった……
「いいんですよ……」
「……え……?」
「あなたが壊れないなら……私は、このままでも」
肩を小さく震わせながらも、彼女は言った。
それは諦めの言葉ではなく、差し出すような言葉。
自分を犠牲にしてでも、俺を守ろうとする覚悟の言葉だった。
「私は、あなたの痛みも、みーちゃんへの想いも、全部受け入れます。
だから、忘れられなくてもいいんです……それでも――隣にいさせてください」
そして、そのことを証明するように、彼女は俺を抱きしめた。
彼女の匂いが強まり、胸の奥が強く揺さぶられる。
彼女は、その言葉の通りに自分を犠牲にしてでも、俺を救おうとしている……
そんな優しさに触れる資格なんて、俺にはないのに……
なのに……
「……泣いても、いいんですよ」
彼女の優しい声音が、俺の心に開いた穴を塞いでいく……気がした。
人を殺していく内に開いていった無数の穴が――
みーちゃんを失ってから大きく広がっていった穴も――
その優しさに喉の奥が震え、涙が込み上げてくる……はずだった……
頬は乾いたままだった。
あの日、みーちゃんとの別れで、もう泣き枯れてしまったから……
だから、泣けなかった……
だから、泣けない代わりに、言葉にした……
「……ありがとう……山田さん……好――」
【 ザアァァァ―――― 】
金属を擦り合わせるようなノイズが、頭の奥に広がる。
俺の声すら、砂嵐に呑まれて消えていった。
そして――ノイズが消えた直後、世界が一拍、息を止めた。
ぽっかりと穴が空いたような空白が訪れた。
……何も聞こえない。
抱きしめている山田さんの声も、聞こえるはずの胸の音も、自分の音すらも……
まるで、この世界と切り離されたような静寂だった。
そこに――
【 みーちゃんよりも? 】
……その声に、背筋が凍りついた。
思い出した――そうだ、忘れられるはずのない声。
――あの子の声が、確かに耳の奥に届いた。
みーちゃん――
「――もです……好きです……天宮くん」
現実に引き戻すように、山田さんの声が震えながら届く。
涙を拭いもせず、彼女は必死に笑顔を作っていた。
「ずるい女です……私は……こうでもしないと、好きだった男の子が、どこかに行っちゃいそうで――」
……その言葉に胸が詰まる。
ずるいのは俺の方だ。みーちゃんを抱えたまま、それでも目の前の彼女を失いたくないと思っている……
だから、俺は受け入れることにした。
証明するために――ゆっくりと、彼女の肩に手を置く。
その手には、まだ”みーちゃんの手紙”が握られていた。
捨てきれない過去を抱えたまま、俺は山田さんに触れた。
「山田さん……」
触れれば壊れてしまいそうな細い肩は、しかし驚くほど温かかった。
彼女は震える指で、俺の手を握り返す。
「……天宮くん」
彼女の唇が、ゆっくりと閉じられる。
わずかに震える
受け入れる準備をするその姿に、俺は迷いを飲み込み、顔を寄せる。
――そうだ、前に進まなければ。
答えを出さなければ。
……例え、みーちゃんに恨まれたとしても……
もう、逢えないのなら、仕方がないだろ……
だから、ゆっくりと距離を詰めた。
距離が縮まる……呼吸が混ざり合い、互いの吐息が熱を帯びる。
彼女の涙に濡れた瞳が閉じられ、わずかに開いた唇が俺を受け入れようとした――その瞬間。
視界の端に映ったのは、握りしめた手紙だった。
――唇と、手紙。触れそうになった二つの間で――
【 嘘つきのくせに…… 】
――ガシャァァンッ!
窓ガラスが砕け散り、凄まじい衝撃音が部屋を貫いた。
舞い散る羽毛と埃が月明かりに弾け、白い光の中で宙を舞う。
次の瞬間、俺の手の中にあった――
“みーちゃんの手紙” が、撃ち抜かれていた。
※続く
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