春と悪夢とチョコレート(下)

 小さい頃からあまり夢を見なかった。

 時々見る夢はだいたい起きる頃には忘れてしまった。忘れてしまうならそう大した内容ではなかったのだろう。それはたぶん、今も。

 ぐちゃぐちゃになったシーツと、枕と、それから前で結ぶだけだったのではだけてしまった寝巻きを整え、私は身支度を整えた。鏡に映る私は、うつ伏せで泣き腫らしたせいで酷い有様になっていた。こんなに悲しくて、投げやりになっても、心臓は止まることなく動き続けている。私は、こんなところで何をしているのだろう。こうしている間にも、フユキはひとりであの家にいる。あの子のことを考える。透明になったフユキと、どう生きていけばいいのか迷った。声も聞こえず、姿も見えなくなってしまった彼女を、果たして彼女と呼べるのか考えた。当事者でない私ですら、足元が急に見えなくなるような不安に陥る。あの子は、今ひとり部屋で何を思うのだろう。考えても、仕方のないことだった。

 

 私は泣き腫らした顔を隠すためにマスクを着け、ホテルの朝食バイキングに向かった。焼きたてのパンと、バターの匂いが鼻先を掠めて、胃がぎゅるぎゅると動くのがわかる。どれだけ感傷に浸り切ろうとしても、私の体は生きようとしていた。平日のまばらな客足のおかげで、バイキング会場はずいぶん空いていた。曇り空なのが惜しいが、外の景色は澄み渡っている。

 私は大きなプレートを手に取り、片っ端から様々なものを載せた。櫛形に切られた大きなオレンジ、輪切りのキウイ、ヨーグルト、コーンフレーク。フユキはだいたい、こういうのばかり食べる。あの子の喉を通るのはお菓子みたいな、食事というにはあまりに軽すぎるものばっかりだった。ひじきの煮物、ちいさな鮭の切り身、白米、味噌汁、綺麗な卵焼き、味付き海苔もある。お腹が空いているせいか、目の前の食べ物全てが輝いて見えた。私のプレートの雑然と積み上がる食べ物の山に、隣の人が何か言いたげな視線を向けている。

 自分の席に戻って、深く息を吸った。

「いただきます」

 白いテーブルクロスの貼られた丸テーブルに一人。私は戦いでも挑むように片っ端からものを食べた。よく噛んで、絶対に一粒だって残さないように。自己嫌悪で泥沼に沈んでも、事態は好転したりしないことを私はよく知っている。何もしないで立ち止まるより、みっともなくとももがく方が良い。でないと、取り返しがつかなくなってからでは遅いのだから。ちょうど、私と大輝のように。もしくは私の大っ嫌いな物語の終わりみたいに。私なら、きっと好きなひとを友達に譲ったりしないし、どこかに消えようとしても世界の果てまで追いかける。電話ボックスの向こうから、隔てられた世界に言葉を投げたりしない。 誰も恋人が透明になった時の対処法を教えてくれない。だから、私は自分なりのアプローチをしてみるしかない。それが間違っているのか、正しいのかも、誰にもわからない。それでも、絶望するにはまだ早すぎる。

 そして私は腹ごしらえを終えて、部屋を片付けて、忘れ物がないか確認して、ホテルをチェックアウトした。

 腹が満たされ、脳に糖が回り始めると、あんなに冷たかった指先に熱が灯る。血液が巡る感覚にむねをなでおろす。私はまだ歩ける。

 

 江ノ島の一番上の灯台に登るつもりだったけれど、そんな気分にはなれなくて鎌倉に戻る。少し高価だけど、お土産にはちょうど良いチョコレートを買う。ここは、フユキが教えてくれたお店だった。大学生の時分の私は、とにかくこういうおしゃれな雰囲気のお店に入ることに抵抗があった。未知への恐怖というか、こんなおしゃれな場所に自分がいていいのだろうか、という不安と疎外感によるものだった。けれど、入ってみればそこはなんでことはない。誰も私のことなんて気にしてはいなかったし、フユキの足取りは淀まなかった。なぜかそういう時の彼女の背中はとても頼もしく見えた。そういうところが、好きだった。

 ガラス張りの日が差す店内は清潔で、温かみのある木材の棚に商品が並んでいる。そこはショコラトリーというチョコレートを専門で扱うお店なので、店内からはカカオの香ばしい匂いがしていた。イートインスペースでは観光客や地元の人で賑わっている。和三盆とカカオを練り合わせた聞いたこともないようなお菓子の試食が置いてある。お店の人に一つどうですか、と勧められて摘む。それは舌の上に乗せた瞬間、綿雪のように一瞬で溶けてしまう。

 白と黄色の綺麗な包装紙に包まれたそれと、二人でつまむ用のチョコレートを買う。あと、駅前で鳩の形をしたサブレーを買って帰ろう。家に帰って、二人でそれを食べながら話がしたい。たとえ、あの子の声が無機質な読み上げ音声でも、そこにいてくれるなら。

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