トリガー (下)
駅に着くと、大輝はごそごそとダウンのポケットを漁り、交通系ICカードを取り出した。大輝は何か奥歯に挟まったように、私の方に視線をよこした。すれ違う人が、大輝の大きな身体を障害物のように避けていく。
「今日は来てくれてありがとうな」
大輝が言った。私は、さっきの彼の言葉についてまだ考えていた。私はため息をついた。
「……お前って呼ぶのが嫌い」
私は言った。
「なに?」
大輝がこちらを見た。
「嫌っつってんのに頑なにムラカミって呼ぶ無神経さが嫌い」
私は続けた。
「えっ、何」
「パートナーを大切に出来ないところが人として最低」
私は言った。何回も、それこそ高校生の時も、大学生の時も、大人になっても、私は大輝に言い続けた。同じ意味の事柄を、言葉を変えて、遠巻きに、嫌味混じりに、時にストレートに。でも彼は聞かなかったし、取り合わなかった。だから今がある。
「……もういいって、ハルキ」
「気安く名前で呼ぶな」
私は言った。心の底から、嫌悪を剥き出しにして。
「ほんとに傷付くからやめてくんね?」
大輝が泣くのをやめた。けろりとした物言いはとても傷ついているようには見えなかった。あるいは、あえてそう振る舞うことで、私の言葉を矮小化しているようにも思えた。
「優しくして欲しけりゃ、あんた自身を大事にして、あんたを大切にしてくれる人を見つけな」
きっぱりと私が言うと、大輝はそれきり押し黙り、口をへの字に曲げて、改札を通った。そうして、こちらを振り返らずに電車に乗った。彼がいい加減、私にあの鬱陶しい視線を寄こさなくなるよう祈った。大輝は根こそぎ引き抜いても芽吹く情のようなものを、持ち続けている。たぶん、あの男は私のことなんててんで眼中にない。なのに被害者のような振る舞いをする。だから私は大気が嫌いで、大輝は私のことを求めた。
たぶん、もう大輝には会わないだろう、と確信めいた予感を持ったまま、私も家路についた。あの子が待っている。
ムラカミと呼ばれるのは嫌いだったけど、ハルキという名前は好きだった。
ゴッホの描いた、アーモンドの木に咲く小さくて白い花を連想させるから。男の子みたいな名前だ、と言われることもあったし、でもそれが私の魂にピッタリと張り付くような気がして、気に入っていたから特に問題はなかった。それと同じくらい、奪われるのが気に入らなかった。
「ほんとうは、桜になる予定だったの」
と母は言った。その時、庭の外の植木鉢が風で強く押されて、梅の花がぼたぼたと落ちるのが見えた。何が、と私が続ける前に、リビングのソファに寝転がっていた父がむくりと身体を起こした。ちょうど日が当たる場所に陣取る姿は、太っちょの野良猫のようだった。
「でもなんだか、それじゃあ駄目で……変よね、なにがだめだったのかな」
母は首を傾げた。ダイニングテーブルには、母の食べかけのクッキーが置かれている。私は自分の分を食べてしまったので、それを羨ましそうの眺めた。チョコレートのかけらがたくさん練り込まれたクッキーは、私の大好物だった。
「あれだ、確か。俺の大叔母さんと名前の響きが被るから、紛らわしいしやめようって言ったんじゃないか」
父が言った。
「違うんじゃない……あなた、大叔母さんになんて滅多に会いに行かなかったじゃない」
櫻子おばさんは、私が小学生の頃にこの世を去った。私の覚えている彼女は、痩せていて、物悲しくて、でも満ち足りていた。父方の曽祖父によく似て、怜悧で酷薄な美貌の持ち主だった大叔母はたいそう恋多き人だったという。同じ血を引いているはずの父は、驚くくらいに凡庸で、腹が出ていて、そうして母以外の女には目もくれなかったという。
「お前が、木蓮と桜で迷ったから、どちらの意味も内包している「春の木」になったんじゃなかったか」
父がふうむ、と自身のたるんだ下顎をぺちぺちと叩きながら言った。そこには上野のパンダのような奇妙な愛らしさがあった。思春期の頃は、この愛らしさもゆるさも、鬱陶しくて大嫌いだったのに、人は変わるものだ。ごましおのようにまだらになった父の髪色に、流れる歳月を感じた。
「それなら「春の花」ではるかじゃない」
母がのほほん、と言った。
「……つまり、どっちも覚えていないってこと?」
私は言った。
「それだけ悩んだんだってことだ」
父がしみじみと言う。
「そうそう、あんたに贈る最初のプレゼントなんだから」
母が新聞を開いた。へえ、と私は相槌を打った。それきり、部屋には父が見ているバラエティ番組の笑い声だけが響いていた。照れるくらいなら、初めから言わなきゃいいのに。
あの日は、世界中が凍りついたんじゃないかと思うくらいの寒さで、都心では珍しく雪が降っていた。私は出勤を諦めてリモートで作業をしていたし、フユキも職場から従業員の安全のためお休みの通達をもらっていた。だから私たちは、お互いに同じ場所にいて、でも違う方向を向いてそれぞれの作業をしていた。私は自分のデスクで作業をしていたけれど、集中力が切れてしまってたので、何か甘いものを食べようとリビングに向かった。
フユキはそこで作業をしているはずだから、いるだろうと思ったのに、彼女の姿はなかった。玄関には靴があった。だからきっと外には行っていないだろう。彼女が雪の中に飛び込みたいわけでないなら。
彼女は、ベランダにいた。つっかけのサンダルを履いて、上にはカーディガンを羽織っていたけれど、それで防げるような寒波でないのは誰の目にも明らかだった。フユキは、まるで投げ出されたようにそこに立っていた。
「……フユキ?」
私はベランダ越しに彼女に声を掛けた。けれどそれは、ガラス反響して雪に吸収され、あちらまで到達しない。だから、私は仕方なく窓を開けた。びゅう、と突き刺すような冷たい風が吹きぬけていく。
「フユキ、風邪引くよ」
私が部屋から大きな声を出すと、彼女はくるりと身体をこちらに向けた。そうすると、短く切られた髪がふわりと揺れて、耳や頬を撫でて元の位置に戻る。
「……うん」
フユキは、うっすらとぎこちなく微笑んだ。瞼が寒さで引き攣れたように動く。
「どうしたの?」
「ちょっと、雪を見たくて」
フユキが言った。鼻先が赤くなっている。
「窓越しでもいいのに。風邪引くよ」
「なんとなく、直接見たくて……」
フユキは、私と会話しながらもまだ意識を遠く雪の方へやっていた。冷たい方へ、寒い方へ、灯りから遠ざかるみたいに。たまらず、ぐいと彼女の腕を掴んで強引に部屋に引き摺り込んだ。そうしなくてはいけないと思っ
「……危ないよぉ」
フユキの身体をかき抱く。体温を根こそぎ奪われるのも構わず、私はフユキの手を強く握った。
「あなた、だれ」
私は彼女の固く閉ざされた手のひらを開く。
「……フユキだよ」
「本当に?」
「本当だよ」
鸚鵡返しのように、彼女が、フユキが呟いた。部屋の中は暖房がついているのに、彼女の体氷そのもののような手触りをしていた。
「私以外に、ならないよ」
フユキは、ずびと鼻を啜りながら言った。
「今日はね、兄さんの命日なんだ」
と、彼女は言った。
生まれてくる前に、もう死んでいた男の子。名前もなく、記録もなく、ただ両親の記憶にだけ存在していた兄。
「フユキっていうのは、本当は兄さんの名前なの」
「……そうなんだ」
私は言った。
「ひいらぎ、に冬の木って、安易だよねぇ」
フユキは淡々とそう言った。海外では、親類から名前をもらって子供をジュニア、と呼ぶこともある。例えばハルキならハルキジュニア、古代の魚の名前みたいだと思った。
「私は好きだけど」
「ありがとう、私もハルキと対になるからこの名前が好きだよ」
フユキは言った。フユキの、平熱の言葉に私だけが馬鹿みたいに心臓を回している。私の好きなもの、チョコレート、ハッピーエンド、それから、フユキ。それだけで充ちているのに、どうしたって私たちはひとつになれない。それが悲しい。
大輝の、あの肌を焦がすようなひりついた視線を思い出した。幼馴染が、全くの別人に変わってしまったような、あの熱。
私と大輝の間にあった情は、もう変質して戻らなかった。私は大気の想いには決して応えられないし、応えたくもない。でも、あの時彼がそっと差し出したものを受け取りもせず投げ捨ててしまったことを、少しだけ後悔した。謝りはしないけど、過ちは残ったままだけど。
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