第十八話:願い
「結婚結婚、って───」
一気に涙を浮かべた黒石もまた、勢いをつけてその場に立ち上がった。
「結婚することだけが幸せなんて、ふざけたこと言わないでよ!!
父さんも母さんも、自分は幸せだなんて、一度も言ったことないくせに!
毎日毎日目も合わさずに生活して、この結婚は失敗だったって、お互いにぼやいてたくせに!
そのくせ、わたしにも同じことをしろっていうの!?いつか産まれるわたしの子供にも、わたしと同じ思いをさせろっていうの!?」
「知った風な口を利くな!!」
「知らないのはそっちでしょ!?
姉さんが出てったからって、わたしに全部背負わせようとしないでよ!!」
黒石の涙が、手入れの行き届いたペルシャ絨毯に滴り落ちていく。
「なっ……。
実波のことは関係ないだろう!」
「あるよ!姉さんが思う通りにいかなくて、だからわたしで補おうとしてるのよ!
今なら、姉さんが出てった理由がよく分かるわ。こんな最低な両親に挟まれてたら、頭がおかしくなるでしょうからね!」
あまり話題に上がってこなかった、黒石の四つ歳上のお姉さんの名前。
黒石いわく、三年ほど前に出奔したきり、ほぼ消息不明の状態が続いているという。
原因は言わずもがな、ご両親だ。
お姉さんには学生時代からの彼氏がおり、その彼氏との仲をご両親が引き裂こうとした。
今まさに、私と黒石にしているように。
つまりお姉さんの出奔は、彼氏との駆け落ちが目的だったわけだ。
『───大輔さんとは、どう?上手くいってるの?』
『大丈夫。仲良くやってるよ。
……それより、真咲のことよ。そっちこそ大丈夫なの?』
『なにが?』
『父さんと母さんのこと。
私がいなくなったら、次は真咲が、その役目を負わされるんじゃないかって……。』
『……大丈夫だよ。
わたしには、そこまで期待してないみたいだし。
大輔さんみたいな、彼氏とかも、わたしは、いないし。』
『……頼りないお姉ちゃんかもしれないけど。
困った時は、絶対、力になるから。』
『あはは、大げさ〜。』
『一人で背負いこまないで、相談してね。
真咲も人生、自分の人生、好きに生きていいんだからね。』
『……うん。
ありがとう、お姉ちゃん。』
予想外の展開に、ご両親は怒髪天。
二度と黒石家に寄り付けなくなったお姉さんだが、妹の黒石とは時おり連絡をとっているらしい。
それによると、件の彼氏と本州へ移り住み、近頃は入籍の話も出ているとのこと。
故にこそ黒石は、是が非でもご両親を説得しようと、今日に臨んだのだ。
こっちも心配いらないと背中を押してやらなければ、お姉さんはいつまでも自分の幸せを掴めないから。
「ッよくも───!」
かっと目を見開いたお父さんが、こちらに詰め寄ってくる。
お父さんの腕が、黒石に振りかぶられる。
殴られる。
悟るより先に、私の体は動き出していた。
「おだ─────」
お父さんの腕が振り下ろされる直前、私は黒石に抱きつく形で覆いかぶさった。
"尾田さん"と、ようやく黒石の声で聞き取れた名前は、最後までは聞こえなかった。
「な………!」
背後からお父さんの視線を感じる。
テーブルの向こうでは、お母さんも唖然としていることだろう。
黒石だって、どうしてって、困惑しているかもしれない。
親子の対話に水差してごめん、黒石。
ほとぼりが冷めるまでは、控えていたかったんだけど。
なんか、我慢できなかった。
自分が痛いのより、黒石が痛いかもって方が、我慢できなかったよ。
"───尾田さん、といったね"。
黒石を抱いたまま、首だけでお父さんの方に振り返る。
私と目が合ったお父さんは、困惑から
屈辱、やがては畏怖の表情へと変わっていった。
"君のように育ちの良さそうなお嬢さんなら"。
そう言ってもらえたことは、お世辞でも皮肉だとしても、嬉しかった。
出来れば最後まで行儀よく、人並みに思ってもらえる女でいたかった。
"真咲にとって、なにが本当の幸せか、わかるよね───?"。
すいません、お父さん。
ここまでされて、取り澄ましていられるほど、私は賢くないし、落ちぶれてもいないんです。
「……もういい。
お前など、私の娘ではない。どこへ行くなり勝手にしろ。」
我に返ったのか、お父さんは襟を正した。
踵を返して、リビングを出ていこうとする。
「まっ、あなた……!」
お母さんが慌てて呼び止めるも、お父さんは立ち止まらない。
誰の声にも聴く耳持たずで、ドアに向かって歩みを進めていく。
娘ではない。
捨て台詞の内容から察するに、お父さんは黒石を勘当するつもりなんだろう。
ただの脅しやブラフでないことは、今までの言動が裏付けしている。
縁を切る。関係を解消する。
関わらなければ、巻き込まれない。
結婚を急がされることも、親孝行を強いられることもない。
もう一度、黒石を見る。
どこか安堵したような、憑き物のとれたような、安らかな顔をしている。
それでいて、最早どうにもならないと、諦めに身を委ねた姿がそこにある。
腐っても本懐は遂げた、かもしれない。
私たちの目的は、縁談の件を白紙に戻すことだったのだから。
無理にご両親を説き伏せる必要はなく、いっそ絶縁するくらいで良しという考えも、見方によっては有る。
「待ってください。」
でも、違う。
私は、黒石と二人で話すのが好きなだけ。
私以外に話し相手のいない黒石を、望んでいるわけじゃない。
私は黒石を、一人にさせたいんじゃない。
「もう少し、もう少しだけ、聞いてください。」
「いいよ、尾田さん。」
「お願いします。もう少しだけでいいんです。
どうか、ワタシの話を聞いてください。」
黒石の制止を無視して、お父さんの背中に呼び掛ける。
すると、ドアノブに手をかけようとしたところで、お父さんがこちらに振り向いてくれた。
冷ややかな無言と無表情。
留まってはくれたものの、戻ってきてくれる様子はない。
続きを話したいなら其処で言え、此処で聞く、というわけか。
いいさ。なんでも。
応じてもらえるなら、どんな態度だろうと構わない。
犬のように這って床を移動し、テーブルの傍から離れる。
腕も足も、隠せるものは何もない。
ここからは、私の直感だけが頼りだ。
「先程、いつか、理想の男性と出会ったなら、真咲さんとの関係を後悔するだろうと、仰られた時。少し考えました。」
「確かに、ワタシたちは、夫婦にはなれません。子供も作れません。
生粋の同性愛者でない以上、互いよりも心惹かれる異性に、いつの日か出会うこともあるかもしれません。」
「でも、ワタシは、彼女と関係を持ったことを、きっと後悔しません。
同性だから惹かれたんじゃなく、真咲さんだから、好きになったんです。」
前に何を言ったか、次に何を言えばいいか。
霞がかった頭から湯水のように感情が湧き、引きつった唇が自動的に言語化していく。
思考停止と饒舌多弁が両立している。
アスリートでいうゾーンとやらが、私の中で燃えている。
「もし彼女が、心から愛する男性と出会ったなら。
その時は、潔く身を引きます。絶対に邪魔したりしません。
ご両親が望むのであれば、二度と彼女の前に現れない覚悟もします。」
「ですから今は。
せめて、心から愛する男性と、まだ出会えていない今は。
彼女の思うまま、息をさせてあげてください。
ワタシに、彼女を支える許しをください。彼女と一緒に生きることを、許してください。」
「そのためなら、ワタシは、どんな努力もします。辛いことも耐えます。」
「だから、どうか、お願いします。
せめて、今は。今だけは─────」
床に手を突き、深々と
瞼を閉じ、息を殺し、神経を研ぎ澄ませる。
「私たちの手を、無理に離すことだけは、しないでください。」
"───だったらさ"。
芝居を打っていたはずだった。
恋人のフリをするのが、私の役目のはずだった。
"ワタシを仮の恋人にすんのって、どう?"。
何気ない提案のつもりだった。
失敗したらしたで、すぐに切り替えられるつもりでいた。
"できれば、もう少しだけ。あともう少しだけでいいから。
わたしに、騙されたままでいて。
クリスマスの延長を、もう少しだけ、させて"。
本音と建前が逆転していく。
"育ちの良さそうなお嬢さん像"が崩壊していく。
"1時間でも、30分でもいいから、ここにいて。
わたしは、貴女に興味がある。貴女の話を聴いてみたいんです。
どうか、わたしとお喋りを、してくれませんか?"。
だって私、馬鹿だもん。
借り物の台本を覚えられるほど、とっさのアドリブでカバーできるほど、場慣れしてないもん。
ユリアじゃなくなった私が、大事な友達の前で、上手に嘘をつけるわけないんだもん。
"きゃらめるしんどろーむのユリア、さん───?"
やっと、気付いた。
芝居じゃない。
黒石のためじゃない。
私が、そうしたかった。
私が、それを望んだんだ。
『───正直言うと、すごい憂鬱だよ。
こんなことでもなければ、滅多に顔出さないしね。
途中で気持ち悪くなったり、しないといいけど。』
黒石の愚痴を聴くのは私がいい。
『───ごめん。またみっともないとこ、見せちゃったね。
だめだなー、わたし。尾田さんの前では、ちゃんとしていたいのに。
尾田さんの前だと、逆に、カッコつかないみたい。』
黒石の醜態を見るのは私がいい。
『───いつもありがとう、尾田さん。
こんなに優しくて綺麗で、たのしい人、わたしが男だったら絶対、ほっとかないのにな。』
黒石の涙を拭うのも、黒石の肌に触れるのも、黒石と熱を分け合うのも。
ぜんぶぜんぶ、私がいい。
"ユリアちゃん"。
"尾田さん"。
黒石が眠れない時、疲れた時、誰かに縋りたくて堪らない時。
一番に駆け付けるのが私がいい。
手持ち無沙汰でいる黒石や、気詰りになった黒石が、ぼんやりと空でも眺めた時。
あの人はどうしているかと、ふと思い浮かべるのが私がいい。
黒石の隣は、私がいい。
今までも、これからもずっと。
いつか黒石が、私を好きじゃなくなるまで。
私は、黒石と一緒にいたい。
彼女と一緒に、生きていきたい。
借り物なんかじゃ足りないくらい、私はもう、黒石のことが。
「───尾田さんっ………!!」
あのあと、私たちはどうなったのか。
今となってはもう、ほとんど覚えていない。
ただ、気付いた時には、大泣きした黒石に抱きしめられていて。
黒石を抱きしめ返した私も、負けじと大泣きしていたことだけは、深く印象に残っている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます