第十六話:怒り
「───尾田さん、といったね。」
長らく沈黙していたお父さんが、重い口を開けた。
話し掛けられたのは、言い争っていた黒石でもお母さんでもなく、私だった。
「君は、真咲とのことを、真剣に考えているんだね?」
「はい。」
「本気で、真咲のことが好きなんだね?」
「はい。」
幼子に絵本を読み聞かせるかのような、やさしい声。
私の胸に真っすぐ入ってきたのと同時に、黒石の掌からも温もりが伝わってきた。
さすが、議員を任されていただけのことはある。
感情的なお母さんと比べて、お父さんの方は幾ぶん話が通じるかもしれない。
「だったら。
真咲にとって、なにが本当の幸せか、わかるよね?」
安堵しかけた、次の瞬間。
やさしかった声に、棘が生えた。
既に私の胸に入っていたそれは、私の心臓すれすれで弾けた。
"わかるよね"。
やばい。
やばいやばいやばい。
いたい。
胸がいたい、喉がいたい、頭がいたい。
動いたら、涙が落ちてしまう。
喋ったら、悲鳴が出てしまう。
そうしなくても、そうだと分かってしまう。
この人は、私を見ていない。
否、私を見る気がない。
この人の目には、ただの女の姿だけが映っている。
清らな娘をたぶらかそうとする、得体の知れない同性愛者の女という、記号化された輪郭ばかりが映っている。
こちらを向いた瞳の奥で、黒光りした銃口が、今か今かと撃鉄を待っている。
「……どういう意味、でしょうか。」
「おや。
君のように育ちの良さそうなお嬢さんなら、言わずとも分かってくれると思ったんだが。」
「お父さ───」
「お前は黙ってなさい。」
助け舟を出そうとした黒石を、お父さんが直ぐさま撥ね付ける。
お母さんとは口論できても、お父さんには意見さえままならない。
どうやら黒石にとっても、真に相性の悪い相手はお父さんのようだ。
「尾田さん。
友人なら知っていると思うが、真咲はとても優秀な子なんだ。
頑張り次第では、後世に名を残せるくらいにね。」
「……そう、ですね。ワタシもそう思います。」
「だからね。
私たちは、愛する娘の将来を、潰すようなことをしたくないんだよ。
いい女性は、いい男性と結婚をして、子供を産んで母親になるのが、一番の幸せなんだから。ね?」
「それ、は……。」
「私も妻も、なにも君を悪者にしようというのではない。
ただ真咲にも、人並みの幸せというものを、知ってもらいたいだけなんだ。ね?」
どんなに気難しい人でも、差別意識を持った人でも。
根気強く訴えれば、いつかは分かってくれるはずだと信じていた。
私を金で買った男たちにさえ、娼婦という生業に理解を示してくれる人がいたのだから。
けれど、この人は。
この人のこれは、世間一般の差別とは違う。
この人は私を、"程度の低い人間"と見定めているのではない。
"人間"として、見做していないのだ。
こわい。
こんなやつがいるのか。
こんな、上っ面の言葉だけでも、絶望を突き付けることの出来るやつが。
「よく考えてごらん。
君だって、パートナーにするなら異性の方がいいだろう?
どういう事情があって、真咲と一緒にいるかは知らないが、真咲と同じくらい信頼できる男性に出会ったなら、そっちを選びたいと思うはずだ。」
「君たちのそれは、所詮は友情の延長。
単にご縁が少ないのを、互いしか居ないことにしたいだけだ。
きっともっと沢山のことを経験すれば、本当の運命の相手を見付けられるはずだよ。」
悔しいことに、お父さんの言い分は、的外れではない。
事実、私たちは本当の恋人じゃない。
イイ男に巡り会えたらその時は、という考えも無くはない。
それでも。
いつか誰かに、別のイイ人に巡り会ったとしても。
私たちの間にあるものは、絆なんかじゃなく、凝り固まった排他主義なんだとしても。
私は真咲と、離れたくない。
真咲と恋人ごっこをしている今日を、後悔はしない。
「分かったら、尾田さん。
貴重な20代が無駄にならない内に、不毛な行為に耽るのはやめなさい。
自分のせいで友人が傷つくのは、君だって本意じゃないだろう?」
「そうよ。その通り。
あなた達はまだ、本物の愛を知らないだけ。
友達だというなら、尚更そう。潔く身を引いてやるのも、相手のためだとは思わなくて?」
わけわかんなくなってきた。
ご両親を説得しようって、息巻いてたのは覚えてるのに。
なんの説得に来たかが、思い出せなくなっちゃった。
黒石のため。
私が身を引いた方が、黒石のためになる?
黒石の幸せを願うなら、私の存在は不要?
でも黒石は、そんなことないって言ってくれた。
私を必要だって言ってくれた。
でもご両親は、私がいない方がいいって言ってて。
自分たちの方が、黒石のことを思ってるって言ってて。
だから私は、黒石の。
黒石は私の、だから。
そういえば私って、黒石のなんなんだっけ。
「……そう、ですね。
お二人の言う、ことは、正しいと、思います。」
"尾田さん"。
私の名前が聞こえる。
"尾田さん"。
耳元で何度も、私を呼ぶ声がする。
目の前にいるご両親が?
記憶の中の友達や同僚が?
くらくらする。
だれなんだ、さっきから、私を呼んでいるのは。
「よかったよ、分かってもらえて。」
「やっぱり、教養のあるお嬢さんは違うわね。
前に纏わり付いてた不良の子だったら、きっとこうは───」
"ならなかった"。
お母さんが言い終える前に、私の視界が茶色で埋まった。
クッキーに、カヌレに、マドレーヌ。
四方に飛び散る焼き菓子の群れと、意表を突かれたご両親の顔が、やけにスローモーションに流れていく。
自然発生した現象、のわけがない。
飛び散った焼き菓子も、ご両親の反応も、人の手によって仕掛けられたものだ。
仕掛けたのは、私の隣にいる、一人の女。
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