蒼い糸
和達譲
ユリアと真咲
第一話:一夜で人生は変わりますか
私は今、風俗店で働いている。
有り体に言うと、デリバリーヘルスを生業としている。
いわゆるデリヘル嬢というやつだ。
風営法が厳しく是正された昨今において、何故こんな汚れ仕事に身を沈めているかというと、理由は簡単だ。
手短に確実に、より多くの
「───いやー、やられたわ。
なーんか裏でコソコソやってるなーとは思ってたけど、まさか借金こさえてたとはねー。
しかも2000万!田舎なら御殿が建っちゃうね!」
「………。」
「はてさて、これからどうしたもんか……。
長らく働いてなかったから、感覚取り戻せるか不安だわー。
あ、こんなオバサンに正社員は、もう無理か。今時のアルバイトって、どんなのがあるのかしらねー。」
「………。」
「そうだ、晴子。あれ、二人で呑んじゃいましょ。
お父さんが大事に取っといてた、なんか高そうなお酒。
馬鹿よねー。どうせ居なくなるんだったら、最後に一口くらい───」
「お母さん。」
「うん?」
「いいから、無理しなくて。
無理に明るくしようとされると、逆にワタシも、しんどい。」
「……そっか。
ごめんね、空気読めないって、こういうとこよね。」
「そういうのも、いいから。
あいつに言われたことなんか、もうぜんぶ忘れな。」
「……根っからの悪人だったなら、今すぐ忘れてやるんだけどね。」
「お母さん。」
「うん?」
「ワタシがいるから。
これからはワタシが、あいつの代わり、なるから。」
「そんなこと───。
……そうね。お前は、そういう子だったね。」
「がんばろ。
2000万なんて、2億に比べたら端金だよ。」
「ふふ、頼もしいこと。
………ありがとう、晴子。」
私がまだ大学生だった頃に、父親が借金を作って蒸発した。
額はなんと2000万円。
もともとお金にだらしない人ではあったが、これだけの大金をいったい何に注ぎ込んだのか、詳しいことは分からずじまいだった。
ただ、2000の数字を引っ提げて、コワモテの金融屋が
私の青春は今日で終わるんだということだけ、漠然と分かってしまった。
「───おかえり、お母さん。」
「あら、晴子。今日はもう上がり?」
「いや、忘れ物とりに来ただけ。この後すぐ、店のシフト。」
「よく持つわね、一日に何件も……。ご飯はちゃんと食べてるの?」
「適当に食べてるから大丈夫。
お母さんこそ、コールセンターなんて本当に務まるの?
知らない人と喋るの、大の苦手なくせに。」
「四の五の言ってられないからね。
こっちはもう上がりだから、晩ごはんのリクエスト、あれば聴くけど?」
「あー……。
せっかくだけど、晩ごはんは無理そう。今日も朝までコースだから。」
「じゃあ、朝ごはんでもいいわ。作っとく。なにがいい?」
「んー……。なんか、おみそしる。」
「他には?」
「別にいい。味噌汁あれば充分。」
「そんなこと言わないで、たまには気にせず美味しいもの───」
「ごめん急ぐから。いってきます。」
「……いってらっしゃい。」
あの日を境に、私と母での尻拭い人生が幕を開けた。
大学を中退した私は、コンビニと居酒屋で。
専業主婦じゃなくなった母は、スーパーとコールセンターで。
二人がかりで働いて、生活費を切り詰めて、コツコツと返済を続けてきた。
でも、どんなに頑張っても、所詮は雀の涙。
いつかは完済してやり直せる、なんて、夢のまた夢のような話だった。
「───お母さん、話、あるんだけど。」
「なに?仕事のこと?」
「……もっかい、一人暮らし始めようかなと、思って。」
「え?」
「新しい仕事、割のいい仕事、見つけてさ。それがちょっと、
だったら近くに部屋借りて、そこから通った方が、結果的には安上がりかなって、思って……。」
「それは構わないけど……。なんの仕事なの?」
「なんか、あのー。パソコン関係。
特別な資格とかなくても、ある程度触れればオッケーなんだって。」
「ふーん……?
お母さんは、パソコンのことはよく知らないけど……。
割がいいってなると、大変な仕事なんじゃないの?」
「まあ、今までと比べると、拘束時間は長くなるけど……。そんなもんだよ。
むしろ、何件もバイト梯子するより建設的?」
「そう。なら良かった。
困ったことあれば、すぐ相談するのよ。」
「うん。」
「あと、たまにはご飯食べに帰ってくること。」
「……うん。ありがと、お母さん。」
窶れていく母、離れていった友達。
削られていく自尊心、流されていった市民権。
このままでは、私か母のどちらかが倒れてしまう。
青春どころか、人生そのものが終わってしまう。
悩んだ私は、母に隠れて新しい仕事を始めた。
デリヘル嬢として、身売りをする決意をしたのだ。
引っ越し屋より、治験のアルバイトより、
「───そういえば、仕事の方はどうなの?
いつも電話じゃ教えてくれないから、心配してたのよ?」
「あー……、うん。忙しくて、つい。
でも大丈夫。なんとかやってけそうだよ。」
「……そっか。」
「お母さん?」
「いや、いいの。
話したくないなら、無理には聴かない。」
「そういうわけじゃ───」
「一人暮らしするって言い出したのも、本当は窮屈だったからでしょ?」
「え?」
「晴子、一人暮らしも、キャンパスライフも、ずっと憧れだったもんね。
なのに、家の事情で無理やり連れ戻すようなことして……。」
「そんなんじゃないって、お母さん。本当にただ、利便性がってだけ。
現にほら、二人でご飯食べるの、楽しいし。てか、一緒に暮らしてても、お互い忙しくて元から───」
「ごめんね、晴子。
いつでも、どこでも、あんたの好きに、あんたの自由にして、いいんだからね。」
「………。」
「ごめんね。」
「謝んないで。泣かないで。
お母さん悪くないから。ワタシも別に、大丈夫だから。」
「ありがとう。ごめんね。」
「……これ、美味しいね。おかわりあるの?」
「うん。あるよ。」
「もらっていい?」
「いいよ。いっぱい食べな。」
「……うん。」
本音を言えば、尊厳まで金に変える真似はしたくなかった。
はじめては好きな人と望んでいたし、ゆくゆくは結婚して子供を産んで、自分の家庭というものを持ってみたいと願っていた。
だからこそ今、腹を決めなければならなかった。
温かな家庭を思い描けるようになったのは、お手本で在ろうとしてくれた母のおかげ。
母がいなければ今の私はないし、ただでさえ不憫な目に遭いがちな母を、これ以上の不幸に晒したくない。
望みも、願いも。
大事に胸に仕舞っていた全部を、捨てることになってでも。
私は選んだ。
自分の幸せを掴むのではなく、自分と母の平穏を取り戻す方を、私は選ばざるを得なかった。
『───もしもし
『いーっすよぉ。なんかあったすか?』
『実はそのー、さっき指名あった人なんだけどね?
追加でいろいろ注文してきて、なーんかタチ悪そうなニオイすんだよねぇー。』
『というと?』
『オプションってさぁ、だいたい慣れてる人が付けるモンっていうか、徐々に増やしていくモンなのよ。
そーれがコイツときたら、新規のくせにほぼフルコースで盛ってきやがってさぁー。』
『わー。めっちゃ上客じゃないすか。』
『だといいんだけど……。
せっかく高いカネ払ってるんだから、アレもコレもやらせろ、とかゴネだし兼ねないなーって懸念がね?
新人のユリアちゃんには荷が重いかなーってね?』
『なるほど。
支払いは問題ないんすよね?』
『それは既に。』
『行き先もホテルのままでいいんすよね?』
『安心安全の得意先です。』
『じゃー、ダイジョブっしょ。
いざとなったら警備員とか、
『……ほんとに大丈夫?今ならまだキャンセルできるよ?』
『まさか。
仮にヤバい奴だったとしても、骨抜きにしちまえばこっちのモンだ。
尻の毛まで毟ってきてやりますよ。』
『ステキ〜〜〜!!』
私と同じ年頃の若者は、瑞々しい青春を謳歌しているのに。
私は、薄暗い部屋で、途方もない円周率を数えながら、知らないおじさんの腹に跨がっている。
私と同じ学校だったあの人は、休日に旅行へ出掛けているのに。
私は、ATMを前に、明日のスケジュールを考えながら、消えるだけの札束を指で弾いている。
私と同じクラスだったあの
私は、一人で、夜道を、渡っている。
諦めきれない展望、捨てきれない自我。
同じ国に生まれて、同じ時を過ごしていても、私と彼ら彼女らでは、なにもかもが違う。
ふとした拍子に、そんなことが脳裏に過ぎったりして。
指定された住所に向かっている時や、帰り道に売れ残りのお弁当を買っている時。
酷い時には接客の最中にさえ、虚しさで涙が止まらなくなることが、たびたびあった。
いくら決意をしたといっても、分別をつけるには若すぎたせいかもしれない。
「───ただいまぁ〜。」
「お疲れー。どうだった?」
「最悪。」
「えっ、どのへんが?」
「史上最強に激クサ口臭だった。」
「ウワー、そっち系か。風呂入ってない系?」
「いや、身嗜みはちゃんとしてたから、たぶん歯磨きもちゃんとしてる。
内蔵からキてる系だな、あれは。」
「どっちにしろクサいのはキツいわ。
よく最後まで付き合ったね?」
「うーん。なんか、悪い人ではなかったんだよね。
ワタシがダメだよって言ったことは守ってくれるし、オプションも、色々つけてた割に全部はやらなかったし……。」
「デリヘル自体初めての人だったのかな?」
「かもね。
ともあれ、掴みはバッチシよ。今月中にもう一回くらい指名くるかな?」
「そうなったら、また激臭攻撃くらうハメになるね。」
「さりげなく口臭に効くノウハウ仕込んできたから、ちっとはマシになってることを期待します。」
「やるねぇ〜。」
それでも、きっとこれが、私の運命。
誰にも優しくされなくても、何処にも必要とされなくても。
誰かを傷付けたり、何処かで唾を吐く言い訳にはできない。
お母さんだけ、あの日に置いていけない。
「ユリアちゃん、23時からジョージさん。」
「はーい。いま準備します。」
いつ終わるかも知れない、この真っ暗闇の中で。
今日も私は、一夜限りの舞台へ赴く。
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