探偵は逆さ木に逆さまにしがみつく

平葉与雨

探偵事務所

第1話 春休み前に財布をなくす大学生

 大学の春休みはとにかく長い。小中高は一週間ちょっとなのに、二月と三月がまるまる休みになる。大学によるとは思うけど。

 この期間は旅行や短期留学をする人もいれば、とことん遊びまくる人もいる。毎日のようにバイトをしたり部活やサークルで運動したりする人もいる。


 テストが終わって大学を出るとき、ふにゃふにゃした顔を多く見た。予定が埋まって心が躍るとあんな表情になるんだろうな。


 明日から長期休暇だというのに、部屋の壁にかかっているカレンダーにはマークがひとつもついていない。

 遊ぶ予定は今のところない。バイトをする予定もない。そもそも先月やめてから次のバイト先を探し中だ。

 部活もサークルも入っていないから、この期間に大学に行くこともない。


 要するに暇だ。ただただ暇なのだ。

 約二か月もあるこの時間をどう使うか。早く決めないと休みなんて一瞬で終わる。光陰矢の如しだ。


「マジでどうしよう……」


 正直、今の俺にはそんなことを考えている余裕はない。それなのに考えてしまっている。これが現実逃避ってやつか。


 とりあえず、今の状況を整理しよう。


 まず、俺は財布をなくした。

 中には数千円くらい入っていたと思う。学生証とマイナンバーカードもあったか。あとキャッシュカードもあったな。とにかくいろいろ入っていた。


 大学を出たときは持っていた。ジャケットの左ポケットに入っていた。

 今日もいつもどおり、家に着くまではどこにも寄っていない。

 つまり、大学から家までの間で落としたということ。あの道中のどこかにはあるはずだ。


「行ってみるか」


 大学までは歩いて二十分ほど。帰宅してからはせいぜい十分くらいしか経っていない。まだ誰にも拾われていない可能性が高い。

 ここは日本だ。もし拾われていたとしたら、まず交番に届ける前に中身を確認するはず。連絡できるものが入っているかもと思うからだ。他は知らないけど、俺ならそうする。

 そして中に入っている学生証を見て大学に連絡が入り、そこから俺に連絡が来るはずだ。それがないということは、落ちたままってこと。

 まだ希望はある。



 頭を動かしつつ下を見ながらゆっくり歩いていると、気づけば駒沢公園まで来てしまった。ここまで財布は見つからなかった。もう公園内にあるとしか思えない。

 公園を出ればすぐそこに大学がある。近道だからいつもここを通り抜けているのだ。


「さすがにあるよな……」


 そうでなくては困る。頼むからどこかに落ちていてくれ。

 俺はここまでよりもっと慎重に周りを見ながら歩いた。そしてあらためて駒沢公園の大きさに驚いた。デカすぎなんだよな。


 慣れは怖いものだと痛感していると、もう出口が見えてきた。

 財布はまだ見つかっていない。スマホに連絡も入っていない。


「やべぇ……」


 そのまま見つからずに、とうとう大学の前まで来てしまった。

 俺はショックで膝が抜けそうになった。

 いや、あきらめるのはまだ早い。たったいま大学に届けられたかもしれない。念のため確認してみよう。



 俺は学生支援センターに来た。学生を支援すると名前にあるわけだから、なにかと助けてくれそうだ。

 窓口の前まで行き、職員に「すみません」と声をかけた。


「はい」

「今日、財布の落とし物があった、なんてことありますか?」

「あぁ、昨日ならあったんですけど……今日はないですね」

「そうですか……」

「昨日のはまだ持ち主が現れてませんけど、見てみますか?」

「大丈夫です。紛失してから一時間くらいしか経ってないので」

「あ、そうですか。ちなみに交番には確認してみました?」

「まだしてないです」

「なら早めにしたほうがいいですよ」

「……そうですね。ありがとうございます」


 たしかにそうかもしれない。ただ、いろいろと手続きすることになったら面倒だ。いや、わざわざ行かなくても電話すればいいのか。

 俺は学生支援センターを後にしてすぐに近くの交番を検索し、深沢交番に電話をかけた。


「警視庁玉川警察署、深沢交番でございます」

「すみません、小宮こみやと申しますが、今日そちらに財布の落とし物は届いていないでしょうか? 中には駒澤大学の学生証が入っているのですぐにわかると思うのですが」

「財布ですね。ちなみに特徴を伺ってもよろしいですか?」

「あ、はい。えーっと、黒のふたつ折りで、ポーターのです」

「かしこまりました。少々お待ちください」

「はい」


 確認するということは、もしかしたら財布の落とし物はあるのかもしれない。

 期待が高まるなか、保留音はすぐに止まった。


「お待たせしました。ただいま確認したところ、該当の財布は届けられていなかったです」

「そうですか……」

「もしこのあと届けられた場合はこちらから連絡いたします」

「よろしくお願いします」


 電話を切り、空を見上げる。本格的にやべぇ……。

 仕方ない。帰っていろいろ連絡入れるか。


 俺は念のため来た道を戻ることにした。さっきは気づかなかっただけで、まったく同じように進めばどこかにあるかもしれない。

 わずかな期待を胸に、下を見ながら歩を進めた。


 いつもは心地よく感じる木々のざわめきが今は耳障りだ。余裕がなくなるとこうも人は変わってしまうのか。



 駒沢公園を抜けた。財布は見つからなかった。

 あとは家までの道にあるかどうかだ。



 とうとう深沢一丁目緑地まで戻ってきてしまった。家はこのすぐ近くにあるアパートだ。

 そして肝心の財布だが、結局ここまで見つからなかった。


「やっぱりダメか……」


 すぐには現実を受け止められそうになく、俺は緑地のベンチに座って少しだけ休むことにした。


 通う大学は緑のそばで、住む家も緑の近く。よくよく考えると、俺は緑と縁があるのかもしれない。

 そんなどうでもいいことが頭に浮かんでいると、ふとあるものが目に入った。


『この近くに探偵事務所あり』


 電柱の張り紙にうっすらとそう書いてあるのが見える。

 この近辺に探偵事務所があったとは知らなかった。もしかしたらここ最近できたのかもしれない。


 探偵といえば、アニメや小説ではそのだいたいが殺人事件を追う。ただそれはあくまでフィクションで、現実では浮気調査だったりペット探しだったり。

 いや、待て。今はそんなことどうでもいい。そう、探偵だ。探偵に頼んでみよう。


 俺はわらにもすがる思いで張り紙の写真を撮り、そのまま探偵事務所があるであろう場所まで向かった。



「ここか……」


 事務所はかなり近くにあった。ちょっと古めの平屋だ。そのそばには『探偵事務所』と書かれた緑色の縦看板が置かれていた。また緑だ。

 俺は運命を感じながらインターホンを鳴らした。

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