アネモネ
鳳仙高校全体に4限目の終わりを告げるチャイムが鳴り響く。1年5組の教室に号令がかかり、昼休みのはじまりを待ち望む生徒たちが一斉に立ち上がる。その中で一人、
「今日の昼休み、屋上で面白いものが見れるよ」
あれは、いったい誰が書いたものなのだろう。なぜ、僕にこんなものを書いたのだろう。考えれば考えるほど余計に分からなくなる。これを書いたやつは、いったい僕に何を言いたいのだろう。
しわくちゃになった紙を広げ、再び例の一文を目にする。幼稚ないたずら、意味不明な内容、そんな言葉が頭をよぎりながらも、栄太は胸の内で
それにしても、綺麗な字だ。まるで明朝体の文字をパソコンでタイプしたかのように、美しい文字が並んでいる。例えば、「今日」の「今」という字。とめ、はね、はらいのすべてが完璧といえるまでに丁寧だ。これを書いた人物は、この一文にどれほどの想いを込めていたのだろう。どれほどの時間をかけて、この一文を書いたのだろう。文体は人間性の表れと聞いたことはあるが、ここまで訴えかけるような言葉を見るのは初めてだ。
疑り深いことに変わりはないものの、栄太は名も知れぬ者の一文に小さく思いをはせていた。その時、廊下の方から何やらひそひそと話すクラスメイトの声が聞こえてきた。
「ねぇ……あいつ、今日は1人みたいだよ」
「うわっ、何しようとしてんだろう」
教室の端から聞こえる声に耳を澄ませ、栄太はすぐさまそれが花園愛に対しての陰口なのだと気づいた。
まったく、女という生き物はいちいち噂を広めないと気が済まないのだろうか。花園愛が殺人犯の娘、それはもうすでに公知の事実だ。いまや、学校の1年生のほとんどが知っていることだろう。それを何度も話すことに、いったいどのような面白さがあるというのだろうか。
目を細め、大きくため息を吐く。教室内で大げさに話す女子たちの態度に、栄太は呆れを隠せなかった。
情報は知らされてからのわずかな期間にこそ光り輝くものであり、それを何日も、何週間を引きずるようなやり方はなんだか違う気がする。僕は、あいつらのしていることが気に入らない。
栄太は小さく舌打ちをし、話題を広げる女子たちに対して冷ややかな目線を向けた。すると、彼女たちの会話の中になにやら興味深い内容が出てきた。
「今日は
「ほんとだ。あいつ、たしか文芸部だっけ? 先輩のとこにでも逃げるんじゃない?」
「あー、ありえるね。玉木先輩だっけ? なんちゃら賞を受賞したらしいけど、あんなやつと関わるなんて物好きだよね〜」
文芸部……。いや、まさかな。
栄太はその可能性を否定しながらも、気づけば目の前の文字に再び魅入っていた。
「徒野さん」とは、おそらく
けれど、今日はその徒野結葉が学校に来ていない。それはつまり、彼女の身に何かあったということではないだろうか。もちろん、単に体調不良や急用で休みをとっっている可能性もある。けれど、もし仮に、今僕が手に持っている手紙が花園愛のものだというのなら、この手紙の意図をわずかながら汲み取ることが出来る。
一通り状況を整理し、栄太は大きく椅子にもたれかかった。
この手紙が花園愛のものだという確信はない。もしかしたら、他の誰かによる単なる嫌がらせであって、本当は何の意味も持たないただの紙切れなのかもしれない。
……けれど、僕の心はもうすでに決まっている。この手紙が誰のものであるのかはわからない。けれど、それで良い。真実は自分の目で見れば良いのだから。立ち入り禁止の屋上で誰かが立っていればこの手紙は本物、誰もいなければ偽物、それだけのことだ。
栄太は机のフックにかかったカバンの中から愛用のカメラを取り出し、ひとり廊下へと飛び出した。騒々しい廊下の人混みをかき分け、軽快に階段を登っていく。
屋上では、今何が起こっているのだろう。すごく、わくわくする。退屈が終わる瞬間がこんなにも心地良いものだとは知らなかった。僕は今、自分がとても興奮しているのを実感できる。
1段抜かしで階段をかけてゆき、栄太は屋上の扉の前に辿り着いた。重い扉を小さく開くと、その奥には飛び降り防止用の柵を
「あ、あいつ、なにしてるんだ……」
愛の衝撃的な行動を目撃し、栄太は
「……自殺する気なのか?」
動悸が激しくになるにつれ、呼吸が乱れていく。カメラを持つ手が震え、目の焦点が揺れ出す。唐突に襲い掛かった出来事の数々に、栄太は数秒間冷静さを失った。
助けるべきか? いや、あそこには近藤海人と菊岡梨深もいる。今助けようとすれば、僕が花園愛の味方をしたと思われていじめの標的になりかねる。それだけは、なんとしても避けなくては……!
「助ける」と「見捨てる」、二つの選択肢が栄太の前に現れる。
本当に、見捨てていいのか? やっぱり、助けた方がいいのか? いやだから、そんなことをすれば今度は僕が……。けれど、僕が何もしなければ人が死ぬんだ。助けるべきなんじゃないか? いやでも……。
……そうだ。ここには誰もいないんだ。たとえ僕が助けなかったとしても、僕を責める奴は誰もいない。
考えが終着すると、栄太の体は無意識にもカメラを構えていた。
……僕にできることはこれだけだ。そうだ、他にできることなんてない。だって、仕方ないじゃないか! 僕は、自分の平穏を一番に考えているだけなのだから。誰だってそうだろ!? 自分が傷つかない方を選んで何が悪い。自分のために他人を犠牲にして何が悪い。だから、僕は悪くない……。僕は、助けようとしたんだから……。
殺伐とした空気の中に、一筋のシャッター音が響き渡る。地から足を踏み離した目の前の少女が、ゆっくりとカメラの画面外へと消えていく。
やめろ。そんな目を向けるな。僕は、何もしていない。ただ、梨深に頼まれて、編集しただけだ。徒野結葉がいじめられている様子を、動画ソフトでちょっとだけ加工しただけだ。それの何が悪いというんだ……! 動画を撮ったのはあいつらだ。僕は脅されてやらされただけなんだ。だから僕は悪くない。ぼくはわるくないぼくはわるくないぼくはわるくない……。
はなはだしい責任転嫁が脳内で繰り返される。怒りや自己嫌悪で脳内が飽和するなか、栄太は愛が向けた最後の眼差しに恐ろしいほどの恐怖を感じていた。
僕は、あの目を知っている。あれは……傍観者を見る目だった。
アネモネ 花言葉は「見捨てられた」
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