ep8
「ほんと懲りねぇバカだな」
挑発というより、ため息の延長で吐き出されたような声だった。
「フン。その下品な言葉遣い、きっちり矯正してあげるわ」
イザベラが宣言するように言い放つと、修練場に乾いた風が流れ込み地面の土埃がふわりと舞った。
夕陽に照らされて浮かび上がる粉塵の向こう、赤みがかった髪を揺らしながらリズがこちらを射抜くように睨んでくる。
その双眸に宿るのは、研ぎ澄まされた刃のような鋭さ。
――いや、それだけではない。背後にそびえ立つ “力そのもの” の気配。理屈ではなく本能が教えてくる、触れてはならない何か。
イザベラの喉がかすかに鳴った。
背筋に、ひんやりとした感覚が走る。
(……落ち着きなさい。焦ったら負けるわよ)
静かに息を吸い込む。胸の奥に溜まった重さを押し流すように細く長く吐き出した。
「…………ふぅ」
リズはそんなイザベラの仕草を半眼でじっと眺めていた。
(ふん……)
心の中で、小さく呟く。
一ヶ月前___実力差も見抜けず、なす術もなく叩き伏せたあの日とは違う。
目の前の少女は、少なくともあの時の無謀な子どもではない。リズは直感で感じ取っていた。
______時は、少し巻き戻る。
「リズ」
不意に名を呼ばれ、リズは足を止めて振り向いた。
修練場へ向かう途中の石畳。その先に立っていたのは、仏頂面を貼り付けたままの男――ルヴァンだった。
「あ? なんだよ子守り役」
わざとらしく吐き捨てるように言うと、ルヴァンの眉がわずかに動いた。
リズの口元に嗤うような線が浮かぶ。
他人と群れることを極端に嫌うこの男が、よりにもよって“人間のガキ――イザベラの世話係”を命じられたと聞いた時
(あれは最高だった。何度思い返しても笑える)
(コイツが子守りとか、滑稽すぎんだろ)
だからこそ、その彼が自分に声をかけてきた
それが珍しく思えてリズの興味を引いた。
普段なら見向きもしないはずの相手に、わざわざ立ち止まり言葉を投げるくらいには何か言いたいことがあるのだろう。
ルヴァンが何を言い出すか見てやろうとリズは顎を少し上げ挑発じみた視線を向けた。
ルヴァンはすぐには口を開かず、短く息を吐くような間を作った。
それから、遠くに霞んで見える修練場へ視線を向ける。
「……今日の勝負。防壁は解くな」
「……あ?」
その一言に、リズの眉がぴくりと跳ねた。
声にも露骨な苛立ちが滲む。
脳裏に、ひと月前の“茶番”が浮かぶ。
勝負と呼ぶのも生ぬるい、ただの手合わせ――いや、お遊びと言っていいほどの温いもの。あの人間相手に自分が本気を出す必要などそもそも皆無だった。
そんな相手に防壁を張れと言われたら?
苛立つのも当然だった。
「ふざけてんのか? あんな雑魚にいちいち展開するわけ――」
「……そういう意味じゃない」
ルヴァンの声は低いままで揺れなかった。
「はぁ? じゃあ何だよ。……回りくどいんだよテメェは。言うことあるならさっさと言え」
苛立ちを隠そうともせず吐き捨てるリズに、ルヴァンはわずかに視線を落とし言葉を絞る。
「……お前が防壁を纏っていなければ――あの女は、全力を出せない」
「……!」
「お前も気づいていたはずだ」
喉の奥で『は?』が弾けかけた。
だが、リズはそれを飲み込む。
ルヴァンの言っていることに心当たりがあったからだ。
一ヶ月前。
どう転んでも自分が無傷のまま勝つ未来しかなかったあの勝負で、イザベラは本気の一撃を放つことをためらっていた。
防壁を纏っていない相手に自分の攻撃を叩き込むことを。
たとえ当たってもダメージにならないと分かっているはずなのに。
ため息の代わりに鼻で笑う。
「…………ふん。くだらねぇ」
そう吐き捨て、リズはルヴァンに背を向けた。
砂利を踏む靴音が再び修練場へ向けて淡々と進み始めた。
_____場面は再び現在へ。
イザベラはちらりと周囲へ目を向ける。
修練場の中央で向かい合った自分とリズを取り囲むようにいつの間にか多くの魔人たちが集まっていた。
野次馬たちのざわめきは熱気となって空気を揺らし、土煙と混ざって独特の重さを生む。
そのざわついた群衆のさらに向こう――
城へ続く石造りの廊下。その高窓からこちらを静かに見下ろす影があった。
レヴェナだ。
冷ややかな光を宿すその双眸が、イザベラたちをジッと見下ろしている。
(……ふん)
イザベラは小さく鼻で笑い、視線をリズへと戻した。
(よーく見てなさい。 あなたの足手まといなんかじゃないって___ちゃんと証明してあげるわ)
決闘の立会人であるレベリウスが両者の間に歩み出る。
ひとまずリズへ向き直り、重い声で告げた。
「……リズ、加減しろよ」
「うるせぇよ」
返ってきたのは即答の悪態。
レベリウスは次にイザベラへ視線を向ける。
「お前も、無茶はするな」
「余計な心配は無用よ。早く始めなさい」
「ハァ……ったく」
血の気の多い二人に挟まれ、レベリウスは頭をがしがしかきながら深くため息を吐いた。
それでも、役目は果たすべきだ。
彼は一歩下がり、呼吸をひとつ整え――静かな声で告げた。
「…………始め」
その言葉が落ちた瞬間。
空気が、ぱん、と弾け
戦いの火蓋が切って落とされた。
ドッ!!!
「っ!!」
地を震わせるような爆ぜる音とともに、先手を取ったのはリズだった。
詠唱など一切挟まない完全な詠唱破棄。ほとんど反射の速度で放たれた火球が、紅蓮の閃光となってイザベラへと突き進む。
次の瞬間、
ドゴォッッ!!!
爆音が修練場全体を揺らし、巻き上がった砂煙が咆哮するように渦を巻く。
熱風が観衆の頬を刺し、魔人たちのざわめきが一瞬で呑み込まれた。
「おいおい、もう終わりか?」
砂煙を背景にリズは片方の口角だけを吊り上げる。
余裕――いや、嘲りの笑み。
「……おっ」
だがその時、砂煙を突き破るように影が跳ぶ。
イザベラだった。
飛び出すと同時にリズは視認する。イザベラの身体に展開された防壁はひび一つ入っていないことを。リズは驚いたように片眉を上げた。
「ほぉ~。避けたか。雑魚のわりにはやるじゃねーか」
「くっ……!」
リズは軽く鼻を鳴らし嬉しそうに笑う。
その笑みが挑発であり好戦の証でもある。
(相変わらず速い……!)
イザベラは内心で呻いた。
反撃に移ろうと魔力を練ったその瞬間――
リズの追撃がもう繰り出されていた。
「――なら、これはどうだぁッ!?」
「!!」
ゴォッ!!
再び放たれた火球。
しかも今度はひとつではない。二つ、三つ、四つ――数える暇もないほど立て続けの連射。
弾丸のような火球が空気を焼き裂き、イザベラに向かって殺到する。
次々と炸裂する爆音、地を舐める熱波、巻き上がる黒煙。
観衆の魔人たちでさえ思わず目を細めるほどの炎熱に包まれた。
砂塵と爆風が、容赦なくイザベラへと襲いかかっていく。
爆ぜる炎の連打をイザベラは紙一重で避け続けていた。
砂煙を割るように横へ飛び、地面を蹴り、熱風の尾をかすめながら――ついに視界の開けた空間へ滑り出す。
「はぁ……ッ!」
息が荒い。胸が痛いほど脈打っている。
だが、距離はまったく縮まっていない。
遠く、余裕の表情を湛えたリズ。
その足元に刻まれた焦げ跡が、彼女の攻撃の激しさを物語っている。
(……これじゃ、ジリ貧じゃない……っ!)
苛立ちと焦燥が同時に胸を掻く。
この一ヶ月、イザベラはほとんどすべての時間を“身体能力の強化”に充ててきた。
脚力、反射速度、視界の強化。
魔力を眼に集中させる技術だって飽きるほど練習した。
その結果、リズの詠唱破棄の魔法を紙一重で「見切る」ことだけはなんとかできている。
――だが。
避けるだけで精一杯。
反撃の隙などどこにも見えない。
まして距離を詰めるなど夢物語のようだった。
「もう限界かよ話になんねぇな」
リズはあくまで軽く言い放つ。
だがその双眸の奥――わずかに、色が変わった。
今しがたの連撃。
あれは決して手を抜いたものではない。むしろ、火力も速度も“いつも通り”の本気だった。
その攻撃を、イザベラはすべて避け切っていた。
リズの脳裏に、嫌でもルヴァンの顔が浮かぶ。
(……ふん。あの野郎に鍛えられたってのは、マジみてぇだな)
吐き捨てるように思いつつも、胸の奥がかすかに疼く。
それは苛立ちか、それとも……好戦の血が騒いでいるだけなのか。
イザベラの成長を認めざるを得ない現実が、わずかにリズの口角を吊り上げさせた。
(……まだまだだ。もっと見せてみろよ、あの時とは違うってんならよ)
砂煙が風で裂ける。
視線がぶつかる。
次の一撃は、さらに苛烈になる予感があった。
「あ?」
砂煙の向こうから気配が揺れた瞬間、リズの眉がわずかに動いた。
リズの思考を裂くように、火球の雨の隙間を縫うように、イザベラがこちらへ近づいてくる。
一歩。
また一歩。
その足取りは決して速くない。だが、確実に距離を削る意志だけは揺らぎもしなかった。
その様子を見て、リズの口角がくいっと上がる。
(へぇ…接近戦なら勝機がある、とでも思ってんのか? 面白ぇじゃねぇか)
挑発のように、あるいは嬉々とした本音のようにリズが吠える。
「避けられるもんなら避けてみろよ!!」
ドドドドドドドッ!!
空気ごと震わせるように火球が増し、熱量が一段と跳ね上がる。
爆炎が花開くたび修練場の砂が舞い、視界は橙と灰色に染まっていく。
その中で、リズはふっと攻撃の手を緩めた。
(こんだけ進路を塞がれたら……どこへ逃げる?)
読んでいた。
イザベラが選ぶ“出口”を。
案の定炎の壁を抜けるように、砂煙の右側を裂いてイザベラが飛び出す。
その姿を捉えた瞬間、リズの口角はさらに上がり、全身の筋肉が一気に跳ねた。
地面を踏み砕かんばかりに蹴り、待ち構えていたかのように急接近する。
「逃げるしかねぇよなぁ!!」
「くっ……!?」
炎の弾幕――それは攻撃であって罠であり、イザベラの行動の自由を削るための“檻”だった。
体勢を立て直しきれないままのイザベラめがけ、リズが拳を振り抜く。
拳そのものは届かない。だが、その動きに呼応するように火球が放たれ____
ドガッ!!
炸裂音が直近で響き、爆風がイザベラの身体を容赦なく弾き飛ばした。
手応えは確かにあった。
拳が放った火球がイザベラの身体をとらえた感触。だが、と、リズは眉をひそめる。
これは……
警戒が胸をかすめた、その直後。
爆炎の余熱がまだ漂う修練場に、ボフッと砂煙を割る音が走った。
先ほどの炎の弾幕が巻き上げた濃い土煙の中から何かが上空へ飛び出す。
それがイザベラだと気づいた瞬間、リズは舌打ちした。
イザベラは既に空中で姿勢を作り、腕を引き絞っている。
いつの間にか生成していた氷の弓。
魔力が白い冷気を散らしながら形を成し、その矢じりは鋭くリズへ向けられていた。
「食らいなさい!!」
完全に虚を突いた。そう思わせる完璧な角度、タイミングだった。
だが。
ゴオッ!!
矢よりも速く、地表の濁った煙幕を突き破るように火球が数発、逆流する火鳥のように飛び出した。
「なっ……!?」
イザベラの反応が一瞬遅れた。
予想していなかった。
避ける暇も、氷で迎撃する暇もない。
ドガッ!!!
連続して叩き込まれた火球が空中で炸裂し、爆風がイザベラの身体を飲み込んだ。
橙の閃光が空へ散り、白煙が渦を巻く。
その様子を見上げながら、リズは肩を揺らして笑う。
「………ハッ、馬鹿が」
薄い笑みは挑発というより、狩人の余裕を帯びていた。
「アタシを罠に嵌めようなんざ100年早いんだよ」
そう、リズは最初から読んでいた。
爆煙に紛れて逃げ道を作るのか。
あるいは煙の中で魔法陣でも仕込み不意打ちを狙うのか。
攻撃で生じた砂煙を利用し、イザベラが何か策を練っていることも。
その策が“囮による罠”であることも。
何より、技量も魔力量も経験値も桁違いの差がある相手__人間の子どもにできるのはせいぜい相手の油断を突いた奇策程度。
そしてそれを逆手に取り、迎撃する準備は万全だった。
リズは鼻で笑いながら、視線を遠くへ投げる。
この訓練対決を静かに見守るレヴェナの姿が視界の端に映る。
一瞬だけ彼女に目をやり、すぐに空へ意識を戻す。
(火傷ぐらいは負っただろうが、悪く思うなよ。アタシに喧嘩売ってきたのはテメェなんだからな)
勝負はついた__そう確信した、その刹那。
空気が震えた。
それは錯覚ではない。
肌に、背筋に、はっきりと“殺気”が触れた。
「_______ッ!!」
ザンッ……!!!
鋭い、切り裂く音。
背筋に冷たい電流が走り、リズの身体が反射で動いた。
直感と訓練された反射神経だけがその一撃を間一髪で躱す。
地面を蹴り、距離を取る。
砂が飛び散り、足裏に鈍い衝撃が残る。
一瞬遅れて、そこに斬撃が走り抜けた軌跡が残った。
(な……に……!?)
あり得ない。
空に囮を飛ばしたイザベラは爆煙の中に落ちているはず__そう、“はず”だった。
背後からの斬撃。
それは、最初の策とは別軸の完全に読めなかった手。
ビキ……ッ!
鋭い音が、空気そのものを震わせた。
それは地面でも空でもない。リズの身体を覆う防壁から響いた“亀裂”の音だった。
リズの視線が一瞬だけ驚愕に揺れる。
防壁に走った細い割れ目が、光を反射して白く煌めいた。
後方へ大きく跳び退いたリズの前に、ゆっくりと姿を現す影がある。
土煙の幕を割り、銀の髪を揺らして、少女が顔を上げた。
紫の瞳が満足げに細められ、唇の端が小さく上がる。
その手にはつい先ほどリズを襲った鋭い斬撃を生み出した白銀の剣が握られていた。
イザベラはその切っ先をリズにぴたりと向け、挑発混じりに告げた。
「よく避けたわね。思ったよりはやるじゃない」
自信と余裕を隠しもしない声音。
その一言が空気を震わせ、挑発の熱を帯びてリズの鼓膜に刺さった。
「………テメェ」
リズの眉間に皺が寄り、額の血管が浮かぶ。
苛立ちよりも怒りよりも__これは、予想外を突かれたことへの“本能的な苛立ち”。
イザベラの計算された一撃が、確かにリズのプライドを揺さぶった。
一方、観戦席__いや、観客として囲んだ魔人たちの中。
レベリウスたちは驚きと興味を隠さずに声を漏らしていた。
ユルゲンが最初に手を叩きながら笑う。
「あははっ、惜しいなぁ〜」
「ほー…」
続くように、レベリウスが感心したように片眉を上げた。
「最初に攻撃を受けたのは囮の人形じゃなく本体。リズが空中に飛び出した囮の人形に気を取られている隙に不意打ち。……良い作戦だ」
冷静な分析。
その言葉にユルゲンも満足そうに頷いた。
「イザベラの防壁に傷が見当たらない。リズの攻撃を受け切ったってことだね。やるな〜。やっぱり師匠の教え方が上手かったんだね〜⭐︎」
そう言って、自分の胸に誇らしげに手を当てるユルゲン。
レベリウスはそれを無視した。
周囲の魔人から微かなざわめきが聞こえ出す。
訝しむ声、感心する声、驚く声。
そして、観戦席の最奥。窓辺から静かに見つめるレヴェナの真紅の瞳がわずかに見開かれた。
レベリウスは、観客の陰に半ば隠れるようにして佇む男へとちらりと視線を送った。
視線の先、ルヴァンは変わらぬ無表情で戦いを見つめている。
彼の頬も眉も揺れない。
だが、その目だけが真っ直ぐ射抜くように鋭い。
(……気にしているんだな)
レベリウスは、息を潜めた微笑をひそかに浮かべた。
ほんの一瞬の微笑み。たったそれだけで、彼もまたこの戦いに胸を高鳴らせていることが分かる。
修練場の中央では緊張が極限まで張り詰めていた。
イザベラとリズの視線が交わる。
周囲のざわめきすら消え、重たい空気が二人だけを包み込む。
リズは唇の端をひくつかせていた。
あの一撃は間違いなくイザベラに直撃していた。にも関わらず彼女は防御を破られることなく立っていた。
罠を張り、囮を用い、さらに背後から狙いすました不意打ち。
本来なら魔人である自分がそんな小細工に動揺するはずなどない。
__なのに、防壁に刻まれたあの細い亀裂は、紛れもない“事実”だ。
額に浮かぶ青筋が怒りで脈打っている。
挑発された悔しさか。
罠に落ちた己の迂闊さか。
それとも、人間の少女に一撃を許したという屈辱か。
しかし、その怒りの奥底にもうひとつの感情が静かに沈んでいた。
(アタシの攻撃を避けずに耐えた。防壁にも頼らず……このガキ……)
認めざるを得ないわずかな警戒と、僅少な興味。
イザベラが“本気”で向かってきていることを、リズは本能で理解していた。
より強い殺意がリズの身体にまとわりつこうとした、その時。
「…………ふー…」
リズは、静かに息を吸い、そして長く吐き出した。
「……!」
イザベラの瞳が驚きに揺れる。
一瞬だけ閉じられたリズの目は、再び開かれた時には鋭さを削ぎ落としていた。
怒りも殺気も、暴走しかけていた感情も、すべて理性の底へと沈んでいる。
瞳の奥で炎はまだ燻っているがそれを制御する冷たい理性が表面を覆っていた。
理性を取り戻したリズを見た瞬間、イザベラはにっ、と唇を歪めて笑った。
勝ち誇りでも傲慢でもない。
追い詰められ、苦しく、なおも前へ進もうとする時に生まれる、
感情の針が壊れたような、かすかな“嘲笑”だった。
そう、状況は決してイザベラに有利ではない。
だが、それでも。
(……やっと、少しは本気で私と向き合う気になってくれたようね…!!)
そんな心の声を乗せた、挑戦者の笑みだった。
剣を握る手が微かに震えた。
それは恐怖ではない。
疲労でもない。
__覚悟が、手のひらから溢れてくる音だ。
イザベラは自分の呼吸をひとつ確かめるように整え、心の中で静かに呟く。
(これが……私とあの女の差)
冷たい現実だった。
十数年しか生きていない人間と、
数百年という時間を生き抜いた魔人。
積み重ねた経験の量も、戦いの質も、魔力の総量も桁違い。
先ほどまでのリズは完全にイザベラを舐めきっていた。
だからこそ、罠も不意打ちも読みと駆け引きも、わずかに通じた。
もし、あのまま激情に任せて攻め続けていたなら。
リズの呼吸が乱れる瞬間が、あるいは生まれていたかもしれない。
だが。
リズは怒りを抑えた。
感情を封じ、魔人としての“本当の力の使い方”を取り戻した。
そうなった瞬間__もう、小細工は通用しない。
完全に虚を突いたあの一撃でさえ、防壁に入れられたのは小さなヒビひとつ。
驚かせることはできても決定打にはならなかった。
あの一瞬に全精力を注ぎ込んだ。
それでも、届かない。
――それが差。
――それが現実。
イザベラは奥歯を噛みしめる。
数多の火球を避けるために、身体強化を限界以上に使った。
足だけではない。
手も、肩も、肺も、そして__瞳さえも魔力で強化した。
視界を焼き尽くさんばかりの炎の雨。
ほんの一瞬でも視線が遅れれば、防壁は灼かれて終わりだった。
それを紙一重で躱し続けた。
さらに、囮となる氷の分身を生成し、
直撃を受ける瞬間には身を守るため体内の魔力を鎧のように防壁ごと全身に纏い
火球の衝撃を耐え切った。
その結果、イザベラの体内を巡る魔力はほとんど底をついていた。
足の奥から痺れが走る。
肺が重い。
視界の隅が少し暗い。
もう、次の大技は撃てない。
大きな回避も連続の強化も維持できない。
イザベラは自分の限界に気づいていた。
そして、
リズもまたその事実を見逃してはいなかった。
今のイザベラには、もう反撃の余力がほとんど残っていないことを。
終わりの気配が、二人の間に静かに満ちていく。
自分の勝利を確信していながら、リズはイザベラを挑発することも嘲笑うこともしなかった。
イザベラを睨みつけたまま、リズは右手をかざし淡々と自身の剣を召喚する。
虚空から形を成した黒い剣を掴み、その鋒をまっすぐイザベラへ向けた。
冷たく、揺らぎひとつない殺意。
まるで「もう終わりだ」と宣告するかのような一挙一動だった。
対峙するイザベラは残り少ない魔力を無理やり掻き集めるように、限界に近い集中を研ぎ澄ませる。
心臓の音がうるさいほど響く。
手が震えても、剣を握り直す指先だけは離れなかった。
リズの存在そのものが膨れあがったように感じる。
見えない圧力が空気ごと押しつぶし、背筋に冷たいものが這い上がる。
それでも、イザベラは踏みとどまった。
ネルやルヴァン、ユルゲンとの鍛錬の日々が脳裏に浮かぶ。
__ただ逃げては駄目。
__よく見て、受け流す……!
自分に言い聞かせるように息を吸った瞬間。
ダンッ!!
「!!」
破裂音のような足音が響いたかと思うと、リズの姿が掻き消え、一瞬で距離を詰めてきた。
頭よりも先に、身体だけが反応する。
ギィィン……ッ!!
認識できたぎりぎりのタイミングで、イザベラは剣を掲げその一撃を受け止めた。
だが衝撃を“流す”にはあまりにも重く、圧力が腕から肩へ、肩から全身へと突き抜ける。
息が詰まり、イザベラの身体は後方へ大きく弾き飛ばされた。
砂が跳ね、視界が揺れる。
衝撃の余韻で腕が痺れ剣を落としそうになる。
(……っ、重い……! 受けただけで……!)
地面を削りながら無理やり踏みとどまり、剣を握り直す。
顔を上げると、リズは追撃せずただ冷たく見据えていた。
「……はぁ、っ……」
イザベラが荒い息を整える間にも、リズの剣先は微動だにしない。
その沈黙の圧力が何よりも容赦がなかった。
それでも、イザベラは諦めなかった。
(逃げない……絶対に……!)
次の刹那、リズの気配がまた膨れあがる。
動く――!
風が裂け、イザベラは再び剣を構えた。
ガキンッ!!!
追撃。
その理不尽な速さを、イザベラはまたしても紙一重で受け切った。
「く…ぅ……ッ!!」
剣に伝わる衝撃で腕がびりびりと痺れる。
受け止めるだけで精一杯。
体勢を整える暇すらない。
だが、そんな余裕など与える気は初めから無いと言わんばかりにリズの刃がすぐそこへ迫る。
ガキンッ!! ギンッ!! キィィンッ!!
「……ッ!!」
息ができない。
呼吸を挟むという行為がすべて“隙”になってしまう。
神経のすべてを、ただリズの斬撃に注ぎ込む。
視覚・聴覚・感覚、それらの全てがリズの動きに縫い付けられていた。
ビシッ……! ビキキ……ッ!
「く……っ!!」
受けきれなかった斬撃が、防壁に浅くない傷跡を刻む。
ネルやユルゲンのように“教えるため”の剣ではない。
そこには情けも配慮も一切なかった。
ただ純粋な「殺意」と「技量」だけが流れてくる。
一撃一撃が、骨の奥まで冷えるほどの死の予感を帯びている。
防壁があるにもかかわらず、だ。
イザベラは鍔迫り合いを避けようと後退し、地面を蹴った。
だが、リズの身体強化は桁違い。
距離を取ったはずが、一瞬でまたその間合いに押し戻される。
(あぁ……強い、本当に)
そう思った瞬間、イザベラの口角が不意に上がっていた。
状況は劣勢。
いや、劣勢どころではない。
魔力は底をつきかけ、防壁も崩壊寸前。
技量の差は歴然。それでも。
1ヶ月間、必死に鍛えてきたからこそ理解できる。
“自分では到底届かない領域”を、今まさに体で思い知らされている。
その絶望的なほどの壁を目の前にして
自然と笑いが溢れた。
リズの刃が迫るその瞬間でさえ。
死に物狂いで受け止めているこの状況でさえ。
(こんなの……笑うしかないじゃない……!)
あまりにも眩しく、あまりにも遠い。
頂上が見えないほど高い“強さ”。
まだ終わっていない。
けれど、勝ち筋などどこにもない。
ただ、それでも。
イザベラは笑っていた。
不意にガクン、と左足が沈むように力を失った。
「っ!?」
思わず地面を見る。
何かにつまずいたのか、そう考えたのはほんの刹那。
違う。
原因は外ではない。
内側だ。
力を込めているつもりなのに、左足がまるで他人の脚のように動かない。
足だけではない。
腕、肩、腹筋、背筋、身体のあちこちが悲鳴のような“空白”を作っていた。
リズの猛攻を前に、限界はずっと前から迫っていた。
身体強化の負荷も、連続防御の緊張も、足掻くために使った魔力も。
全てがすでに限界点を超えていたのだ。
それを認識した瞬間
ガキィィン……ッ!!!
「……ッ!!」
たった一瞬。
ただ「限界だ」と理解したその一瞬の思考のズレ。
それだけで十分だった。
リズの刃が容赦なく迫り、白銀の剣が弾き飛ばされる。
空中に回転しながら舞う自分の剣がスローモーションのように見えた。
続けて
パキパキ……ッ!
防壁に走る、致命的な亀裂の音。
間違いなく、割れた。
「――っ」
身体が動かない。
踏ん張りが利かない。
イザベラはよろめき、そのまま尻もちをつく。
土の感触が冷たく、現実を突きつけていた。
ザッ
空から落ちてきた白銀の剣がイザベラの横の地面に突き刺さり、乾いた音を響かせた。
視線を上げる。
そこには、真っ直ぐにイザベラを見下ろすリズが立っていた。
召喚した剣の鋒が迷いなくイザベラの眼前へと向けられている。
勝者の傲りも、嘲笑も、得意気な色もない。
ただ静かに事実だけを告げる声だった。
「勝負ありだな」
その言葉に、イザベラは悔しさよりもむしろ清々しいほどの疲労感を抱きながら鼻で笑った。
「………ふん、負けね。“今日のところは”」
「……はっ、懲りねえガキだな」
リズは小さく息を吐き、鋒を引っ込めると召喚剣を霧のように消した。
踵を返し、砂煙の残る戦場をゆっくりと歩き去っていく。
勝者の横顔は静かで、どこか満足げで。
そして敗者の胸には、確かな誓いが刻まれていた。
_____
「あはは、終わりか。大健闘だったね〜」
修練場に残る熱気も砂煙も意に介さず、ユルゲンはいつも通りのんきに笑った。
その軽さが場の緊張を少しだけ和らげる。
レベリウスは肩をすくめながらルヴァンへと視線を向けた。
「なかなか良い勝負だったじゃねーか。素人にしては上出来だろ?」
「……」
ルヴァンは短くレベリウスを一瞥するだけで、すぐに視線をイザベラへ戻した。
その表情は相変わらず冷静……だが、ほんのわずかに険しい。
「……不意打ちが失敗した時点で勝機は失っていた。降参すれば良いものを……無駄に足掻く必要は無かった」
それだけ告げると、背を向けて歩き去った。
レベリウスは去っていく背中を見送りながら、やれやれとため息をつく。
「素直じゃねぇなぁ、まったく……」
そして再びイザベラへと視線を戻す。
周囲にいた魔人たちも同じ場所を見つめていた。
その視線の先
膝をつき、肩を大きく上下させて荒い呼吸を繰り返すイザベラの姿。
「ハァ……ハァ……」
倒れてはいない。
だが、立ち上がることもできない。
魔力を限界まで搾り出した身体はまるで鉛のように重かった。
砂の上に手をつき、なんとか体勢を保っていると
「…!」
不意に、すぐ近くに影が降り立った。
その気配で誰かを悟ったイザベラは顔を上げる。
そこに立っていたのはレヴェナだった。
漆黒の髪が陽光を反射し静かに揺れる。
表情は読めず、ただじっとイザベラを見下ろしている。
イザベラは即座に眉をひそめた。
「あら、いたの?」
その皮肉まじりの声音にレヴェナは小さく息を吐いた。
完全に呆れた、というように。
だが叱ることも、茶化すことも、咎めることもせず。
レヴェナはただ、静かに手を伸ばした。
イザベラの前に差し出される、白くしなやかな指先。
拒まれることを知っていながらそれでも差し伸べる手。
イザベラは震える足を悟られまいと必死に顔をそむけた。
そして、強い声音でその手を弾く。
「結構よ」
その言葉とは裏腹に指先はかすかに震えている。
立ち上がるどころか、体勢を維持するだけでも苦しいのに。
レヴェナはほんの一瞬だけ目を細めた。
怒ってもいない。
呆れてもいない。
ただ、苦しそうなその背と意地を張る小さな声を静かに見つめていた。
その瞳の奥に宿っていたのは
敗北した少女への侮蔑でも見下しでもなく
確かな心配と、理解と、それから……別のもっと深い感情だった。
レヴェナはイザベラが拒んだにもかかわらず、手を引くことはなかった。
次の瞬間
ふわり、と。
「!?」
イザベラの視界が揺れ、身体がふっと浮いた。
理解が追いつくより先に彼女はレヴェナの腕の中に収まっていた。
片腕で背を支えられ、もう片方で膝裏を抱えられる。
一瞬、呆然。
次の瞬間、顔を真っ赤にして暴れ出した。
「ちょ、ちょっと!? なにして……っ、離しなさいよ!!」
「うるさい」
淡々と。
だがその一言には揺るぎない力があった。
レヴェナの腕の中でじたばた暴れるイザベラ。
しかしレヴェナは眉ひとつ動かさない。
そのまま軽く睨んだ。
その赤い瞳が、妖しく深く光を帯びる。
「……!」
イザベラの心臓がひゅ、と縮む。
抗う気力も声も、その光に吸い取られるように消えていく。
「なっ……っ……?」
意識が、遠い。
視界が暗く沈む。
レヴェナの胸元がすぐそこにあって、温かくて……。
ぱたり。
完全に意識が落ちた。
レヴェナは腕の中の少女を見下ろし小さく息を吐く。
「……」
無言のまま、ほんの一瞬だけ目元が緩んだ。
そして呟く。
「ベクタ」
直後、風が巻き起こった。
地面の砂が渦を描き、風が裂けるようにしてひとつの影が現れる。
ベクタが恭しく頭を垂れた。
「状態を」
「はい」
ベクタがイザベラへと近づき、指先に紫の光を灯す。
淡い光がイザベラの身体の表面を走り、そのたびベクタの表情がわずかに動く。
やがて光を消し、静かに報告した。
「……以前と同じですね。魔力の急速な消耗による疲労です。
身体強化の使い過ぎか、いくつか負荷がかかった箇所もありますが……大事には至らないでしょう」
報告を聞きレヴェナの長い睫毛がかすかに震えた。
「……そうか」
その声音は、普段と変わらない静けさを保っている。
だがベクタにはわかった。
その無表情の奥に端だけほぐれた安堵が滲み出ていることを。
ベクタは控えめに微笑んだ。
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