いっぺん死んでほしい男
服、脱ぎっぱなし。
シンクの洗い物、ほったらかし。
朝が来てもカーテン一つ開けやしない。
放置されていたゴミ袋を出しに行こうとしたら、ベッドの中から腕を掴まれた。「まだ行くなよ」と言いつけるユウキの声は、夢の中のようにとろけている。
こっちはあんたの不作為の始末をつけてるだけなのに。
無視しようとしたけど、しょせん腕っ節の強さでは敵わない。ベッドに引きずり込まれて抱き寄せられて、塞がれた唇にタバコの臭いが移った。ほんと最悪。寝る前にタバコを吸うなって、もう何べん言ったか分からない。
「ちょっと、やめてよ朝っぱらから……」
「なんで?」
「なんでって、ユウキも朝から仕事じゃん」
「俺はテレワークだよ。知ってるでしょ」
心のトゲを指先でなぞるようにユウキが笑う。この腹立たしい男はあたしの彼氏で、本業は商社のビジネスマン。テレワークと言いつつも電話がかかってくれば猫のように家を出てゆき、いつの間にか戻ってくる。その間、どこで何をしているのかは知らない。
「朝食はスクランブルエッグがいいな」
あたしの胸に顔を埋めながらユウキが言う。あたしは胸を掻きむしりたい思いで「自分で作ってよ」と吐き捨てる。
「ただ卵をかき混ぜるだけじゃん、あんなの」
「分かってないな。ユウリの作ったものが食べたいの、俺は」
「だったら離してよ」
「だめ。もうちょっと吸ってから」
ほら、始まった。あたしはもう溜め息をつくことしかできなかった。血の気が見えないほど真っ白なユウキの指が、あたしの脇腹へ蛸のように絡んでシャツをたくし上げる。昨晩の痣がまだ消えていないのを嬉しそうに確かめて、そこをまたぎゅうと吸いにかかる。やるべきことは何もやってくれないくせに、やりたいことだけやって気が済んだらベッドを出てゆくのだ。ユウキの前世はきっと淫魔だ。さもなくば、赤ちゃん。
どうしてあたしはこんな男にキスも身体も許さねばならないのだろう。
本当、大っ嫌い。
できればいっぺん死んでほしい。どこかあたしの知らないところで、無惨に野垂れ死にしてくれたらいいのに。
かたく目を閉じたあたしの肌をユウキの唇が這い廻る。細い指先がブラジャーのホックを引っ掻いて、金具を解いて外そうとしたところで──スマホの着信音が不意に沈黙を破った。
「やべ」
さしてヤバくもなさそうにユウキが上体を起こした。
「電話?」
「お得意様だ。朝っぱらから何の用かな」
すう、と深呼吸をしたユウキが、あたしを置いてベッドを出る。その眼には一瞬の間に鋭利な光が宿っている。「あッどうも、お疲れ様でーす」──人が変わったように笑顔でまくし立てながら、ユウキはカーテンをまくってベランダに出ていった。
あたしはそっと布団を引き寄せた。
タバコとユウキの臭いがする。
あのカーテン、いま引いたらユウキは怒るだろうな。あたしの方が殺されるかもしれない。くたびれた頭で考えながら不貞寝しようとすると、ふたたび着信音が部屋に響いた。今度はあたしのスマホに電話が来ている。
「……おはようございます」
『何を寝ぼけてる。定時連絡の時間だ』
目をこすりこすり、時計を見上げながらあたしは「すみません」と応答した。
『定時連絡が途絶えたら中隊を送り込むと言ったはずだぞ』
「“
『市民に銃声を聴かせるつもりか。貴様を送り込んだ意味がなくなるだろうが』
あたしは首をすくめながら布団にくるまった。電話の主は苛々とまくし立てる。
『任務を忘れるな犬養ユウリ。やつが不穏な動きを見せたら抹殺せよ、というのが九段の指示だ。隙を見せたらすぐに殺せ。“
ユウキといい、この上司といい、実行役に指示するだけの仕事は気楽なものだ。あたしも布団にくるまったまま、ユウキや上司を顎で使えたらいいのに。「承知しております」と投げやりに答えて通話を切ったら、どっと疲れが出てきて、あたしは布団の上へ大の字になった。
お出かけ用のカバンが視界をよぎる。
市販品のおしゃれなトートバッグの底には、支給品の拳銃と毒薬が眠っている。
ベランダで話し込むユウキの姿がカーテンに映っている。ユウキの勤務先は商社──否、世界中でテロリストや民兵に兵器を売り捌く軍需関連企業だ。その日本支部で営業を担うユウキは、この国にいつか災厄をもたらす死の商人。すでに暴力団や危険思想団体などとの取引が確認されており、事態を危惧した公安は彼を二十四時間体制の監視下へ置くことにした。
少しでも危険な動きがあれば彼を始末する。
そのために、あたしはここへ送り込まれた。
ふわり、カーテンが膨らんだ。電話を終えたユウキがベランダから戻ってきた。「スクランブルエッグできた?」と問われ、あたしは呆れ返って「見れば分かるでしょ」とぼやいた。ベッドの上で料理が済んでたまるか。
「ねぇ、たまには家事くらい手伝ってよ。難しいことなんか少しも頼んでないじゃん。どうしていつもあたしばっかり……」
「疲れてる?」
ベッドのふちにユウキは腰かけた。その大きな手が、そわりとあたしの髪を撫ぜる。
「……別に」
「見れば分かるよ。ユウリはすぐ顔に出る」
ユウキの声が優しい。あたしは寝返りを打ってユウキから目を背けた。この大きな、ひどく色白の手で、ユウキはこれまで幾つの命を刈り取ってきたのだろうか。あたしだって銃器や毒物の扱いは心得ている。でも、まだ本当に人を殺めたことはない。
ユウキは嫌いだ。死んでほしいくらい嫌い。そもそも恋人役をやっているのはユウキを殺すためなのだ。──だけど、いざ抹殺が下命されたとき、あたしは彼を殺せるだろうか。無防備な胸を、曝け出された首元を、殺意を込めて狙うことができるだろうか。
冷えて硬くなったあたしの胸を、そっとユウキが背後から抱きしめる。「俺さ」と、甘い声でユウキは語りかける。
「ちゃんと好きだよ、ユウリのこと」
「…………」
「こう見えても俺、警戒心は強い方だから。好きでもない相手に甘えたりしないよ。そのぶんユウリにも甘えてほしい。他人に言えないようなことも俺なら受け止められるからさ」
「……あんたのこと、殺したいくらい嫌いだって言っても?」
思わず言ってから、恐ろしい鎌かけをしたことに気づいてあたしは青ざめた。ユウキは意に介する様子もなく「受け止めるよ」と言った。
「そのときはちょっとだけ家事も頑張ろうかな。そしたら俺のこと、殺さないでくれる?」
あたしはどきりとして首を振れなかった。
「難しいことなんか考えないでさ、いっしょに幸せになろうよ。俺、どんな手を使ってでもユウリを守ってみせるから。他の連中なんかどうなってもいい。この世界が滅茶苦茶になってもいい。ユウリのためなら何だって厭わない」
──本当に?
問い返す言葉が、不覚にも喉元まで上がってきた。
ユウキの大きな、温かな手のひらが、骨抜きにされたあたしの背中を包み込む。ぎゅうと音を立てて胸が縮んだ。無防備な胸も首元も、こんな体勢ではまともに狙えない。もしかしてユウキは全部わかっているのだろうか。あたしがユウキの命を狙う暗殺者なのも、いま、心がぐらついて傾きかけているのも。
ああ、どうしよう。
大嫌いなはずなのに。
こんな男に篭絡される訳にはいかないのに。
気を抜けば思案してしまうあたしがいる。任務も何もかも投げ捨てて、この人に身を委ねたら幸せになれるかな──なんて。
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