誤解された仏教

むっしゅたそ

仏教は無神論で無魂教?

 仏教ほど、誤解にまみれた宗教(厳密には東洋哲学)はほかにないだろう。というのが、神を祭ってお願いをして願い事を叶えたり、葬式をして貰って良い来世に行くのが仏教だと勘違いしている人が物凄く多いからだ。


 まず仏教は神を祀らない。といっても「神が居ないから」と断言していないところは、現代の科学と同様である。「不在の証明」というのは実証主義の学問としてはなによりも難しいからだ。よって仏教の神への向き合い方は、カミュやサルトルと同じく「消極的非有神論」ということになる。


 要するに、神が居ようが居まいが、神を信仰することによってメリットがないから神を信仰しない、という立場である。


 魂も仏教は認めていない。これは、バラモン教という魂を信じる宗教へのカウンターカルチャーとして仏教が生まれたからであり、「諸行無常」を基盤にするからでもある。諸行無常とは、皆も知る通り、すべてのものは、うつろいゆくという考え方である。


 釈迦は、世界の様々なものを徹底的に観察・洞察して、不変不動なるものが存在しないという確信に至ったようだ。なるほど確かに私の感覚からしても、今まで生きてきて不変不動のものはなかったので、不変不動の魂なるものがあるんだよと言われても納得できない部分ではあった。


「でも葬式をして死者を来世に送るじゃん」と仰るかもしれないが、実は葬式というのは中国の文化と、日本の神道が混ざった文化であり、仏教の仕事ではない。歴史でも習っただろうが、「神仏習合」の名残として、仏教が(悲しいことに)葬式を担当することになっているだけである。本来は人間の肉体は、仏教的には死んだら「ただの物質」である。だから単なるゴミとしてガンジス川に遺体を流す。漫画「寄生獣」に、寄生獣化してロボットのように超合理的に考えるようになった主人公が、犬の死体をゴミ箱に捨てるシーンがあったと思うが、あの感じがまさに仏教の死体に対する触れ合い方だ。


 —―といってもここは私が仏教に納得できない点でもある。確かに死んだらただの物質ではあるのだが、それでもそこには色々な観念が思い出として残っているから供養したいと思ってしまう。それは私がまだ修行不足で、仏教でいうところの「執着」を、亡骸に対しても持っているからなのかもしれない。


 ここまで書いてきてやはり思ったことは、真に仏教的に生きる人間は、周囲から見ると感情を切り捨てて合理的に生きるロボットのように見えるだろうということだ。

「でも都合が悪くなったら仏に祈るんでしょ?」という考える人もいるが、これも誤りである。「自力本願」という考え方がベースの仏教では、自分の思考力を1番行為の指針に据える。よって、自分で試行錯誤して、どうにもならなかったらそれまでである。仏(仏陀)は紀元前に亡くなっているので、――尊敬の対象ではあれど(信仰ではなく尊敬というのがポイントだ)—―物理的に助けてくれることは絶対ないと考えなければならない。しかし、紀元前に哲学的な苦悩を解決して生きた人間が実在したということに、仏教ファンは励まされるのだ。


 ただし私が述べているのは、原始仏教や初期仏教、今でいうミャンマーやタイの本来の仏教のことだから、中国の道教などと混じった天台・真言などのオカルティックな要素のある仏教を指しているわけではない(真言・天台・チベット密教は、普通に神仏を信仰の対象にして崇めているので純粋な仏教と言い切れない。阿弥陀如来を祭れば極楽に行けるという教えの浄土系はもっと本来の形から遠くなっている)。


 少なくとも本来の仏教は信じる者は救われる類のものではない。むしろ批判的思考が求められる哲学なのだ。


 じゃあ、神仏は救ってくれない、輪廻も仮説にすぎないから、来世についても断定してくれず、結局よく分からない。超能力が身につくわけでもない、そんな宗教に一体なにを求めて人が集まるのだろうか?


 西洋哲学ではカントが「純粋理性批判」で、理性では「モノ自体」(世界そのもの)に到達できないことを論証した。それをショーペンハウアーが「意思と表象の世界」で「時間と空間」の観点から、乗り越えようとし、モノ自体に近づこうとした。しかし決定的にモノ自体に近づくプロセスは結局西洋哲学では結局完成されなかったように私には思えるのだ。


 そこで、モノ自体に最も近づけそうな哲学が仏教なのである。少なくとも理性でモノ自体に到達できないことが分かったならば、答えは簡単だ。


 モノ自体には、(「純粋理性批判」で論証されたように、理性ではなく)五感によって歩み寄るほかない。その、具体的な接近方法が、仏教の瞑想である。瞑想といってもそれは、心を無にしたりするような類のものではない。心を無にするタイプの瞑想のことを止観サマタと言うが、これは他宗派が重きを置く瞑想だ。仏教の瞑想は観察ヴィパッサナーといって、もののありのままの姿を、言語的フィルターや色眼鏡を通さず、ただただ徹底的に観察しつくす類のものだ。


 それは科学のように、観察した内容を第三者に報告する義務も存在しないから、行者はひたすら自分の五感を通してうつる世界の観察に没頭した生活を送ることができる。


 こういった、モノ自体に徹底的に近づく試みが仏教という実践哲学だというのが、あまり知られていないことに私は時々悲しくなる(断じて霊やオーラを見るようなオカルトではない)。


 その上で、仏教が目指す最大の境地が「悟り」という言葉で表現されているのは、仏教哲学の本質をよく表されていると思う。科学が「実証」で、哲学が「論証」ならば、なるほど仏教は「悟り」を目指していると言えるし、そう言ってよいだろう。

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誤解された仏教 むっしゅたそ @mussyutaso

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