第3話 秋の海(1)
男は椅子の上でへそをのぞくほどうつむき肩を丸めていた。声は小さく、緊張のためか震えていた。どうにも一対一で向き合って話すことに慣れていないらしい。顔は入室する際にちらと見た程度だが、年齢より幾分幼い印象を与えた。何もしていないのに西村は怯える被疑者を取り調べているような気分だった。
「えー……つまり、こういうことでしょうか。ひと月ほど前から大学の近くのアパートで独り暮らしを始めた。するとしばらくして壁側に置いた戸棚がゆがんできて、そちら側の隣の部屋から変な音が聞こえるようになった。隣人はおそらくここの学生で、何かの魔術を使っている影響なのではないかと考えられるが、近所トラブルが嫌なので問いただすこともできない、と」
途切れ途切れの下手な説明をまとめると、男はやや間をおいて「…………はい」とつぶやいた。
「学生だろうというのは、大学から近いからということですか」
「……一回、顔を見ました、越してすぐのとき」
「そうでしたか。何か印象的なところはありましたか」
「……普通の若い男でした。見た目も、普通」
「変な音というのはどのような音ですか」
「……なんか、……遠くで、電車が通る時の、音みたいな」
「遠くの電車の音……なるほど」なるほどとは言ったが西村に心当たるところはない。「戸棚がゆがんでいるというと、空間操作系の魔術の干渉を受けてしまっている可能性が高そうですね」
「……あ、あの」「はい、なんでしょうか」「その……空間操作は禁止魔術ではないんですか」
「いえ、確か、免許があればだれでも使える魔術の一種だったはずです。狭い部屋を拡張したり変形させたりして広く見せたり間取りを変えたりするというのは一般的な使用方法ですが、隣の部屋に影響を与えてしまっているなら処理が甘いのかもしれません。ちゃんと免許を持っている人が使ったのか、怪しいかと思います」
「……そうですか」
男──本人は名乗らなかったが千田というらしい──はさらにうなだれた。壁に映る異国のカラフルな街並みとミスマッチだった。
「相手が学生ですし、直接掛け合うのが難しいようなら大学の事務局に仲裁を頼むのも良いのではないかと思いますが」
「事務局」
男はその言葉に反応した。
「どうかされましたか」「……には、その、私生活について、あまり知られたくなくて」
「わかりました。たとえば、匿名で音がうるさいからどうにかしてくれと手紙を書いてみるとか、もう一度引っ越すとか、そういった方法をとってみるのはいかがでしょうか」
千田はしばらく岩のように動かなかった。西村の提案を頭の中で検討していると見えた。しかし、
「……あのやっぱり、いいです。べつに、棚が変になるとか、音がするとか、そのくらいなら、た、耐えられるので」
と言い終わるか終わらないかのうちにガタガタ立ち上がろうとした。西村は慌てて静止し、
「ほかにも方法はあるはずですから、落ち着いてください」
とは言ったものの、ご近所トラブルの相談というのは前例がなく、賃貸契約の問題なら三吉に引き継げばいいがそうでもなし、と考えを巡らせた。
「……」
千田はゆっくり座りなおした。
「大家さんに相談するとか……は、難しそうでしょうか」
耐える方がまし、と思われないような提案と考えると難しかった。
「……」
「では、私がお隣の学生について調べるというのはどうでしょうか。千田さんの名前は伏せますから、私生活について何か知られる心配もないと思います」
「……調べて、それでど、どうするんですか」
「それは調べるまで分かりません。その学生の友人に会えたら言伝を頼むかもしれませんし、学生の側に何か事情があるならそれをうまく解消できないか試みるかもしれません。しかし、有益な情報が何も得られない可能性もあります」
「……はあ」
「あまり交流のない隣人との問題なら、なんにせよ動かなければいけないでしょう」
千田に動く気がないから、と西村は頭の中で付け加えた。
「……そんな、ことしてくれる場所なんですか、ここって」
「どんな相談者の方にもちゃんと向き合うということを指針にしていますから」
千田は再び黙り込んだ。しかし前の提案よりも前向きになっているのは明らかだった。
「じゃ、じゃあ、お願いします。……調査」
「わかりました。できるだけのことはします」
ぎこちなく頭を二、三度下げ、千田は立ち上がった。床に川が映るので足取りは少しふらついていた。
西村は報告書を書き、少し調べ物をしますと言い愛宕から何を調べるんですかと聞かれながら相談室を後にした。向かう先は事務局のある四十九号棟で、数度しか訪れたことのない西村はだいぶん道に迷った。やっとたどり着いたのは白い漆喰壁の建物だった。ウナギの寝床のように細長く、どこまで続くかは正面から見るだけではわからず、小さな正方形の窓が規則的に並んでいた。観音開きのドアを開けると、高らかなオルガンの音色に襲われた。
見るとロビーの壁際にパイプオルガンが据えられ、電動か魔術か定かではないが、無人で親しみやすいメロディを奏でていた。が、なにせ音量が大きい。
建物は奥行きがある代わり間口は大人が三人腕を広げた程度しかなく、受付のカウンターの向こうには向い合せたデスクが延々と連なっていた。奥の方は霞んで見えない。西村は受付にいた職員に声をかけた。
「失礼します。大学生活局の職員です。ある学生について情報をいただきたいのですが」
「学生の情報がほしいとはどういう事情ですか」
「はい?」職員は何か言ったようだったがオルガンの音に阻まれて聞き取ることができなかった。「すみません、もう一度言ってくださいませんか」
職員はカウンターから小さなホワイトボードを取り出し、「なぜ情報を?」と書いて見せてきた。
「実はその学生と同じアパートの下の階に住む学生から騒音に関する相談を受けていまして、代理でその学生に対して注意を行おうと思っています」
西村は嘘を織り交ぜながら説明した。
「了解 職員証を見せてください」と書かれ、西村は職員証を提示した。「知りたい情報は?」
「フルネームと、学部、学年が分かれば十分かと。また詳しい話は学部の学生課に聞きますので」
「学生を特定できる情報を教えてください」
「苗字は重石と言うそうです。住所は」千田から聞いた住所を伝えた。
「承知 少しお待ちください」
職員の姿ははるか遠くに消えた。それにしても変な空間だと西村は思った。赤茶のじゅうたんや豪華な照明はホテルのロビーを思わせるが、その割に狭く、隣で老婆が入学手続きの資料を持って何かを訴えているのが視界に入る。この狭い空間になぜオルガンを置いてさらに狭くしているのだろう。
と、職員が戻ってきた。
「重石圭々 工学部 2年」
「ありがとうございます」
それから二、三質問し、耳が痛くなる前に足早に建物を去った。
次に向かうのは無論工学部だった。案内図によれば二十五号棟、西村は訪れたことがなかった。ちょうど稲刈りの終わった水田を越えて見えてきた二十五号棟はガラス張りの美しい建物で、学内にこんな場所があったのかと西村は驚いた。
回転扉を通って学部棟に入ると外観に引けを取らないほどまぶしい学生の姿が目に入った。つまり、立ち話をしたりふざけあったりベンチに腰掛けたりする学生の姿が活気にあふれていた。どこからかジャスミンの香りがして、西村は工学部ってこうなのかと思いつつ金ぴかのエスカレーターに乗った。
「重石圭々という学生について教えてください。申し遅れました生活局の職員です」
二階の奥まったところにある学生課に入るなり透明のカウンターとパーテーション越しに声を上げ職員証を見せた。すぐ前にいた職員が立ち上がり、無言で西村の手元を確認するとデスクに戻ってパソコンを触り始めた。それを待っていると、デスクの奥で雑談していた若い男がこちらに歩いてきた。
「あの、ケーケーの話ですか?」
「重石さんをご存じですか」
「はい。ああ俺、学生課でバイトしてて普段はここの学生なんです。ケーケーは一年のとき演習が一緒になって、いまも同じ講義取ったりしてます」
男の首からぶら下がる名札を見ると英虞湾亘というらしい。紺のシャツで背を伸ばし、模範的な大学生という感じだった。
「なるほど。重石さんの印象について教えていただけますか」
「印象?まあ真面目だけどノリいいししっかりしてるし、かなり健康なやつって感じですね」
「そうでしたか。実は重石さんの近所の方から相談を受けていまして、重石さんの部屋から変な物音がするから心配だということなのですが、なにか心当たりはありますか」
「んー、家行ったことないし、物音だけだと分からないですね。歌うのは好きらしいけど歌声なら変な物音って言わないですよね。楽器とかやってなかったと思うし。ていうか、なんで近所の人が生活局の職員さんに相談してるんですか」
「それは……たらいまわし的に……」
西村が言葉を濁したところで職員が印刷された紙を持ってきた。
「重石圭々さん、工学部の二年生で学籍番号Y125682。アカペラサークルに所属していますね。実家は静岡県……このあたりの情報は必要ですか」
「いえ」
職員は二枚目の紙を見せた。
「調べてみたんですが、ここ二、三週間は授業に出席していないようですね。記録に残っている限りだと、十月二十六日の四限が最後です」
「そういえば」英虞湾が口を開いた。「最近顔見てないですね。あんまサボったりするタイプじゃないんでどうしたんだろって今となれば」
「なるほど」
「申し訳ありませんが、お見せできるデータはここまでです」
「ありがとうございました」
西村は一礼し、職員はデスクに戻った。
「心配ですね。大学来てないってだけならまだしも、変な物音とかってなると、なんかトラブってるんですかね」
「これまで重石さんがトラブルに遭っていたことがあるのですか」
「いや全然。ほんと、真面目でいいやつなんで」
真面目でいいやつと言われる学生が自宅で空間操作魔術を使ったりするだろうかと西村は疑問に思った。
「そうでしたか。お話聞かせてくださりありがとうございました。あの、もし重石さんと連絡がとれるようでしたら、物音がするらしいが大丈夫か、といったことを伝えていただくことはできますか」
「ああ、いいですよ。一応連絡先あるし」
英虞湾は笑顔に二つ返事で応じた。感じのいい学生だった。
次に向かうのは二号棟、サークル活動が行われる通称学生棟だった。広大な敷地の奥から校門の近くまで戻るのにまた一苦労した。銀杏の匂いの立ち込める中央通りを息を止めながら通り抜けた先にデパートのような重厚な見た目の二号棟があった。
手動ドアを押し開けた先に大理石の壁床天井がありぴかぴかに磨かれて光っていた。正面に大きな階段、右手にエレベーターホール、左手に広間が見えた。階段の根本に受付があり受付嬢がいた。
「すみません、アカペラサークルは何階にありますか」
「アカペラサークルは七つございますかどのサークルでしょうか」
「七つ」サークル名までは聞いていなかった。「あの、重石という学生の所属しているサークルを探しているのですが」
「申し訳ございませんが、各サークルの所属メンバーまでは分かりかねます」
「そうでしたか。では七つのサークルの部室をすべて教えていただけますか」
「承知いたしました」
受付嬢は美しい字で部室の部屋番号を書いた紙を渡した。
「ありがとうございます」
「これからもサークル、ビューティフルレセプショニストをよろしくお願いいたします」
どうやらこの建物は完全な学生の自治空間らしく、エレベーターボーイも売店の店員もオープンスペースでやたら騒いでいるのも一様に大学生だった。西村は渡された部屋番号を下の階から順にめぐっては「重石さんの所属しているサークルですか」と尋ね続け、最後にたどり着いた十八階の1803が探していたサークルだった。
「失礼いたします。ここは重石さんの所属しているサークルですか」
ドアノブを引くと、部屋は真っ暗だった。目を凝らすと正面の壁にプロジェクターで映画を投影して三名の学生が椅子を並べて鑑賞していた。
「え、誰」
真ん中に座っていた学生がこちらを振り返った。女性の声だった。
「生活局の職員です。重石さんについて聞きたいことがあるのですが」
「重石くん?重石くんがどうしたんですか。最近来てないけど」
別の学生が部屋の電気をつけた。物は整頓されているが、よく磨かれた廊下には見劣りする普通の部室だった。
「はい。ここ二、三週間ほどいらっしゃってないということですが原因はご存じないですか」
「えー、分かんないです。そもそも今ってそんな活動する時期じゃないし。みんなは何か知ってる?」
女子学生が尋ねると、周りの学生も首を横に振った。
「重石さんになにか問題やトラブルはありましたか」
「ないない。優しい、元気、真面目!って感じの人ですよ」
英虞湾にも真面目で健康と言われていた。相当トラブルと無縁な人間なのかもしれない。
「重石さんの近所の方が騒音がすると言っているそうなのですが、こちらのサークルでの活動と何か関係していそうか、ご存じないですか」
「んー、普段彼が何してるかとか知らないので何とも言えませんけど。人に迷惑かけるタイプではないと思います」
「話は変わりますが、皆さん普段ここで練習されているのですか」
「しないですよ。そんなことしたら周りの迷惑だし。練習室借りることもあるけど、基本カラオケですよ」
男子学生がスナックを口に放りながら言った。
「そうでしたか。では、この部室に防音とか空間操作の魔術を使って練習部屋にするとか、そういうことはなさらないのですか」
「いやー、考えたこともないってわけじゃないんですけど、防音はお金かかるし、魔術を使ってっていうのもなんか大変そうだし。カラオケで事足りてるんでそういうのは全然」
「空間操作の魔術を使える方はいらっしゃらないのですか」
「え、いませんよ。あれって免許とかいるんじゃないですか」
学生たちは顔を見合わせた。
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