灰色の善意

 ようやくチャージを開始できる。

 ICカードを機械に入れ、肩掛けバッグの一番外側のポケットを漁る。愛用の二つ折り財布をいつも入れている場所だ。


 ……見つからない。


 手探りで見つからないので、豪快にチャックを開けて目視確認する。


 ……無い。


「えっ……」


 そんなばかな。ごそごそとメインコンパートメントや内ポケットをくまなく探すが、見当たらない。

 混乱が襲う。

 背後に並ぶ人達の苛立った足踏みが聞こえる。


 その無言の圧力に耐えかねて、智美は一度列を抜けた。


 落ち着いてバッグを底まで確認するが、財布は見つからない。

 そろそろ慌てる時間になってきた。

 ざわざわしだした胸と、混乱のあまりボーっとしだした頭を、深呼吸して落ち着ける。そして、今日一日を振り返る。どこで財布を出したかを。

 そもそも財布は入れていたか? 朝家を出る前に忘れ物が無いか確認したので、間違いなく入れている。

 朝は出勤しただけだから、財布は取りだしていない。

 昼は休憩室のフリードリンクのお茶と、持参した菓子パンだったから、やはり財布は取りだしていない。

 そして今に至る――。どこで財布を失くしたのか、とんと検討がつかない。


 ――いや、ちょっと待って。


 電車の乗り換え待ちの間に、あまりに寒くて、駅の自動販売機でミルクティーを買った。現金で支払ったので、その時に財布を取り出している。


「あ!」


 コートの右ポケットに手を突っ込む。そこに、探しに探した二つ折りの財布が入っていた。

 ミルクティーを購入したとき、電車がすぐに来てしまって慌てていたため、バッグに戻す余裕はなく、とり急ぎポケットに突っ込んだのだった。見つかって安堵したが、こんな時にこんな馬鹿をやらかしてしまう自分に情けなくなった。

 自動精算機にはもう誰もおらず、すぐさまチャージを開始した。


 ICカードを読み込んでからの反応が遅い!

 千円札を飲み込む速度が遅い!

 チャージが遅い!


 感情のない機械的な動きに(機械なのだから当たり前なのだが)、焦りとイライラが募っていった。ようやくチャージが終わり、改札という名の牢獄をようやく抜け出すことができたのだった。


 大急ぎで乗り換えの電車に向かったのだが……。


「本日の運転は終了しました……?」


 電光掲示板に、無常で無慈悲な案内が表示されていた。

 時計を見れば、発車予定時刻を過ぎていた。智美は呆然と、その案内を眺める。

 そんな智美の目の前を、粉雪が挑発するように横切っていった。


 どうしようか。今乗ってきた電車も運休に入ってしまったので、進むことも戻ることもできない。タクシーなんて高くて使えないし、そもそもこの悪天候の中で拾ってくれるのか分からない。

 それならば、ここから一番近いホテルを探すか……。しかし、財布の中身的に宿泊料金を支払えるか怪しい。しかも、この雪が明日も続くようなら、運休が続く可能性だってありえるわけで。そうなったら、ホテルに連泊しないといけないわけで。

 ATMは駅にあるが、貯金が無い。つまり、財布の中のお金だけでどうにかするしかない。つまり。


「詰んだ……」


 最後の晩餐がミルクティーだなんて、あんまりだ。いや、おいしいけど。そういうことじゃない。

 悲惨な状況もここまでくると、頭の中で一人漫才が始まるくらいには、逆に冷静になる。


「あの……」


 焦点の合わない目で電光掲示板を見ていた智美は、声がした背後を振り向いた。焦点が合うまで2秒かかったが、モザイクがかかったような相手の顔が、ようやく明瞭な姿に処理されて認識できた。

 先程、自動精算機の使い方を教えてあげた老夫婦だった。

 智美が帰れなくなった原因のひとつたる彼らが、眉を八の字にして、しかも背中を丸くして、ただでさえ低い身長をさらに低くしていた。


「えっと……何か?」


 彼らも電車を乗り過ごしてしまったのだろうか。で、先ほど助けてくれた智美に、また助けを求めてきたのだろうか。冗談じゃない。自分だって困り果てているのに。

 そんな考えが浮かんで、内心毒づいた。表情に出ないように、相当なカロリーを使った気がする。

 しかし、彼らの要件は智美が思っていたものと全く違っていた。


「もしかしたら、電車に乗り遅れて帰れなくなってしまったんじゃないかと思って、声をかけたんだ」

「私たちの家、この近所なのだけど、よかったらいらっしゃらない?」


 旦那さん、奥さんが順にそう言った。


「きっと、私たちが機械の前で長い時間もたもたしてしまったから、乗り遅れてしまったのよね。ご迷惑をおかけしてしまったのが申し訳なくて、お詫びさせてほしいのよ」


 突然のことで何の反応も返せずにいる智美に、奥さんがそう続けた。

 老夫婦の様子を見るに、本当に申し訳なさそうで、心からそう思ってくれているのだと感じた。

 確かに智美が凍死予備軍になった原因の一部は彼らだが、智美に落ち度が何も無かったわけではない。通勤定期を買ってなかったとか、ICカードにチャージしてなかったとか、財布をなかなか見つけられなかったとか。どれか一つでも欠けていたら、この状況にはなっていなかったかもしれない。

 故に、何もかも彼らの責任にするのはお門違いだ。そう思って最初は遠慮したのだが。


「でも、何か当てはあるの?」


 そう言われるとぐうの音も出ない。帰れないし、泊まれるか分からないのだから。

 他人に迷惑かけちゃだめだよ。断ろうよ。……と言う、智美の中の天使。

 好意を無下に断るのは失礼だろ。電車に乗り遅れた一因には違いないんだし、甘えたってバチは当たらないだろ。……と言う、智美の中の悪魔。

 3秒の熟考の末、軍配は悪魔に上がった。


「ご迷惑をおかけしますが、一晩ご厄介になってもよろしいでしょうか……」


 本業より丁寧なお辞儀を返した。

 智美の返事に、老夫婦は安堵したような表情になる。


「もちろんだとも。一晩と言わず、電車が動くようになるまで居てくれても構わないよ」

「ええ、そうね。元はと言えば私たちのせいで乗り遅れてしまったんだもの、迷惑だなんて思わなくていいのよ。先にご迷惑をおかけしてしまったのは私たちなのだから、そのお詫びだと思って来てちょうだい」


 雪で冷えた身体と、あまりの不運に冷めた心が、老夫婦の笑顔で温かくなった。

 捨てる神あれば拾う神あり。智美は心から感謝して、彼らの後をついていった。



 それが、監視カメラに映った智美の最後の姿だった。

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