第2話 サファイア

 時刻は、午前九時を少し回った頃。

遠い国の小さな島。山奥の隔離された病院。

 そこは、面会謝絶の奥の個室だった。


「──つまり?」


 少年が冷めた声で問いかけると、目の前の彼女はわたわたと慌てた様子で答え始めた。


「えっとえっと。あの、私は君の担当医で、お世話をするロボットです!あっ、ロボットと言うのはですね?このサナトリウム【ララット】専用の医療用アシスタントロボットのことなんです!高性能なんですよっ! 」


 胸を張って自信満々に宣言する彼女。

その言葉の節々には優しさが垣間見えている。

 けれど、話すのが随分下手くそだ。そんな印象を抱く。患者に説明をする医者とは思えやしない。


「あっ、サナトリウムの説明はもう受けてますか?【ララット】は、君のように奇病を患った患者さんを癒す場所なんです。それから、ええと、私はそんな君のお世話係兼先生で·····?そ、そう! つまるところ機械でございまして! こんなにも愛らしく麗しく見目麗しい存在ですが、なんと人間ではありません!」


 彼女の額には不自然な程に、細かい冷や汗が滲んでいた。その表情も、声の震えも、どこを切り取っても、彼女は人間そのものだった。


「どう見ても人間じゃん。愛らしいは余計だし」

「ええっ!?」


 少年の辛辣な返答に、彼女は目を丸くして驚いた。


「ほら、まさに今の表情とか。とてもロボットが再現出来るとは思えないね」

「そ、そんなこと·····な、ナイデス、ヨ~ッ?」


 今更カタコトにしたところで、ごまかせるとでも思っているのだろうか。

彼女の無理矢理すぎるロボットのような演技に、少年は深い溜め息を零した。


 バカみたいだ。


 心の中でそう呟きながらも、どこかでほんの少しだけ、温かい感情が芽生えるのを感じていた。それは怒りでも不信感でもない、もっと曖昧で、忘れかけていた何かだ。


「あ! でもっ、ロボットじゃないと、ほら、ね? 君のお世話は難しいですし! それが何よりの証拠ではないかと!」

「っ、それ、は、そうだけど·····」


 少年は視線を落とした。


少年が患っている病。それは吐き出した液体が宝石へと変わる奇病。【宝石病】と呼ばれる病だ。


【宝石病】は、吐き出した宝石や彼自身に触れることで、他者へ感染する可能性があると言われている。


とはいえ、前例のない病気だ。本当に感染するのかすら怪しい。

 けれど、誰もその真偽を確かめようとはしない。当然だ。そんな危険を犯してまで、彼を思いやる人間などいやしないのだから。


 皮肉なことに、少なくとも少年の周りに害が及んだ分、それは濃厚だった。

彼の家族は、彼が吐き出した宝石に直接触れて、身体も心も壊れてしまったのだ。

 それは思い込みだったのかもしれないし、ただの偶然だったのかもしれない。

それでも、優しかった母の瞳が濁り、父の手が震えるようになった日を、少年は忘れられない。


 その結果は、周囲に脚色されて広がっていった。


 だから、少年は今、ここにいる。


この孤独なサナトリウムで、誰にも触れられず、誰にも必要とされず。ただそこにあるだけ。


「·····まあ、たしかに、感染してまで看病してくれる人なんて、いるわけないか」


 少年は吐き捨てるように呟いた。その言葉は、まるで自分自身を呪うようだった。


 こんな奇病が存在する世界だ。


 人間に限りなく似通ったロボットがいてもおかしくない、そう思う方向で一度考えてみる。


 すると、どうだろう。呪いのようなこの病気よりも、各国の最先端技術を信じる方が、いくらか容易い気がしてくるのだ。


 それに、彼女がもしもロボットなら、きっと触れても大丈夫なのだろう。

 科学の産物なら、この呪いのような奇病にだって、負けるはずがないのだから。それはとても魅力的だった。


 とはいえ、出会って間もないこの人間くさい自称ロボットをすぐに信じられるはずもない。


 だから、確かめたくなった。

 彼女がただの機械なのか、それとも人間なのか。


 誰かに、触れてみたくなったのだ。


「·····ねぇ」


 少年はそっと手を伸ばした。けれど、その腕が彼女に届く前に、それは力なく落ちる。


 やっぱりやめよう。


 こんなことをしたって、何も変わらない。それに、もしも彼女が本当に人間だったなら──きっと、後悔してしまうから。


「いいですよ?」


 その言葉はまるでかつての母親のように優しくて。勝手に父親を彷彿とさせる頼もしさがあって。

 けれど少しだけ、それらとは違っていた。


 彼女の細くしなやかな指が、躊躇いなく少年の手に触れる、


その瞬間



「──いやだっ!」



 少年は彼女の好意を、差し出された手を、なりふり構わず振り払った。


 次の瞬間には、胸の奥から押し寄せる罪悪感と後悔の波に溺れていた。目頭が熱くなる。

 けれど、それを認めたくなくて、彼女を睨みつけた。


 ダメなんだ。


 触れてしまったら、病気がうつるかもしれない。

 泣いてしまったら、涙が宝石に変わってしまう。

 そうしたら、皆が怖がって、嫌って、避けていく。

 そして、彼女もきっと。


「ふふっ。患者くんの瞳は、サファイアみたいですね」


 突然の言葉に、少年は眉をひそめた。


 サファイア。


 聞いたことはある。あの有名な、青くて硬い、高価な石のことだ。

 けれど、それ以上のことは知らなかった。


 少年の知る限り、宝石なんて冷たくて、硬くて、人が価値を卑しく示す為のものだ。

 特にダイヤモンドなんて、最も忌々しい存在だった。その輝きが何度も少年の心を傷つけ、涙を宝石へと変えてきたのだから。


 だから、少年は宝石という言葉を耳にすると、決まって胸がざわついた。


 だというのに、彼女の言葉には不思議な温かみがあった。その声はまるで、冬の朝に差し込む淡い陽だまりのようで。


「·····サファイア?」


 少年の問いかけに、彼女は優しく微笑んで頷いた。その笑顔はやけに優しくて、やっぱり、彼女がロボットだなんて信じられなかった。


 彼女はゆっくりと窓の外へ視線を移す。

そして、冬空を見上げながら言葉を紡いだ。


「サファイアは『空の宝石』なんです」


 澄んだ空気に、その言葉が溶ける。

窓の外には、どこまでも広がる青い空があった。


 透き通るようなその色は、少年が知る限り、もっとも遠い存在だった。


「ほら、見てください。あの空の色」


 彼女の声が、優しく少年を包み込む。

少年は彼女の指し示す方へ視線を向けた。


「サファイアは、空を丸ごと閉じ込めたような宝石なんです」


 空を閉じ込めた宝石。

一体何のことだろう。

少年は初めてその言葉の意味を考えた。


「朝の空も、昼の空も、夜の空も。春も、夏も、秋も、冬も。色んな時間帯の、色んな季節の空の色をしているんです」


 彼女の言葉を受けて、サファイアを頭の片隅で浮かべる。


 果てしない空を内包するその輝きは、遠く冷たいものだと思っていた。けれど今は、こんなにも近くに感じる。それは何故なのだろう。


「空の、宝石·····」


 少年はぽつりと呟く。


「はいっ!どこまでも広がる空と、患者くんの瞳は、とてもよく似てます!」


 彼女の瞳が、少年をまっすぐに見つめる。

 その瞳は、まるで研ぎ澄まされたダイヤモンドのように、冷たさと温かさを併せ持っていた。

 その瞳に吸い込まれてしまいそうだった。どうしてか、彼女から目を逸らすことが出来なかった。


 ·····彼女の指が、そっと少年の頬に触れる。


 白くて細い指だった。

 その触れ方は、驚くほどに柔らかくて、懐かしい温もりがそこにはある。


「ふふっ。大丈夫ですよ? ほら、私はロボットですから」


 まるで幼い子どもをあやすような優しい声が、少年だけに向けて降り注ぐ。


 少年は、一瞬、息をのんだ。


「こわくない、こわくなーあい」


 彼女の柔らかな手が、割れ物を扱うようにそっと、優しく丁寧に少年の指先へ触れている。


 腫れ物扱いされていたあの頃とは違う。

 厄介者だと笑ったあの人達とは違う。


 少し不器用な彼女の手は、驚くほどに心地がよかった。


「ね、なんともないでしょう?」

「そ·····れは、そうだけど」


 彼女の細くて繊細な指先が、ゆっくりと少年の肌を撫でる。その温もりは直接肌へと伝わり、いつの間にか、心の奥まで染み渡っていた。

 誰かにこうやって触れられたのは、一体いつぶりだろう。


「·····即効性の病気じゃないし。うつったとしても、すぐには分からないじゃん」


 少年が意地を張って言い返すと、彼女は一瞬きょとんとした顔をして。

けれどすぐに、花が咲くような笑顔を見せた。


「じゃあ、ずっと一緒にいて、証明してあげますよ!」

「~っ、なんでお前がそんなことするんだよ!」


 少年は思わず声を荒げる。しかし彼女は気にすることもなく、にこにこと続けた。


「だって私は、君のお医者様ですから!」


 きらり。瞬く彼女の髪と瞳。


 それはやっぱり、ダイヤモンドによく似ていた。

 あの宝石は、少年の涙が具現化したものだった。彼の弱さの象徴だった。


 けれど、彼女は違った。


 同じ輝きを持っているはずなのに、その光は少年を傷つけることはない。

 むしろ、壊れかけた心をそっと包み込むような、温かな安らぎをもたらしてくれる。


 大嫌いなはずなのに、どうしてこんなにも彼女を美しいと思ってしまうのだろう。

 どうして、サファイアに例えられた自身の瞳を、好きだなんて、思ってしまうのだろう。


 窓の外には、どこまでも続く青い空があった。


「·····じゃあ、せいぜい頑張ってみてよ」


 少年の瞳に映る空の色は、あのサファイアのように、どこまでも澄みきっているのだった。


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