十一
「
躯血の短い問いに、青ざめていた常盤は間髪入れず首を横に振る。
「先に見てまいりましたが、いらっしゃいませぬ」
激しく動揺している彼女の足には、のっぺらぼうが足にしがみついている。
躯血は朱火が海を見たい気持ちが抑えきれなかったのかとも思いかけたが、それならばのっぺらぼうは連れて行く気がした。
そもそも常盤は腕のたつ草。寝ていたとしても、隣の子供が抜け出すのに気付かぬとは思えない。しかも隣の部屋には躯血もいたのである。
「なにかに呼ばれたか」
妖の特別な力が働いたのならば、ふたりに気づかれず、朱火を部屋の外へと連れ出すことは可能かもしれない。
彼はお札が張られた益荒男を握る右手を突きだす。
「あの川の妖同様、並みではあるまい。感じるであろう」
躯血の言葉に応えるように益荒男の帯が一方向へ揺れる。
「あちらには何がある」
益荒男のが揺れた方角に顔を向け問いかける
「海です!」
反射的に答えた彼女に躯血は深くうなずく。
「常盤、管狐を放て。正確な場所を探らせろ」
「ただいますぐに!」
胸元から竹筒を取り出す彼女を尻目に、彼はのっぺらぼうを常盤の足から引きはがし肩に担ぎあげる。
「どうせついて来るのであろう。しっかりと捕まっておれよ」
躯血はのっぺらぼうが彼の服をしっかりつかむのを確認すると、管狐を放った常盤と共に駆けだした。
彼らの求める少女は、浜辺でひとり月光を浴びていた。目を閉じ、耳に届く波の音を一身に受け止める。初冬の夜の砂浜は冷えきっていたが、朱火は気にする様子もなく、裸足で海へと歩きだす。
そんな彼女を迎えいれるように海から女が現れた。髪がしっとりと濡れた美しい裸の女。だが美しいのは上半身まで。下半身はぬめぬめとした鱗に覆われた太くて長い蛇のような姿。
「ああ、可愛い子。私の可愛い子」
海から現れた
彼女は抵抗はせず濡女にされるがまま。
膝まで海につかった朱火が大人しくしていることに気を良くしたのか、濡女はにっこりと笑う。
「我と帰ろう。大いなる海へ」
朱火は無表情のまま、なにも答えない。濡女は気にせず彼女を抱きかかえようとしたが、少女はぴくりとも動かなかった。濡女は戸惑い瞳がゆれる。
幼き少女に抵抗する様子はない。そもそも抵抗したところで、妖にはなんら意味がないはずであった。
焦りを覚え始めた濡女はさらに力を込めようとする。
そんな彼女の顔に突然衝撃が走った。
「なんじゃ!」
驚き声をあげる彼女の前には宙に浮かぶ管狐。濡れ女は素早く飛び回りながら爪をたててくる管狐を追い払おうと、朱火を放し手を振り回す。しかし管狐はつかず離れずの距離を上手にとり、追い払うことができない。
管狐の爪は濡女の上半身の人肌にすら傷をつけられなかったが、目的を無事にはたした。
「ほれ、想い人じゃ。行って来い!」
浜辺まで駆けつけた躯血がのっぺらぼうを朱火のそばまでぶん投げる。
水しぶきをあげて海に着水したのっぺらぼうは、すぐに立ちあがり朱火の手を引く。
濡女が抱きかかえようとしても身動きひとつしなかった彼女は、今度は軽快にのっぺらぼうと駆けだす。
「行かないで、私の可愛い子!」
慌てた彼女は引っ掻いてくる管狐にはかまわず、朱火を追おうとする。
だが、ふたりと入れ替わるように海に踏み込んだ躯血が立ちふさがった。
「あの娘は人の子じゃ。諦めて海へと帰れ」
「黙れ、虫けらが」
濡女が乱暴に腕を振るう。
彼は月光を浴びきらりと光る益荒男の帯をぴんと張り、その腕を受けとめる。
「あああああっ!」
彼女は悲鳴をあげ後ずさる。その腕には帯状の焦げ痕がついていた。
「さすがに斬れんか」
残念そうに呟くが、妖から生命力ともいえる妖力を吸い取る力は健在。これならば充分に戦えると満足そうにうなずく。しかも昨日、常盤によって右手に巻かれたお札が効いているようで、益荒男を使ったにもかかわらず、天邪鬼が現れる気配もない。
「よくやってくれたわ。戻っていらっしゃい」
これまで通り朱火とのっぺらぼうを足にしがみつかせた常盤が、管狐を呼び戻す。
着物を着てくる余裕はなく、月明かりに映る襦袢姿が艶めかしい。幸い誰ともすれ違わなかったが、男がいたら騒ぎになっていたであろう。
ただ、その目は射殺さんばかりに、濡女をにらみつけている。
「どいつもこいつも、私の邪魔をするか!」
にらみつけてくる常盤の足に朱火が抱きついているのを見て、濡女は怒りをあらわに叫ぶ。
すると彼女の姿が変貌していく。
水に濡れながらも美しかった顔は、醜く歪み牛のような顔になる。蛇の身体も巨大な蜘蛛のような体に変貌した。ただ足は六本でその先端は鋭く尖っている。
牛鬼。彼女のもうひとつの姿。
牛鬼は前足のひとつを横なぎに振るう。躯血は咄嗟に先程同様に益荒男で受けとめるが、先程とは力が明らかに違った。大きく吹き飛ばされ波打ち際を転がる。
「骨皮様!」
「心配ない。思いのほか力が強かっただけじゃ。女の癇癪はおっかないのう」
いつもの調子でぼやきながら立ち上がる躯血に、常盤は安心したように息をつく。
彼を払いのけた牛鬼であったが、すぐには朱火の元にむかわず、躯血へと歩み寄る。本人が無事である以上、朱火に近づこうとしても邪魔をしてくると判断したのだ。
躯血はそんな牛鬼に対し、目をつむると抜刀術の構えをとる。しかし、益荒男は帯のままであるし、鞘もない。
彼は頭の中でいまは亡き師の言葉を思い出す
(お前は天才ではない。だが無能でもない。いまは懸命に刀を抜き納めるを繰り返せ。一度でも手を抜けば、刀も鞘もなにも語らぬ。だが続ける事ができれば、そのうち、お前に相応しい抜刀と納刀を教えてくれよう)
厳めしい顔まで思い出し、躯血の口元が緩む。
「どうも笑うのが下手な相手に、縁があるようだのう」
呟く躯血に、間合いを一気に詰めた牛鬼の右前脚が振りおろされる。
躯血はなんと目を閉じたまま流れるような動きで、前脚をかわして見せると、身を低くし牛鬼の身体の下に駆け込む。駆けながら益荒男を鞭のように振るい、すぐに抜刀術の構えに戻すとそのまま牛鬼の背後へと駆け抜けた。
「おのれ、ちょこまかと!」
牛鬼が振り返ろうとしたときだった。彼女の身体がぐらりと傾き、激しい水音をたてて倒れ込む。右側の中脚と後脚が中ほどから切れていた。
音を聞き届けた躯血はゆっくりと目をひらく。
「集中すればなんとかなるものだのう」
「おのれ、化物が!」
残った四本の脚で躯血へと向き直る牛鬼を、躯血は苦笑しながら見やる。
「まあ、否定はできぬか」
言いつつとどめを刺すべく、抜刀術をくりだそうとする。
だが、その前に両腕を目いっぱいに広げた少女が割り込む。
躯血と牛鬼の顔に戸惑いの色がうかんだ。
「いじめちゃだめ」
首を横に振る朱火に、躯血は構えをとき、困ったように頭をかく。
「そう言われてものう」
彼女はそれ以上は躯血にかまわず、牛鬼にむき直る。
「あなたと一緒には行かない」
静かに、だがはっきりと牛鬼に告げた。
牛鬼の目が悲しみの色に染まり、その姿が濡女へと戻る。
下半身に大きな傷を負った彼女は寂しそうに海へと帰っていく。
途中、名残惜しそうに何度も振り返る。
朱火はそんな濡女に手を振った。
「またね」
濡女は一筋の涙がこぼし、微笑みながら海の中へと沈んでいく。
「人たらしならぬ、妖たらしか。まあ退屈はせんな」
言いながら朱火の頭に手を乗せる。彼女がなにか言いたげに顔をあげた。
「だめですよ」
のっぺらぼうを連れた常盤が、朱火に寄り添いながらたしなめる。
「皆、薄着です。風邪をひいてしまいますから今は戻りましょうね。夜が明けましたら皆で一緒にあらためて参りましょう」
優しい声音の言葉に、朱火は素直にこくんとひとつうなずいた。
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