缶の前

真花

缶の前

 一度ついた汚れは一生消えない。神様だって「消えたと言うこと」にするくらいしか出来ない。

 給湯室はここだけが別の国のように静かで、ポットの湯気が現世との境目を曖昧にするように上がっている。俺は一人で、多分、誰もしばらくは入って来ない。缶が一つ。「お茶代」と書かれた紙が雑に、そこに特別の価値はないことを強調するように貼られている。実際にはお茶とお菓子を買うための募金が入っている。若手スタッフがそこから引き出し、近くのスーパーで購入するシステムだ。だから今も缶の中には金がうずくまっている。数千円はあろう。

 俺は毟られた鳥のように金がない。収入がそもそも少ないのがいけない。ちょっとやそっとパチンコで負けたくらいで底を突く給料では足りない。パチンコをしなければ少しはマシな生活が出来るか。それはない。パチンコで増やさなければ万力で締め付けるような金のなさの圧迫にしゃがみ込むしかなくなる。だから打つ。

 あと一万円で二週間を過ごさなくてはならない。昨日の夜、その事実に追い付かれた。電卓で一万円を十四で割って、答えに納得がいかなくて十回繰り返した。答えはいつも既製品のように同じだった。一日辺り七百十四円。タバコ代五百八十円を引くと、百三十四円。それで食い繋がなくてはならない。

 給湯室には誰も来ない。俺はどうしてここに来たのかを思い出せない。ただ、缶がそこにあることだけが真っ赤な朝の太陽のように俺に焼き付いている。誰もお茶代の帳簿を付けていない。数千円は大きい。缶が急に重力を得て、俺の視線を引き寄せようとする。俺は見ない。首に力を大樹のように入れて、視線をポットに固定する。湯気は牧歌的に上り続けている。

 缶が俺を呼ぶ。今なら私の中を持って行っても、許すわ、と聞こえる。俺は首を振る。

 この世界には二種類の人間しかいない。盗みをしたことがある者とない者だ。他人のものに手をつけると言う意味では暴力も同じ括りになる。一度盗んだら、自分と他人との境界が曖昧になってしまう。それは二度と修正が出来ないものだ。俺はまだ盗んでいない。どんなに苦しくてもこの境界を越えてはいけない。

 だが数千円は大きい。

 思ったと同時に視線が缶に行った。缶は今度は躾けられたかのように静かに俺を待つ。俺は半歩、缶に近付く。ポットの湯気が俺を隠してくれている。部屋は異次元にあるから人の目は来ない。絶対にバレないのなら、その罪は無かったことになるのではないか。

 俺は一歩近付く。缶は手を伸ばせば届くところでそっぽを向いて座っている。まるで無防備をわざと見せているかのようだ。

 大丈夫、バレない。自分を助けるんだ。金さえあれば。……いいのか、本当に。あっち側に行ってしまうので本当にいいのか? 帰っては来られない。だがチャンスは永遠には続かない。やるなら今だ。体中の汗腺が脂のような汗を搾る。心臓が火だるまになって、耳の奥がうるさい。体が錆びついたロボットよりも硬くなる。俺がいて、缶がいて、その間に何重もの層が挟まれている。缶が鋭利な視線で層をミルフィーユにフォークを刺すように貫き、俺の額を目を撃ち抜く。

 頭の中でノイズのように散ったり組んだりしていた思考と感情が破裂して、凪ぐ。

 盗ろう。

 手を伸ばす。手は腕は缶に近付くにつれて震えを増して、まるで二つの手を重ねているみたいに残像が浮かんだ。圧力と抵抗に抗うように手を缶まで到達させる。缶は指に冷たかった。

 瞬間、ドアが大きな音を立てて開いた。俺は固まる。ポットの湯気が掻き消える。

「あれ? 何してんの?」

 同僚の女子が俺の行為にどのような意味を見出しているのかは分からない。だがここでバレる訳にはいかない。俺は自分がきっと飢えたネズミのような貧相な顔をしていることを無視して乾いた声を出す。

「金、入れようと思って」

 俺は缶の蓋を開け、財布から千円札を出して中に入れる。闇に血を放るようだった。耳の奥が熱い。

「余裕あるね」

「まあね」

 給湯室はオフィスと地続きになって、女子の後にも人が入ったり出たりした。

 俺の心臓は盗ろうとしたときよりもずっと強く鳴る。

 数千円のために向こう側になるところだった。汚れるところだった。小さな雑踏になった給湯室の真ん中で俺は立ち尽くして、誰も俺に声をかけずにやることをやってまた全員が出て行った。

 一人になって缶の前。缶は許すよと誘惑し続ける。俺はさっき踏み留まった。こっち側に残った。千円の回収という言い訳が新たに加わった。心臓が盗らなくて良かったと教えていた。金がない。誰もいない。バレることはない。……だが。

 ポットが湯気を出している。


(了)

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缶の前 真花 @kawapsyc

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