ぽんぽこ是好日 会社を辞めた僕は狸のあいつと旅に出る。

小谷杏子

第1話 頭空っぽにして、天空の朝焼けが見たい

 窓を開けた。四月にしては淀んだ灰色を思わせる湿気混じりの風が、車中に流れこんでくる。僕は助手席に座り、着陸したり離陸したりする飛行機の様子をぼんやり眺めていた。

 急遽、愛知から福岡へ飛行機で帰ってきた僕は、その原因である幼馴染の軽ワゴン車に乗せられて、このまま地元の佐賀、唐津からつへ向かう。

「どげんね、眞魚まお。久しぶりの九州は」

 幼馴染、綿貫わたぬき大地だいちが緩やかに訊いてくる。僕と同い年の二十七歳、男性。たまご型の輪郭に太眉と丸い目と鼻、ふわふわの茶髪。のんびりした相貌は愛嬌たっぷりな狸そのものだ。服装は全体的にゆるめで、今日は白のTシャツとカーゴパンツというシンプルな組み合わせ。

 対する僕は冴えない顔つきで、目元にくまがある。服装も適当な白いロングシャツと黒ジーンズ。

 大地の問いに、僕は覇気のない声で返事した。

「うーん……まぁね。もう二度と帰ってこないつもりだったのに」

「そがん寂しいこと言わんでよー。俺がおるのに、たまには顔出せよなぁ」

「大地の顔見にわざわざ飛行機使って帰らないよ。まぁ、迎えにきてくれるのはありがたいけどさ」

「うちの親父や母さんも会いたがっとったよー」

 大地の朗らかな声に、僕は「そっか」とだけ返した。

 彼の両親は山に近い場所でレストランを経営している。焦げ茶色のレンガ造りの外観は赤い屋根が目印。小学生のときからよく夕飯を食べさせてもらっていたのを思い出す。ビーフシチューとかナポリタンとか。

「ん?」

 記憶を手繰り寄せようとしてやめる。車は高速道路へ上がっていき、明らかに大地の実家方面ではない道を走り始めた。

「あれ? 唐津まで高速で帰るの? 別に下道でいいのに」

「んーん。今から行くのは唐津やないよ」

「どこ行くの?」

「熊本の阿蘇あそ

 すぐに返ってくる言葉。あぁ、熊本ね、と流されるように納得したけど、僕はすぐに背筋を伸ばして息を呑んだ。

「熊本!? なんで!?」

「なんでって、仕事やんかー。雲海の写真ば撮り行かんと」

「ぜんっぜん話が見えない! さっきの話の流れだと、お前の親と再会して、大地のお母さんから質問攻めにあったり、ビーフシチュー食べたりするんじゃないの!?」

「あははっ! 眞魚の勝手なプランニング、おもしろかねぇ」

「おもしろくない! いいから引き返せ!」

 僕も僕で大概勝手な言い草だろうが、大地の自由気ままさには勝てないと思う。そうしている間にも大地は軽快に車を走らせた。

 見たことのない景色が広がる。山。山。ぐんぐん車は町中から離れていく。

「言ったやろ、仕事手伝ってほしいって」

 大地の静かな言葉に僕は天井を仰ぎ見た。

 フリーのフォトグラファーである大地は、地元唐津を拠点に様々な場所で撮影し、それなりに収益を得ているらしい。僕が地元を離れてから、彼はしばらく別の地でキッチンカーの仕事をしていたが、詳しい話を実は聞いていない。

 高校を出て大地と別れたのが九年前。今の時代、スマホ一つあれば直に会わなくても話くらいはできる。それでも僕らのトーク内容といえば、生存報告くらいだったし、大地は入力操作が苦手なようで写真しか送ってこないことがザラにあった。

 まぁ、ここまでお互いいろいろあっただろうし、積もる話はこれからすればいいんだけど、まずは現在の話をしよう。

「デザインの仕事、だよな。聞いたけどどうも要領得ないし、電話で話せばいいのにさぁ、わざわざ呼び出すまでもないだろ?」

「電話っていうか、スマホが苦手なんよねー」

「それ昔から言ってたけど……えーっと、なんだっけ。電話の最中、静電気が耳に入りこむんだっけ?」

「そうそう。これも血筋のせいやろうねー」

「それは絶対血筋のせいじゃないよ。お前のお父さんもお兄さんもスマホは平気だったはず」

 僕は冷静にツッコミを入れた。しかし大地は「いやいやー」と取り合わない。

 ほんと、ため息が出るよ。大地の特異体質については一旦置いておき、この状況の意味を先に究明する。

「えーっと、つまり今から熊本に写真を撮りに行く。それに僕は同行し手伝う。ここまではわかった。何をしたらいいのかはさっぱりわかんないけど。それで何時に終わるの? 夕飯までには唐津に帰れるんだろうな?」

 現在、十三時半。飛行機で空弁を食べたので空腹ではないけど、夕飯は温かい食事を希望する。そこで大地の仕事の話を聞こうと思ってたのに。

 しかし僕のこの希望はすぐにもみ消された。

「おう、帰りは明日の夕方になるかなー」

「はぁ? じゃあ何、泊まり? 熊本に泊まるの?」

「そりゃ、シャッターチャンスは朝やしねー」

「そうなんだ……でも僕、金ないよ? だから大地んちに泊まろうと思ってたんだけど……そういう話だったよな?」

「うん。金は大丈夫。二人分の費用は俺が持つけん、安心しぃ」

 大地はえらく自信満々に言った。

 心配は尽きないけど、費用の負担がないというだけで僕は安堵する。今日は大地に甘えることにしよう。すると、一気に眠気に襲われ、あくびが出た。

 単調な道を走る車の中は、ラジオも音楽もかかっていないので、しんと静かだ。おもむろに大地が缶コーヒーを飲み、ドリンクホルダーに置いて言う。

「疲れとるやろー? ちょっと眠っときぃ。こっから二時間ぐらいかかるけん」

 僕はもう素直に助手席の義務を果たすことを放棄し、ぼんやりと窓の外を眺めた。

 灰色の空の下を疾走する車の振動が眠気を誘うほど心地よくなり、飛行機での疲れもあっていつの間にか眠っていた。


米持よねもちさんへ 修正をお願いします】

 そんなメールが届き、僕は頭を抱えた。

 雨だ。外は雨が降っている。ボタボタと雨粒が屋根を叩く音が鬱陶しい。ここは灰色の事務所の中。壁には大きなコピー機と過去のデータが詰まった棚がくっついている。空間には等間隔に並んだ机、大きなパソコン。そのどれもが今は起動しておらず、僕のモニターだけが青白く光っている。

 広告デザインを主な事業とするデザイン会社の営業所に僕は在籍している。

 真夜中。定時はとっくに過ぎていて事務所には誰もいない。狭く古臭いビルの一室が僕の職場。入社して六年になる。

『あー、くそっ。終わらねぇー。もう何度リテイクすりゃ気が済むんだよ』

 僕はモニターに向かって、ぶつくさ文句を吐き捨てる。イライラする。さっきからずっと足は貧乏ゆすりして止まらない。

 それもこれもクライアントのこだわりが強すぎて、明日の朝入稿するはずのデザインを最初からやり直しているわけだ。先方の担当者の案が、最後の最後に上層部のチェックで全て却下されたそうだ。だから綿密に打ち合わせして、デザインを組んでいかなくてはいけない。

 しかし、うちの担当営業はその場のノリとテンションで見切り発車する。先方の担当者も同じような性格なので、こういうことがよく起きる。

 六ページの社報誌。読むのは社員とその家族くらいで外部に配る冊子というわけではない。だからこそ先方の上層部がこだわるんだろうけど、しわ寄せを食うのは全部僕だ。ちなみに担当営業は僕に仕事を丸投げして帰宅している。

 先方が作ったデザイン案をそのまま書き起こし、整えるだけの作業。しかし先方が使っているイラストやフォントが自分のパソコンに反映されないので、似たようなものを使って再現しなくてはならない。やたらゴテゴテと飾りつけたレイアウト、文字が多くて読みづらい。なのに、フォントの大きさは変えるな、イラストはこっちの見本と同じものを使え……そんなオーダーどおりに作れば当然自分のデザインではなく他人のデザインの丸パクリ感があってメンタルが削られる。でもオーダーどおりに作らなければリテイクになってしまう──


「うぅ……やりたくない……」

「眞魚? 大丈夫か?」

 声をかけられ、目を覚ます。陽光が差しこむ車内で、大地が僕の顔を覗きこんでいた。

「なんかうなされとったよ?」

「うーん……まぁ、いい夢じゃなかったな」

 僕は足を伸ばして体をほぐした。大地が「ふうん」と相槌を打ち、外に出る。僕も続いてドアを開けて地面に降り立った。

「で、ここはどこ?」

 どこかの駐車場だということはわかる。緑豊かで空が近い。どうやらここは山の中のようで、雄大に広がる高原が一望できた。

 厚い雲が気になるが、雲間から柔らかい陽光と青空が見えたので、少しだけ気分が上がる。

「おー、すごいなぁ! 見晴らし最高じゃん」

「ここは一番いいとこやねー。やっと予約取れたっちゃん。眞魚、運がよかねー」

 大地が車のトランクから荷物を抱えて隣に立ち、得意げに言った。そして目の前に広がる高原を指差す。

「これが阿蘇五岳の涅槃像やね」

「へぇ、これが阿蘇山か……涅槃像ってどこだよ」

「あははっ。涅槃像ってのは、あの五岳の通称」

 大地がのんびりと笑う。僕は無知を晒して悔しい。

 意外と九州は広いから熊本のことなんて、ちっとも知らなかった。それに都会の中で生活していたこともあって、山をこうして眺めるのが随分と久しぶりだ。

「それで、この絶景を今から撮るのか?」

 振り返って訊いてみる。大地はいつの間にか僕の背後で荷物を降ろしていた。

「撮るのは朝って言ったろ」

「あぁ、そうだったな。そんなこと言ってたわ」

 僕は苦笑し、ポケットに入れていたスマホを出した。

 阿蘇の涅槃像をカメラにおさめる。何枚かいいアングルで撮って、大地の近くに移動する。

「それでお前は何やってんの?」

「何って、今日の寝床ば作っとると」

 そう言うと大地は茶色の袋から出した細い骨組みを僕に渡した。結構重い! 腕で抱える形で受け取る僕は、大地の言葉を反芻した。

「今日の寝床……って、ここで寝るのか!? 野宿!?」

「野宿って言やそうやけど、俺はキャンプのつもりやったばい」

 残念そうに言いながらテントを組み立てようとする大地。僕の手から骨組みを一つ一つ取っていき、手際よく設営した。

「えっと、朝焼けの撮影で……そのシャッターチャンスを狙うために野宿するのか?」

「うん。ここ、一応ちゃんとしとるキャンプ場のサイトだよ。あんまり予約取れんし、この絶景ポイントが当たるのも運やしねぇ」

 何やらつらつらと説明している大地だが、僕はまだ現状を受け入れられない。

「サイトって何?」

「ん? こういうキャンプができる区画のことやね。キャンプサイトって呼ぶとよ」

 なるほど。ネットサイトを思い浮かべたとこだったわ。

 しかし、キャンプか……僕のテンションが一気に下がる。まず虫が怖い。手や服を汚したくない。風呂に入りたい。温かいご飯が食べたい。外で寝たくない。しかもこのテントに男二人で寝るのが嫌すぎる。

 ドーム型の茶色いテントは大人が腰掛けて頭に届くかどうかくらいの高さで、奥行きはそれなりにある。足を伸ばして寝ても問題ないかもしれない。僕も大地も身長が同じくらいで、そこそこ上背があるし、大地に至っては肩幅も広い。そんな男二人で並んで寝てもまぁ大丈夫かなとは思うけど嫌だ。今気づいたけど、僕はパーソナルスペースにうるさいタイプなのかもしれないな。

 すると大地がなだめるように言った。

「大丈夫さ。虫除けスプレーもあるし、サイトに洗い場もあるし、トイレも近くにある。風呂は車で温泉に行きゃいいし、飯は俺が作るし、二人で並んで寝られんなら眞魚は車で寝りゃいいよ」

「こ、心を読むな!」

 自分の思考がだだ漏れなことに動揺し、思わず引いた目で言うと大地は首をかしげた。

「いや、心は読めんよー」

「わかってるよ、そんなこと! ガチなトーンで言うな!」

 僕はもう脱力し、その場にしゃがんでふてくされた。やっぱりキャンプの心構えができてなかったので、まだ納得がいかない。

「雨が降ったらどうするんだよ」

「これ雨除けのテントやけん大丈夫」

 大地は平然と言った。うぅ、嫌だと言う理由がほかに見つからない……でも、キャンプは嫌だ。すると、大地はテントにマットやクッションを敷き詰めながらボソッと言った。

「うまい肉もあるよ」

「うまい肉……」

「うん。阿蘇と言ったらアレしかない」

 そう言うと大地は「ふふふ」と不敵に笑った。不気味なやつめ。

 肉か……いや、惑わされないぞ。

「今さらキャンプって。トレンドは過ぎただろ」

 僕は作戦を変え、からかうように言ってみた。それでも大地はなびかない。

「キャンプはいつやってもよかよ。それに好きなことに流行りも廃りもないやろー。自分が好きなことは気ままに、長く続けてこそやん」

 僕のひねくれた言い分に対し、大地は険悪になるどころか優しくゆったりと諭してくる。なんだか馬鹿らしくなってきた。

「……そういうことなら前もって言ってくれよ。僕にも心の準備が必要だったんだから」

「なるほど、そいつはごめん」

 レジャーシートを敷き、椅子を置く大地は苦笑を向けた。まったく……でも、ちゃんと聞かなかった僕も悪いか。

「こんなことなら自分の寝袋持ってくればよかったな」

 外で寝るなら慣れた寝袋のほうがよく眠れただろう。ボソッと言うと、大地は鋭く反応した。

「眞魚、寝袋シュラフ持っとると?」

「え? シュラフ……寝袋のこと? あるけど。会社で徹夜するときに仮眠用で買ったんだ」

「はー、そんじゃ、今度持ってきーよ」

 なんだか嬉しそうに言う大地。それに対し、僕は慌てて付け加えた。

「言っとくけど、今回はお前が手伝ってほしいって言ったからついてきただけだからな! キャンプってわかってたら来なかったし!」

「まぁまぁまぁ、そう怒らんで。ほら、寝床できたけん、くつろいでね」

 そう言ってテントから這い出す大地。ぐーんと大きな背伸びをして、彼は肩を回しながらウキウキと車の中の荷物を出した。

 焚き火台やテーブル、ランタンなんかを出し、手際よく組み立てる大地。そうして拠点を築いたあと、彼は愛用の一眼レフカメラが入ったケースを肩にかけて晴れやかな表情を僕に向けた。

「じゃ、俺はそのへん散策してくるね。眞魚はゆっくりしときー」

「え? ちょっと、おい! 大地!」

 大地はさっさとその場から離れ、姿を消した。

 仕方なく僕はレジャーシートの上に座り、足を伸ばしてスマホゲームをする。しかし、この山の中でフリーWi-Fiなんてものはない。スマホ充電のためのAC電源もない。仕方ないので携帯ゲーム機を出してネット通信が必要ないRPGを始めた。

 実際、田舎の景色なんて三十分で飽きてしまうので、キャンプに向かない性格だと思う。世のキャンパーがこの様子を見たら絶句するだろう。

 ただこのサイトは他よりも小高い場所にあり、プライベート感がある。白い目で見られずに済むわけだ。

 それにしても今日は平日だからか、キャンプ場というには静かだと思う。時折鳥のさえずりがする程度で人の声がしない。こんなものだろうか。人気がないなら僕もどこかへ行こうかな。

 そう考えていると、大地がほくほくとした笑顔で戻ってきた。

「やー、いい眺めやったー」

「おかえり」

「眞魚はゲーム? くつろいどるねー」

「せっかくキャンプに来たのにゲームしてるの、馬鹿だよね」

 僕は自嘲気味に言った。すると大地は「へ?」と目を丸くした。

「そがんことなかよー。大自然の中でゲーム、いい過ごし方やん」

 なんと、全肯定された。

 僕は照れ隠しに笑い、ゲームを閉じる。

「そろそろ火を熾して、飯の準備しよっかねー」

 そう言って大地は銀色のコンパクトな焚き火台に炭を並べた。逆ピラミッドみたいな形状で、広げると真四角になる。

「この焚き火台、親父のおさがりなんよー。古いし錆びとるけど、味があっていいやろー?」

 自慢げに語る大地。柄の長いライターで火入れした炭が赤々と燃えていき、パチパチと爆ぜる音が心地よく鳴る。その音に耳を澄ませる間もなくグリルネットを置いた大地は、テント脇のテーブルに移動して食材を並べる。

 僕はなんとなく立ち上がって大地の横から様子を窺った。

「なんか手伝おうか?」

 訊いてみるも大地は「んーん」とそっけない返事。

「あんまり手間かけんように準備はしとるけんねー、肉だねを作るだけやし、火ば見とって」

 そう言って大地は僕を追い払う。僕は言われたとおり、火加減を見ながらたまに大地の様子を眺めた。

 ジッパー付きビニール袋に入れていた刻んだ野菜を、ひき肉が入ったボウルに全部投入し、こね始める。ペチペチと肉だねを整形し、数分後、大地は準備したものを持ってきた。焚き火台の前にローチェアを置いて座り、グリルネットの上にスキレットを乗せる。バターをスキレットの上で転がし、そこに真っ赤な丸い肉だねを置いた。

「ハンバーグ?」

 ここまで形になっていればわかるけど、あえて訊いてみると大地は「そ!」と短く返事して、楽しそうに赤い肉塊を見つめた。

「こいつはレアかミディアムでステーキにするとがうまいばってん……俺はあえてハンバーグで食べたい。霜降りの少ない赤身たっぷりのこいつをでっかいハンバーグにしたい」

 じゅるり、という効果音が似合いそうなほど、大地の口が恍惚を帯びて緩む。「えっへっへ」と不気味に笑い、ハンバーグをバターで焼いた。真っ赤な赤身肉とみじん切りの玉ねぎが見え隠れする生ハンバーグがゆっくりじっくり焼けていく。徐々に香ばしい煙が立ち、鼻腔をくすぐる。

 やがてトングでひっくり返して同じように焼いていき、一旦休ませ、今度は炭火で二度焼きする。グリルネットにハンバーグを置き、炭の香りをまとわせれば……

「できた! 赤牛の炭火ハンバーグ!」

 軽いステンレス皿に乗せられた大きなハンバーグに、甘酸っぱいデミグラスソースをかけて渡される。大地も自分のを取り、嬉しそうな笑みを浮かべた。

「いただきます!」

 僕と大地は同時に言い、できたてのハンバーグを頬張る。

「あっつ!」

 舌を襲う熱のあと、すぐに旨味が広がっていく。阿蘇名物、赤牛をあえてのハンバーグで食べる。しかもパン粉や米やらのつなぎはなく、卵と玉ねぎだけでこねたハンバーグなので、ずっしり肉々しくて食べごたえがある。

 ふわふわなエアリー食感のハンバーグもいいが、ガツンとパワータイプな肉々しいのも好きだ。また大自然で食べる手作りの食事が疲れた心身に染み渡る。

「がばうまかー!」

 作った本人はテンション高く喜んでいた。

「うっま……はぁ、ハンバーグなんて何年ぶりに食べただろ」

 僕も感嘆を漏らした。大地はぺろりとたいらげ、再びハンバーグの肉だねをスキレットに置く。

「え、待って。大地さんよ、まさかまだ焼くおつもりで?」

 思わずかしこまって訊くと、大地はいたずら小僧のようにニヤリと笑ってトングをカチカチ鳴らした。

「まだ食べたいやろ?」

「うん、いっぱい食べたい!」

 恥も外聞もなく子供のように答えた。子供の頃は一個食べてもまだ食べたい気持ちでいっぱいだったのを思い出す。ハンバーグをいくつでも食べていいなんて、まさに夢のようだよ。

「よし、ハンバーグっていったら米もいるなー」

 真っ白に粒立った米が入った容器を出す大地は、それを僕の皿に盛り、焼けたハンバーグを乗せた。ハンバーグ丼だ。白米に肉汁とソースが染みこんでおいしい!

 はぁ……さすが実家がレストランの息子だよ。食へのこだわりが強い幼馴染に僕は素直に感服した。

 それから結局げんこつほどのハンバーグを四個食べて満たされた僕らは、しばらくレジャーシートの上でぼんやり寝転んでいた。大地は座椅子を枕のようにして雲間の星を眺めている。

「こんな贅沢……味わっていいんだろうか」

 あまりの満足度で僕がつぶやくと、大地が愉快そうに噴き出した。

「むしろ、贅沢って言ってくれて何よりだよー」

「でもさすがにこのキャンプ代をお前に負担させるわけにいかないから、半分出させろよ」

「別に気にせんでいいのに」

 大地はのんびり言うと、狸の腹鼓みたいにお腹をポンと叩いた。

「さて、少し休憩したら温泉行こ。近くに黒川温泉があるとよ。そんで寝るばい。明日は早いけんねー」

 満腹で幸せなのに温泉まで? なにこれ、天国か? キャンプ嫌だとか言ってた数時間前の僕、どうかしてるだろ。

 そんな僕の驚きを大地はまったく感じ取っておらず、ゆるりと火の始末をする。僕も重たいお腹を抱え、大地の車に乗り込むと一旦サイトから離脱した。

 ここから温泉まで車で行く。真っ暗な山道を行けば、だんだん明かりが見えてきた。

 浴衣姿の老若男女が道路を歩いているので、車はゆったり徐行する。ここは土産を売る雑貨店や旅館が立ち並ぶ場所のようだ。

 車を停めて道に降り立つとどこかからか川のせせらぎが聞こえてくる。宿や古民家風食堂の明かりでほんのり見えるこの地は、古都の情緒があるのでついついスマホで写真を撮った。

「眞魚、よそ見しとったら転ぶばい」

 大地はあまり興味がないのか、ひたすら目的の温泉へと向かう。

「こういうのは撮らなくていいの?」

「前来たとき撮ったけんね」

 そんな話をしながら橋を渡る。大地の後ろをついていき、石段を降りた先にある一軒の旅館へ入る。ここは入浴だけでもいいらしい。ここまで無言で脱衣所まで行き、さっそく露天風呂へ向かった。

 今にでも迫ってきそうな岩と緑の露天風呂から湯気がぼうっと立ち上っている。湯加減はちょうどいい。やはり無言のまま湯に浸かり、落ち着いたところでため息が出た。

「あー……生き返る」

「あははっ、大げさやなー。でも楽しいようでよかったわー。あんだけキャンプ嫌って言いよったとに」

 大地に冷やかされ、僕は少しムッとする。

「たまにならこういうのも悪くないなって思うよ。ていうか、大地はこういう遊びばかりしてんの?」

「遊び……遊びなん? これは」

 どうも自覚してないらしい。じとっとした目で見つめると、大地は真面目に考え、困ったように言った。

「そうやねぇ……これも仕事のつもりやったし、温泉もただの入浴でしかないもんな……でも眞魚からしたらそう思えるっちゃね」

 なんだかのんきで羨ましいな。僕は数日前までの社畜生活を思い出し、顔をしかめた。

「仕事なんてイヤイヤやるもんだろ」

 対し、大地はあっけらかんと返す。

「仕事は楽しんでやるもんと思っとった」

「そんな、お前みたいに趣味が仕事って人はそうそういないよ」

「でも眞魚も、デザイナーになりたくてなったとやろ?」

 大地の探るような言葉が耳に刺さる。

 なりたくてなった。それは間違いない。いつか都会で仕事をするんだと決め、美術の成績もよかったことからその分野に興味が出て進んだ道だった。自分で決めたはずだから後悔しないと思っていた。でも、現実は理想どおりにはいかない。

 荒んだ心が一気に蘇り、僕の口から嘲笑が飛び出した。

「デザイナーな……他人が作ったものをリメイクしたり、言われたとおりのデザイン作らされたり、何度も工数重ねて原型消えたやつを慌てて入稿したり……そんなんばっかりだよ」

 言いながらだんだん虚しくなってきた。

 最初はもっと自分の想像を生かしたものが作れるとか、趣向を凝らしたすごいものを作って認められるとか、客も僕も納得のいくものを作って楽しみたいとか、そんなことを考えていたんだ。

 それは素敵な理想だから、現実がそう簡単じゃないことくらいはわかっている。だんだん現実が日常となり理想のハードルは下がっても、なりたいものになれただけ満足だし、デザインが採用されたら嬉しかったし、そういうことがいつまでも続くんだと思っていた。

「でも幻想だ、そんなもの」

 ポツリと吐き出したそれは、この極楽に似合わない毒があった。

 大地は反応しない。僕は逃げるように湯から上がった。


 それからはなんとなくふたりとも黙ったままサイトに戻ってきた。空は雲に覆われて、天気がよろしくない。

「眞魚、テントで寝る? 車で寝る? 布団はちゃんとあるよ。まぁ俺は野ざらしでも平気やけど」

「いくらなんでもそれはないわ。さすがに僕の良心が痛むよ」

 大地のおとぼけ発言にツッコミを入れると、彼はクスリと笑った。

「なぁ、眞魚」

「何?」

「大丈夫か?」

 ランタンだけの明かりの中、大地が突然穏やかな笑みで訊く。それは茶化すような響きは一切なく、しかし真面目でもない絶妙な緩さだった。

 なんて答えよう。大丈夫だと言いたい。でも喉元で言葉が詰まる。だって、大地は僕がどうして知っている。

 すると、大地は目をそらしてため息混じりに言った。

「まぁ、ね……無理に話さんでいいよ」

 僕はホッと安堵して、車の後部座席へ入った。やっぱり二人でテントに雑魚寝は厳しいから、別々で寝ることにする。

「おやすみ。明日は起こしてやるけん、ゆっくり休みー」

「うん。おやすみ」

 昔はそう、心に踏み込んでくるやつじゃなかったのに、大人になった大地はやけに僕を気遣ってくる。正直、気持ち悪い。僕はぜんぜん一人でもやっていけるし、誰に心配されなくても平気なのに。今までもそういう人生だったのに。

 これだけゆっくり一日を過ごしたのに、体はまだまだ不調なのか闇の中で一人になった途端、息苦しさを感じた。

 キャンプ道具一式が積めるほど軽ワゴン車はゆったり広い。クッションを枕にし、毛布にくるまって眠りにつく。温泉効果かすぐにうとうとし始めたが、なかなか入眠できない。

 真っ暗な場所に一人きりだと、あの雨の日を思い出す。

 慢性的な激務とカスハラ気質な顧客、営業部からの雑な無茶振り、気弱な上司の頼りなさ、他人に無関心な同僚たちの中で、なんとかうまくやってきたつもりだった。残業もたくさんした。家に帰れないことが多くて、寝袋を買い、会社で仮眠することもあった。

 改善されないし、しようともしない僕を含めた従業員たちの負のオーラが充満する。年々売上も低迷していたから、社員同士で揉めることや仕事の押し付け合いが増えた。そのたびに下っ端の僕が引き受けた。

 あの日も、そういうことがあって昼間はろくに仕事ができず、定時前に修正依頼メールが入り、営業がそそくさと帰ったあとでリテイク地獄が続く。何度やり直しただろう。夢あふれる志も大層な理想もとっくに消え、希望はただ手元にある仕事のゴールを考えるだけ。

 そうしてやっとリテイクが終わり、少し仮眠したら──また修正依頼が入っているのを見て絶望した。そこからの記憶がない。

 気づけば僕は会社で倒れていた。出社した人たちは僕が眠っているのだと思ったのか救急車を呼ばない判断をし、応接室のソファに寝かされていた。起きた瞬間、そのことに気がつき、僕の中で何かが切れた。

『……もう、疲れた』

 六年間、見て見ぬ振りしてきた本音が漏れ、僕はすぐに休職届を出して家に引きこもった。そんなときだ。タイミングよく大地から連絡が入ったのは。


 ***


 やがて──朝がくる。

 スマホを見れば五時。車の窓をコツンとノックされ、僕は毛布から顔を出した。

 大地がカメラを首から提げてこちらを見ている。目をこすり、あくびをしながら車から出ると、ひんやりした薄群青色の世界が視界に広がった。

「おはよう、眞魚」

「おはよう、大地。朝焼けは?」

「もうすぐやねー。それまでココア作って飲もう」

 そう言って大地は焚き火台で火を熾し、グリルネットにやかんを置いて湯を沸かした。

「少しは元気出たか?」

「はぁ? 僕はぜんぜん元気だけど」

 大地の直球な気遣いに驚き、つい冷たくあしらう。それでも大地は気にせずのんびりとした笑顔を向けてきた。

「まぁ朝焼け見たら気分も上がるよ」

「朝焼けなぁ……」

 早朝だからか分厚い雲がかかった高原は一切、景色が見えない。

 大地はふと空を見上げた。厳かに顎をつまんで何やら思案している。

「うん、天気は不安定やね。ばってん、日が昇ってキレイな朝焼けが見れたら奇跡やん? やけんさー、朝焼けが見れたら会社辞めて俺と一緒に仕事せん?」

「は? ……なんだよそれ」

 拍子抜けする僕に、大地は本気の目で見つめてくる。黙っているとほどなくして、湯が沸き、彼はそっちに目を向けた。その間、僕は大地の言葉を考える。

 大地と一緒に仕事をするのは、きっと楽しいと思う。でも仕事は楽しいだけじゃない。いつか大地と仲違いするかもしれないし、そうなったらいよいよ僕はどこにも行き場がない。大地のそばにいることが自分の居場所だと感じるのは初めてのことで、同時に僕はそれほど弱っているのだと実感した。情けない。自分に負けたようで悔しい。

「あぁ。やっぱ眞魚は運がいいなー」

 ココアパウダーが入ったマグカップにお湯を注ぐ大地が、ふと前方の高原へと目をやる。途端にあふれんばかりの光が僕らの目を刺激し、当たり一面真っ白な世界となった。徐々に光は赤く燃え、雲の下からゆっくりと朝日が昇ってくる。

 涅槃像の上からふかふかの毛布のような綿雲がかぶさり、霞んだ薄橙と薄群青が何層にも折り重なった雲海が広がった。山の頂がところどころ見え、そこはまさしく天空と言い表せる絶景。

 言葉にならない。何も思いつかないくらい、この景色がキレイで目が釘付けになる。

 そんな僕の横で静かにシャッター音が鳴る。大地は嬉しそうに絶景をカメラにおさめていた。

「これだよ。これを待っとったっちゃ」

 しみじみとした大地の声も半分聞こえていない。返事を忘れる。そして、湧き出した疑問を素直に口にした。

「ねぇ、大地……お前はどういうつもりで僕をここに連れてきたの?」

 ぼうっと雲海を眺めながら訊くと、大地はカメラのデータを見ながら「へ?」と間抜けな返事をした。

「とくに深い意味はなかよ。写真撮ったやつを集めたカレンダーば眞魚に作ってもらいたい。そんだけ」

「それだと僕がここまで来る意味ないだろって。そんなの、僕のパソコンにデータ送るだけでいいじゃん」

「これを生で見て、作ってもらいたかったと」

 当然のように言う大地の声音が優しい。それでも彼は、僕を心配して労るために連れてきた、なんて気の利いたことは言わない。

 だから弱っている僕は勝手に解釈する。仕事で疲れて腐りきった僕の目を覚ますために、ここへ連れてきてくれたのだと。

 だって、こんなものを見せられたら、もう、戻りたくないよ。

 無機質で疲れるだけで、好きなものが嫌いになるような生活に戻りたくない。


 天空の朝焼けはしばらくの間続いたが、朝日が高く昇れば雲も晴れ、肥沃な高原が顕になる。その頃にはココアが冷めてしまい、それでも僕は構わず飲み干してため息をついた。

「大地」

 僕はもう心の鎖を解くことにし、童心に帰るため大地に向き合う。

「ちょっとそこで変身して。できる?」

 久しぶりにそのフレーズを使ったが、ちょっと照れるな、これ。

 大地は子供の頃と変わらずの笑顔で「いいよー」と簡単に承諾する。

「なんやえらい久しぶりやけん、照れるけど」

「お前も照れるな。どうせお前、昨日もどっかに行ってるとき、んだろ、狸に」

 ぴしゃりと言えば大地はほわんとした笑う。それから急に真顔を作り「よっ!」と掛け声を上げる。その瞬間、大地はポンと音を響かせて狸の姿に化けた。葉っぱを頭に乗せるでもなく何か唱えるでもなく、ただ自然に姿を変えるだけでモフモフとしたずんぐりむっくりの狸になる。

 大地の特異体質──彼は静電気に悩むキャンプ大好き人間というわけじゃない。あやかし狸の血筋であるということが彼の最大の特徴だ。そしてこれが僕と大地だけの秘密。

 幼い頃、僕は大地のモフモフに癒やしを得ていたが、大人になってもこれをやるとは思いもしない。

 おもむろに抱き上げ、足の上に乗せる。傍目から見れば犬を抱いてる男に見えなくもない。

「でもこの年齢になって、この絵面は厳しいよな……」

 ついおどけるように言うも、狸のモフモフした腹をつまんでいる。はー、柔らかい。癒やされる。

「厳しいって、よう言うよ」

 呆れた言い方をする狸もとい大地。喋ると大地の声だから現実に引き戻されるのが難点だ。

「狸は黙っといて」

「はいはい」

 もう好きにしろとでも言うように、大地は朝日に目を細めてあくびした。


 ***


 僕は辞意を伝えるためすぐさま愛知へ戻り、会社へ出向いた。

 上司は「お願いだから辞めないで」と懇願してきたけど、直接社長と話をつけに行けば、もう何も言わなくなった。

 月末まで有給休暇という形をとり、のんびり引っ越しの準備をしながら過ごす。まだ眠りは浅いけど、だいぶ気分が軽くなってきた。

 ワンルームの狭い部屋は必要最低限のものしかない。タンス一竿、折りたたみベッド、ノートパソコン、Wi-Fi、ミニテーブル、ゴミ箱。すべてのインテリアには統一性がない。

 会社を辞めて追われることがなくなった今、このぽっかり空いた時間に何をしたらいいかてんでわからない。当たり前なようで当たり前じゃなかった余白のある生活が、なんだか初めてのような気がした。

「よし、洗濯しよ」

 アパートを出てすぐ近所のコインランドリー『洗濯小僧』へ向かう。古くかび臭いワンルームほどの空間に洗濯機が並び、真ん中にはペンキが剥げたベンチと小さなカラーボックスがあり、古いマンガ雑誌が置いてある。蛍光灯だけが異様に新しい。

 洗濯をする間、ベンチに座り、一息つく。裏路地にある場所だが、夕飯の買い物に出てきた主婦や帰宅途中のサラリーマンなどが時折、店の前を通り過ぎていった。

 ビルの隙間から夕日が差し込み、あの広大な朝焼けを脳裏に浮かべる。

 まだ不安はあるけど、これからの生活が楽しみに思えた。

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