第17話 愛の方程式



「アレーテの姿が...消えている?」


図書館の閲覧室で、城之内真は目を疑った。向かいの席に座っているはずのアレーテの姿が、まるでガラスのように透明になっていく。そして彼女自身も、自分の手が透明化していることに気づいていた。


「大丈夫、慌てないで」アレーテは冷静を装ったが、その声には僅かな震えが混じっていた。「これは予想していた現象よ。人間界に長く滞在すると起こることがある...」


真は即座に立ち上がり、アレーテの手を掴もうとした。しかし、その手はすり抜けてしまう。


「嘘だ」真は歯を食いしばった。「君は何か隠している。これは通常の現象じゃない」


アレーテは一瞬、驚きの表情を見せた。そして諦めたように小さく息を吐いた。


「さすが。見抜かれてしまったわ」彼女は窓の外を見つめながら続けた。「実は、イデア界で深刻な問題が起きているの。『愛』のイデアが歪んでいる」


「愛のイデア?」


「そう。人間界での歪んだ愛の形が、イデア界の根源的な『愛』の概念そのものを侵食し始めている。そして私は...その影響を最も受けやすい存在なの」


その時、図書館の入り口で物音がした。振り向くと、そこには佐倉葵が立っていた。


「やっぱりここにいた」葵は息を切らしている。「大変なの。学校中で奇妙なことが起きてる」


真と葵は急いで校内を回った。至る所で異常が起きていた。カップルたちが突然別れを告げ合い、親友同士が絶交を宣言し、部活動が次々と解散を決定する。あらゆる人間関係が、まるで糸が切れたように崩壊していく。


「これが愛のイデアの歪みによる影響...」アレーテの声が虚ろに響く。「人々の心から、愛や絆の概念が薄れていく」


教室に戻ると、村松諒が黒板の前で何かを必死に書き続けていた。数式だ。しかし普通の数学の式ではない。


「これは...」真は黒板に近づいた。


「愛を定義づけようとしている」村松が振り向く。その目は異様な光を放っていた。「全ては計算できる。人の心も、愛も、全て数式で表せるはずだ」


黒板には複雑な方程式が書き連ねられていた。変数x(愛情)、y(信頼)、z(犠牲)...様々なパラメータが絡み合い、まるで狂気の産物のような数式が完成しつつあった。


「違う」真は断言した。「愛は計算できない。だからこそ価値がある」


「でも、これは間違っていない」村松は笑う。「むしろ、愛を完全に理解する唯一の方法だ。感情に振り回される必要はない。全ては計算通りに...」


その時、アレーテの体が急速に透明化していく。真は咄嗟に彼女に向かって叫んだ。


「答えてくれ!本当は何が起きているんだ?」


アレーテは一瞬、躊躇したように見えた。そして決意を固めたように口を開いた。


「影山の仕業よ。彼は『完全なる愛』を作り出そうとしている。感情を完全に理論化し、制御可能にする。そうすれば、イデア界と人間界の境界は消え、全てが理想的な形に収まると」


「狂気の沙汰だ」


「でも、彼の理論は間違っていない」アレーテの声が震える。「理論上は、愛を完全に解析し、制御することは可能。でも、それをすれば...」


「人間性が失われる」真は言い切った。「愛には不完全さが必要だ。むしろ、その不完全さこそが、愛を愛たらしめている」


教室の空気が凍りついたように感じた。村松は黒板の前で動きを止め、アレーテの姿はさらに透明度を増していく。


その時、真は気づいた。


「待てよ...影山の理論には致命的な欠陥がある」


真は急いで黒板に向かい、村松の数式を検証し始めた。そこには確かに美しい論理があった。しかし、ある重要な要素が抜け落ちている。


「これだ」真は一点を指さした。「愛の方程式に、『選択』の変数が含まれていない」


村松の表情が変わった。


「そうか...」彼の目から狂気の色が消えていく。「愛とは、常に選択の連続だ。完全な理論など存在しない。なぜなら、選択の自由という不確定要素が必ず入り込むから...」


アレーテの姿が、徐々に実体を取り戻し始めた。


「真、あなたが正しかった」彼女の声に力が戻る。「愛は計算できない。計算できないからこそ、愛なの」


教室の窓から夕陽が差し込み、その光は不思議なプリズムのように空間を彩った。まるで、イデア界の光が現実世界に溢れ出したかのように。


「影山の野望は、まだ終わっていない」アレーテは真剣な表情で言った。「でも、私たちは大切な真実を見つけた。愛は方程式では表せない。けれど、それは弱さではなく、最大の強さなのだと」


真はアレーテの手を取った。今度は、しっかりと握ることができた。


「次は、影山の本拠地に向かわなければ」真は決意を込めて言った。「彼の『完全なる愛』の理論が、どれほど危険か、身をもって教えてやる」


夕暮れの教室で、真とアレーテは互いを見つめ合った。そこには計算も理論も存在しない、純粋な信頼があった。


そして、彼らは知っていた。

これは終わりではない。

むしろ、本当の戦いはここから始まるのだと。




夜の図書館。真とアレーテは、通常は立ち入り禁止の古文書保管室に忍び込んでいた。


「ここに、愛のイデアに関する古い記録があるはず」アレーテは薄暗い書架の間を進む。「影山がなぜここまでの執着を見せるのか、その理由が」


突然、足音が響いた。二人は息を潜める。書架の陰から、久保田智也の姿が見えた。


「探しものですか?」静かな声が闇を切る。


「久保田先生...」真は緊張を隠せない。


「私も気づいていたんです」久保田は古びた革表紙の本を取り出した。「影山の過去について」


そこには驚くべき事実が記されていた。影山もまた、かつては愛のイデアを守護する存在だった。しかし、ある事件をきっかけに、その在り方を根本から否定するようになった。


「人類が愛と呼ぶものは、所詮、不完全な感情の束に過ぎない」影山の残した手記には、そう記されている。「完璧な理論によって、真の愛を作り出さねばならない」


「でも、それは違う」真は断言した。「愛は不完全だからこそ、完全なんだ」


アレーテの体が再び透明化し始める。しかし今度は、彼女は恐れる様子を見せなかった。


「私、分かったわ」アレーテは穏やかな表情を浮かべる。「影山の理論には、もうひとつ決定的な誤りがある」


「誤り?」


「そう。彼は『完全な愛』を作り出そうとしている。でも、それは矛盾している。なぜなら...」


「愛は作り出すものじゃない」真が言葉を継ぐ。「愛は、在るものなんだ」


その瞬間、部屋の空気が変わった。アレーテの体から淡い光が放たれ始める。


「真の愛とは、存在そのものなのね」彼女の声が響く。「だから、イデア界にも人間界にも、既に愛は遍在している。それを作り出す必要なんてない」


古文書から一枚の紙が滑り落ちる。そこには、影山の最後の研究メモが記されていた。


『完全性の追求は、不完全さへの恐れから生まれる』


「影山は...愛に傷つき、愛を恐れるようになったのね」アレーテの目に、悲しみが宿る。


真は静かに頷いた。「だからこそ、僕たちが証明しなければならない。不完全な愛にこそ、完全な価値があることを」


月明かりが古文書室を照らす。その光の中で、アレーテの姿は徐々に実体を取り戻していった。


「準備はいい?」真はアレーテに向かって手を差し伸べる。「これから始まるのは、愛をかけた戦いだ」


アレーテは微笑み、その手を取った。「ええ。愛の本質を、影山に思い出させましょう」


図書館の窓から、夜空に輝く星々が見えた。それはまるで、無数の愛の形を示すように、様々な光を放っている。


影山との決戦は、いよいよ近い。

しかし、真とアレーテの心には、もはや迷いはなかった。


なぜなら、彼らは最も重要な真理を見出したのだから。

愛とは、計算でも理論でもない。

それは、ただ在るものなのだと。




二人が図書館を出ようとした時、思いがけない出会いがあった。


「お兄ちゃん!」

廊下の向こうから、真の妹・若葉が駆けてきた。その手には、古びた写真アルバムが握られている。


「これ、見て」若葉は息を切らして言った。「おばあちゃんの遺品を整理してたら出てきたの」


アルバムを開くと、そこには驚くべき写真が収められていた。50年前の学園祭の写真。そして、その群衆の中に、明らかにアレーテと瓜二つの少女の姿があった。


「まさか...」アレーテの声が震える。


「私の祖母...」真は写真を凝視する。「彼女も、イデア界との関わりが?」


写真の裏には、かすれた文字で日付とメモが記されていた。

『1974年10月15日 - 愛は永遠に循環する』


「循環...」アレーテが呟く。「そうか、これが影山の真の目的」


真は直感的に理解した。影山は愛のイデアを歪めることで、時間そのものを操作しようとしている。過去と現在の愛の形を強制的に同期させ、永遠の循環を作り出そうとしているのだ。


「でも、それじゃあ本末転倒よ」アレーテは断言する。「愛は自然に循環するもの。強制的な同期なんて...」


その時、校内放送が突如として鳴り響いた。しかし、流れてくるのは通常の放送ではない。古びたクラシック音楽。真が聞き覚えのあるメロディ。


「ショパンのノクターン第2番...」真は顔色を変えた。「祖母が好きだった曲」


校内のあちこちから、奇妙な現象が報告され始める。生徒たちが突然、50年前の言葉や仕草を真似始めたのだ。まるで、過去が現在に流れ込んでくるように。


「影山の仕掛けた罠ね」アレーテが言う。「時間の境界が薄れている」


真は決意を固めた。「図書館に戻ろう。祖母の残したメモと、影山の研究ノートを照らし合わせれば...」


古文書室に戻った一行を、思いがけない人物が待っていた。


「よく来たね」

柏木結衣、生徒会長が静かに微笑んでいた。


「柏木さん...まさか」


「私はただの観測者よ」彼女は言う。「影山の実験を、客観的に記録する役目」


「実験?」


「愛の循環が生み出す、時空の歪み」柏木は淡々と説明する。「影山は、この実験で愛の完全な理論を証明しようとしている。でも...」


彼女は、真とアレーテを見つめた。


「あなたたちの存在が、計算外の要素となった。理論では説明できない、純粋な絆。それが、影山の方程式を狂わせている」


その時、校内のあらゆる時計が狂い始めた。過去と現在が混ざり合い、現実が歪んでいく。


「これが、影山の言う『完全なる愛』...」アレーテの声が震える。「でも、違う。愛は時間軸で測れるものじゃない」


真は、祖母の遺した写真をもう一度見つめた。そこに写る笑顔には、計算も理論も存在しない。ただ純粋な、人と人との繋がりがある。


「僕たちの役目は決まった」真は静かに、しかし力強く宣言する。「影山に教えなければならない。愛は過去を固定することじゃない。未来へと流れ続けることなんだと」


アレーテは頷き、真の手を取った。

若葉は兄の背中を押し、

柏木は静かに目を閉じる。


そして、時計の針が狂い続ける校舎で、新たな戦いの幕が上がろうとしていた。




時計の針が乱れる中、真は古文書室の書架の間を進んでいった。頭上では蛍光灯が不規則に明滅し、まるで時間そのものが呼吸をしているかのようだ。


「見つけた」

アレーテが一冊の本を取り出す。それは影山の最初の研究論文だった。タイトルは『愛の永続性に関する考察 - イデア界における時間概念の再構築』。


真は急いでページを繰る。そこには驚くべき記述があった。


『愛には必ず「終わり」が存在する。それは人間界の宿命である。しかし、もし時間の概念そのものを書き換えることができれば...永遠の愛も可能なはずだ』


「彼は、大切な人を失ったの」柏木が静かに言った。「だから、時間を超えて愛を永続させようとしている」


廊下から悲鳴が聞こえた。見に行くと、生徒たちが混乱の渦に巻き込まれていた。ある者は50年前の制服姿に変わり、またある者は未来の自分の姿を見せている。時間が完全に制御を失い始めていたのだ。


「このままじゃ、現実が崩壊する」アレーテの声が震える。


その時、若葉が叫んだ。「お兄ちゃん、これ!」

祖母のアルバムの最後のページに、一枚の手紙が挟まれていた。宛先は『未来の私たちへ』。


真は手紙を広げ、祖母の達筆な文字を読み上げた。


『愛は終わりがあるからこそ、美しい。永遠を強いることは、愛の本質を否定することになるのです。影山くん、あなたにもいつか分かる日が来るはず...』


「祖母は...影山の同級生だったんだ」真は手紙を握りしめた。「そして、彼の考えの誤りに気づいていた」


突然、校舎全体が大きく揺れ始めた。窓の外を見ると、空が渦を巻いている。イデア界と現実世界の境界が崩壊し始めているのだ。


「間に合わない...」柏木が呟く。


しかしその時、アレーテが一歩前に出た。彼女の体は今や完全に透明になりかけている。


「まだ、できる」アレーテは決意に満ちた声で言った。「私には、イデア界の存在としての特権がある。時空の歪みを、一時的に止めることが...」


「でも、それは...」真は彼女の意図を悟った。「君の存在そのものが消えかねない」


アレーテは微笑んだ。「愛には『終わり』があるもの。でも、それは『消滅』とは違う。形を変えて、また巡り会える」


そして彼女は目を閉じ、両手を広げた。刹那、まばゆい光が古文書室を包み込む。時計の針が、ゆっくりと正常な動きを取り戻していく。


校舎の混乱は収まり始めた。生徒たちは元の姿に戻り、時空の歪みは徐々に修復されていった。


しかし、アレーテの姿は、光の中にほとんど溶け込もうとしていた。


「これが...私の選択よ」彼女は真に向かって微笑む。「不完全な愛の、完全な形」


真は叫んだ。「待って!まだ言いたいことが...」


「私も」アレーテの声が響く。「でも、それこそが愛の本質でしょう?言い足りないこと、伝えきれないこと、それらを残しながら、また出会い直すの」


光が最後の輝きを放ち、アレーテの姿が完全に消えた瞬間、真は確かに聞いた。

「また会いましょう。今度は、新しい物語の中で」


古文書室に静寂が戻る。窓の外では、夕暮れの空が穏やかな色を取り戻していた。


若葉が兄の肩に手を置き、柏木は静かに目を閉じる。


影山の野望は阻止された。しかし、これは終わりではない。

むしろ、新しい始まり。

愛が形を変えて、また巡り会う時を待つ物語の、始まり。


真は、祖母の手紙と影山の論文を、そっと本棚に戻した。

そして、夕陽に照らされた窓辺に立ち、つぶやいた。


「愛は、終わりがあるからこそ、永遠なんだ」


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