第8話 巫女さんスキップ

 さあ、その携帯端末を寄越せ。


 こっちに向かって手を差し出している櫛田の締まりのない笑顔を見ていると、腹の底から怒りが湧いてきた。


「渡すわけないだろ。これは、僕の命より大切なんだよ」

「命ですか。そういうこと、軽々しく口にするものじゃないですよぉ」

「見くびるなよ。僕ほど重い男もなかなかいないぞ」

「……交渉は決裂ですかぁ。仕方ないですねえ」


 櫛田が溜息を吐いて、肩を落としてみせる。


 何が交渉だ。

 僕にリターンを提示してない時点で、カツアゲみたいなもんじゃないか。


「では、ひとつ、世間話をしましょうか」


 名案、とばかりに手を打って、櫛田が微笑みかけてくる。

 どうやら僕が向ける苛立ちの視線など、気にもならないらしい。


「私、今日のお仕事がちゃんと終わったら、明日の朝ご飯はいつもより贅沢しちゃおうと思ってるんですぅ」

「…………?」


 なんの話だ。

 この状況でマジの世間話をする奴があるかよ。


「食パンを二枚重ねてぇ、チーズをたっぷり挟むんです。フライパンにバターを引いて、ぎゅっと圧し潰しながら焼くとぉ、中がとろーってなって美味しいんですよぉ」

「太るぞ」

「ご褒美だからいいんですぅ」


 よだれでも垂らすんじゃないかというほどに、櫛田は頬を緩ませている。


「あんたの朝飯のことなんて、興味がない。こんな話、時間の無駄だ」

「そうですかあ」


 さっさと本題に入れ。まどろっこしい。


 苛立ちを隠さず、僕が先を促した次の瞬間。


「じゃあ、いただきますね」

「……っ!」


 櫛田が目の前に立っていた。

 そして、その指先はもう僕の右手の中の携帯端末に触れようとしていて。


「触るな!」

「おっと」


 反射的に突き飛ばそうと伸ばした左手を躱され、掴まれる。


 まずい! この態勢は!


「ぐあっ! ……くそっ!」


 即座に足を払われ、床に叩きつけられた。


 受け身は取ったが、打ち付けた背中から痛みと圧迫感が襲い掛かってくる。

 掴まれたままだった腕を振り払って転がり、距離を取るので精一杯。


『頂点! 大丈夫!?』

「ああ。このくらいなら平気。鍛えてるから」


 僕の身を案じる叶南ちゃんには笑顔で返すが、動揺は隠せなかった。


 なんだ、今の。


「受け身、お上手ですねぇ。格闘技の経験がおありで?」

「通信教育でちょっとね」

「色んなことに挑戦するのは良い事ですけどぉ。生兵法は怪我の元、ですよぉ」

「ご忠告、痛みいるよ」


 怪我の元は通信教育じゃなくて、お前だけどな。


「……どういうことだ?」


 櫛田の手が触れる直前まで、あいつと僕の間合いは五メートルは離れていたはず。

 特殊な足捌き的な何かで、瞬きをする間に距離を詰められた?


 違う。そんな次元の理不尽じゃない。

 あれはまるで、動画アプリで時間を十秒スキップした時みたいだった。


「そうそう。私、小さい頃、生兵法って食べ物だと思ってたんですよねぇ。生麦生米生兵法、みたいな。でもでもぉ、生麦と生米は似てるからわかるんですけどぉ」


 くそ。また、この絶望的につまらない話か。

 完全にこっちのことを舐めてる態度だ。勝ちを確信してますってか?


 見てろ。そのニヤケ面、すぐに引っぺがして……


「生卵だけ、仲間外れじゃありません?」


 またやられた。

 そう思った時には遅かった。


 櫛田の姿が目の前から消えたと思った直後、声が聞こえたのは背後だった。

 振り返る暇もなく、首の後ろに鈍い衝撃が走り、目の前で火花が散る。


『ちょっと、頂点! なにボケっとしてるのよ!』


 どうにか転ばないようにたたらを踏みながら、櫛田から離れることを優先する。


 ん? ちょっと待て。


 脳を揺らされ、グラつく視界の中で気が付いた。


「叶南ちゃん、僕、そんなにボケっとしてたかな?」

『はあ!? あんなに簡単に後ろを取られといて、何言ってんのよ!』

「……なるほどね」


 僕の身に今、何が起きているのか。

 櫛田が何をやっているのか。


 理屈はさっぱりわからないが、今ので仮説は立てられた。


「ありゃりゃ、首、痛かったですよねぇ。中途半端に避けるから、手刀がキレイに決まりませんでした。首の痛みと言えばぁ、寝違えって、原因は首じゃなくて脇とか背中の筋肉なんだそうですよぉ? 変に首を回すよりぃ――」


 また始まった。

 櫛田の脈絡のない、無駄話。

 僕の仮説が正しければ。


「――――あれ?」


 これが、引き金。

 わかっていれば身構えられる。不意さえ突かれなければ。


「よく、避けられましたねえ」


 またしても目の前に現れた櫛田の当て身は、こめかみを狙っていたらしい。

 咄嗟に上半身を反らし、その一撃を躱した僕を見て、櫛田の顔に初めて驚きの色が浮かぶ。


「やっぱりか」


 ビンゴだ。


 仮説には検証が欠かせない。

 櫛田が無駄話を始めてから、あらかじめ携帯端末のストップウォッチアプリを起動しておいて正解だった。


「もうわかったぞ、陰気な巫女さん」

「なにがですかぁ?」


 画面に表示されている数値が、おかしいんだよ。


 明らかに、じゃないか。


 それが意味するところはつまり。


「あんた、時間を止められるんだろ?」

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