17.これは運命

 巷で話題の恋愛小説では、度々真実の愛という言葉が出て来るのだとリリスは知っている。


 十年来の婚約者との間に愛などなかった彼女にとって、そんなものは物語の中だけの幻想であった。けれど、あの日、イヴが落とした万年筆を拾った時。確かに、リリスの手には真実の愛が握られたのだ。


 ヘイグ侯爵家の馬車から衝突を受けたその日、リリスは生家にて念のためにと主治医の診察を受けてから家族と夜を過ごした。


 心配に顔を青ざめていたカークランド侯爵夫婦も、リリスの無事が担保されるとその表情は怒りへと変わって行く。その矛先はヘイグ侯爵家というよりも、チャールズ個人だろう。


 しかしその凶行を止めることが出来なかった、そう育てたヘイグ侯爵家にも怒りがないとはリリスも思っていない。これによりカークランド侯爵家との関係がどうなるかは、相手側の対応に寄ると思われる。


 翌朝何とか両親を説得し、護衛を増やされつつも女子寮に戻ることが出来たリリスは、心配を口にしてくれた寮監に挨拶をしてからエレベーターに侍女と共に乗り込んだ。


 そうして六階に上がり、廊下を進んでいるとリリスの隣室、604の扉が勢い良く開かれる。その向こうから姿を現したのは、真っ青な顔をしたイヴであった。


「リリス……!」


 イヴのリリスより小さな体が、彼女の元へと走り寄る。無事を確かめるように、普段の彼女からは考えられない勢いでリリスの体に抱き着いて来た。


「リリス、リリス……! ああ、良かった、怪我はありませんか!? あなたに後遺症でも、いえ、擦り傷一つでもあれば、わた、私は……!」


 カタカタと体を震わせるイヴが、リリスの背中に腕を回している。その力の強さは服へと皺を与えそうなほどで、思わず彼女の背へとリリスもまた手を向けた。


 優しく背中を撫でて、「イヴ」と囁くと、リリスの感情の乱れも少しずつ落ち着いて来たのだろう、リリスの豊満な胸に埋めていた顔をそっと上げる。


 その涙が伝う頬に手を当てて、目尻から雫を拭ってやってから二人はどちらともなくリリスの部屋へと身を消した。


 ぱたん、と閉じた部屋の中は、侍女たちの姿もない。ただリリスとイヴばかりがそこにいて、しんとした空間に啜り泣くイヴの声だけが響くのだ。


 そんな彼女を抱き締めながらゆっくりと移動をして、いつも座るソファではなく、リリスの毎夜使っているベッドへと二人で腰をおろす。


「イヴ。わたくしに一筋ほどの傷もないわ。ヘイグさまによって僅かなれど傷が与えられたなどということはないのよ、安心しなさいな」

「リリス……、分かっています、それでも不安でならなかったのです。あなたがいなくなってしまったら、私は生きて行くことが出来ません。そのお姿を追って目を閉じることでしょう」

「わたくしもよ。あなたがいない世界なんて何の意味もないのだから……ねえ、イヴ。わたくしの言葉を、聞いてくれるかしら」

「何でも。あなたの声ならば、言葉ならば、私は全て知りたい」


 ベッドに座りながらリリスとイヴは抱き合う。そうして泣き止んだイヴの頬にそっと唇を当てたリリスは、優しく抱擁を解いて彼女の元から一度立ち上がった。


 それに縋ろうとするイヴの頭を撫でてからテーブルの上に侍女がいつの間にか置いていたのだろう箱を開いて、中からちいさな箱を取り出し彼女の元へと戻る。


 すると眉尻を下げてリリスを見上げるイヴが「リリス」と名前を呼ぶので、安心させるべく微笑むとその手を取って箱を持たせた。


「イヴ。あなたへの贈り物。どうしてもあなたに渡したくて、この時を楽しみにしていたものなの。……ね、開けてみて」


 そう囁いたリリスの声に操られるように、箱にイヴの細い指先がかかる。そうしてぱか、と呆気なく開かれたそこにあるものへ、彼女は大きく目を見開いた。


 シンプルなネックレス。リリスとイヴを象徴する色のそれが、今イヴの手の中にあった。動きを止め、しかし唇を震わせるイヴに代わりリリスが中のネックレスを手に取る。


 そうして留め具を外し、そっとその首へ正面から腕を回すことで着けてやると、室内に入る太陽の光が宝石に反射して美しく輝く。


「似合うわ。……イヴ。あなたのことを愛しています。あの日、入学式の前に万年筆を落としたあなたの背を見送った時から、きっと惹かれていたの。でも、婚約者がいるからと想いへ蓋をして来たわ」


 じわり、イヴの瞳に涙の膜が張る。けれども彼女はリリスから目を離さない。


「わたくしは、あなたが欲しい。だからこそ全ての障害を取り除き、両親からも許可を得ました。あなたを、イヴを、わたくしの伴侶として生涯を共にするための許可を。ねえ、イヴ」


 微笑みを浮かべるリリスの、美しい青色から一筋の雫がこぼれ落ちた。


「——あいしております。わたくしの、伴侶となってくれるかしら」

「……っ、はい! はい、リリス……! ずっとずっと、万年筆を拾って貰ったあの日から、あなたを想わない日はありませんでした。私の心はただ一人、あなただけのもの。リリスだけがその手に握るものなのです」

「イヴ」

「リリス。あいしています。あなたを——あなただけを、私は生涯愛し続けます。両親の説得も致します、あなたがしてくれたように、私もリリスと共に歩むためにやれることは全てやります。ほんとうに……うれしい……っ」


 二人の目尻から、目頭からこぼれ落ちるそれは、スカートを色濃く染めて行く。そうして、そっと両手の指先を触れ合わせて、リリスとイヴは見つめ合った。


 両手の指をゆっくりと絡めて、お互いの熱を感じ合う。水かきまですっかり合わせたら、首を僅かに傾けて、ゆっくり、ゆっくり。


 桃色の唇が二つ、静かに重なり合った。


 リリスのぽってりとした唇が、イヴの柔らかなそれに触れ、一瞬離れてまた重なる。


 はあ、と吐き出す吐息さえも食べてしまうような、けれど貪るそれとは違う、ただお互いの存在を確かめ合うためのキス。


「イヴ」

「リリス」


 名前を呼び合って、そうしてイヴが背面からベッドに倒れ込んだ。その上にリリスが優しく身を重ねて、再び口付けをする。


 想いを、そして唇を重ねる熱に、そうして少女二人は溺れて行くことしか出来なかった。

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