15.元婚約者の自爆

 リリス側からチャールズとの婚約が破棄されたと密かに話が広まってから数日後、化粧直しをするために席を立っていたリリスがイヴの隣の席へ戻ると、少々困り顔のイヴがリリスの指をそっと握った。


 そのことに彼女へと視線を向けたリリスは、チャールズの得意そうな顔と声なく唇の動きのみで伝えられることに思わず笑いをこぼしてしまいそうになる。


 イヴは、音なき声で「ヘイグさまから放課後の呼び出しを受けました」と伝えて来たのだ。そしてチャールズの勝ち誇ったような顔は、恐らく告白でもするつもりなのだろう。


 これに対してリリスは呆れを通り越して笑ってしまいそうだった。今までを思い返してもチャールズに対してイヴが良い反応をしたことなどなかったというのに、よくもまあ告白なぞ出来るものだと思う。


「イヴ、次はいつ一緒に出かけましょうか。わたくし、この前のお出かけが楽しくて、贈り物も嬉しかったのよ」

「……! いつでもお供致します。私もリリスと一緒の時間を過ごせて、贈り物を受け取って頂けて嬉しかったですから」


 リリスは張らずともよく通る声を持っている。それ故に小声ではなく普通の声量で話すだけで周囲には聞き取れるものとなるのだ。だからこそ、ここでチャールズを牽制するように二人で出かけたことを周囲に広める。


 焚きつけはすれど、それを叶えさせてやるつもりなぞリリスにはない。そして婚約者がいても同性の友人同士で出かけるというのはよくあることだ。だからクラスの者たちも不自然には思わないだろう。


 しかし、婚約者がいない今、つまり男女問わずに新たな婚約を結べる状態になったリリスからの誘いというのは大きな意味を持つ。


「イヴと過ごす時間は幸福に満ちているもの。わたくしらしくいられて、……いけないわ、聞かなかったことにして頂戴」

「いいえ、リリス。あなたの可愛らしいお言葉をなかったことになんかしません」

「もう……」


 口元を扇で隠すリリス。幸せそうに微笑むイヴ。そんな二人を見れば、それがいつからかは分からねどお互いが特別な存在だと思っているのだろうと周囲は察する。


 この国は浮気、不倫、不貞に厳しいが、それを隠し通せるのならば目溢しをするという性質があるとリリスは理解している。そうして彼女とイヴは、リリスの婚約期間中その関係を隠し通して来た。


 今表に出しているのはリリスが誰とも未来の約束をしていないから——つまりクラスの者たちから悪感情を抱かれることはほとんどないと踏んでいる。


 ただ一人、リリスを忌々しそうに見つめるチャールズ以外は。


 優しいイヴことであるから放課後の呼び出しに応じるのだろうとリリスはこの先の予定を頭の中で立てて行くが、しかし愚か者というのは彼女の想像を飛び越えるもので。


 がたりと椅子から立ち上がったのはチャールズ。そして彼は、イヴの元へ跪くと彼女の手を強引に握ったのだ。


 それに「ひっ」と小さな声を上げるイヴ。了承を得ずに他家の子息子女の手を握るなど、相当な仲でなければ許されないことをチャールズはしたのだ。


 それに眉を顰めるリリスと、ざわめく教室の中。それに気づいているのかいないのか、チャールズはイヴだけを見つめながら口を開く。


「イヴ嬢。いつも真っ直ぐで優しい心根のあなたを、私は愛してしまいました。リリス——カークランド侯爵家のご令嬢との婚約は既になきものとなっております。ですから、どうか憂いなく私の新たな未来の伴侶となって頂けませんか」


 チャールズの顔立ちは悪くない。真正面からそう告げられて、今までのことを知らぬ者ならば喜んだかもしれないが、イヴは違った。


 握られた手をそっと引き抜き、頭を横に振る。それは明確な拒絶の意志を表していて、更に言葉としても続けた。


「ヘイグさま。お言葉は嬉しく思いますが、私には既に心に決めた方がいらっしゃいます。その気持ちを裏切ることなど罷りならず、また私の心はあなたにありません。どうかそのお心はあなたに相応しき方にお捧げください」

「……っ!」


 そう返してから、イヴはリリスの手を握り、ただにこりと笑う。それだけで彼女の心が誰の者か、言葉にせずとも周囲へも伝わったことだろう。


 そんな教室のざわめきは、担任教師が朝のホームルームを行うために入室して来たことによって霧散して行く。


「席に座れ、朝のホームルームを……何だこの空気」


 一人だけ何も分からずに首を傾げる担任教師に、誰からの説明もない。ならば仕方ないかとそれ以上言及されることなく、渋々席に戻ったチャールズは顔を羞恥からだろう、真っ赤にしながら俯いていた。


 折角放課後呼び出しに成功したのだから、その時行えば良かった告白劇を何故この教室でしたのか、リリスには皆目見当もつかない。


 外堀を埋めることで断り難くしたのか、それとも衝動的なものか——リリスから見たチャールズの姿を思えば、後者である可能性の方が高い。


 そんな衝動に身を任せた結果、クラスメイト、つまり他家の子息子女の前で大恥をかいたのだから、彼女としては本当に婚約破棄が出来て良かったと胸をなでおろすばかりである。


 イヴとのことがなくとも、何れ婚約関係は破綻していただろう。それが早まっただけに過ぎないとリリスは思う。尤も、その場合は円満に婚約解消となったか、婚約破棄での強引な別れとなったかは定かではないが。


 何にせよチャールズは自ら恥を晒し、更に社交界での居場所を狭めたのだ。こんな男と十年も婚約していたという事実が恥ずかしいと思いもするが、大切なのは未来。


 これでなし崩し的に放課後の呼び出しの件もなくなっただろう。ならばいつも通りイヴと過ごすのはリリスだ。そして、お誂え向きに明日は土曜日。


 授業の合間に侍女へ指示を出して花束を買いに行かせたリリスは、上機嫌に目を細める。障害はこれでなくなった。後は己の手でイヴとの未来を掴み取るだけである。


 そのために、リリスは少しずつイヴの心を己のものにして来たのだから、と、内心でうっとりと微笑んだ。

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