6.名ばかりの婚約者

 始業時間が近づいて来るにつれて、教室の中も賑わって来る。隣に並ぶリリスとイヴを、そしてイヴを明らかに意識しているように見えるリリスの婚約者を、皆が伺っていた。


 そのことにきづいているのはリリスだけかもしれない、それほど些細な視線だ。しかし、その瞳は雄弁に語る。何故、リリスの隣は婚約者ではなくイヴなのか、と。


 そして婚約者がいながら、他の女に目を奪われている男がいる、とも。


 リリスとイヴの談笑が途切れた一瞬、その隙に「失礼」と男の声がかけられた。その主は、クラス中から悪い意味で視線を集めたリリスの婚約者。


「僕はチャールズ・ヘイグ。きみの名を聞いても?」

「……、イヴ・ネイサンと申します。どうぞ、ネイサンとお呼びください」

「はは、そんなにかしこまらないで。僕のことはチャールズで良いよ」

「とんでもないことです」


 婚約者の目の前で、他の女性へと声をかけるという愚行。しかも、リリスがいるというのに彼女を介することなく、直接声をかけたことに彼女は呆れるばかりだ。


 イヴもまた、そんなチャールズに困惑しきりなようで、リリスへと助けを求めるように絡めた指先を震わせる。昨日の今日で全く、と思いながらも、リリスには己の婚約者を諌めるしか出来ることはなかった。


「チャールズさま。婚約者の前で異性への声かけをなさるとは、どういうおつもりですか? こういった際には、取り次ぎをわたくしに求めるのが習わしでしょう」

「……はあ。ここは魔術学園だ、そういったものは取り払って皆同じ立場として学ぶ。なのにきみは貴族としてという言葉に囚われ続けているようだな」


 紺色の髪を横に揺らしながらチャールズは深い溜息と共にそう吐き捨てた。まるでリリスが悪であるかのような物言いをするのは昔からなので、このことについてもう彼女が何かを思うことはない。


 だが、彼は根本的なことを忘れている。確かに、学び舎では皆生徒である。だが、礼儀礼節をなくして良いというものではないのだ。それを取り違えているのではと、周囲からの眼差しもまたそういった困惑が混じっているとリリスは感じる。


「お分かりにならないのですね。であれば、これ以上わたくしから告げることはありません。けれども、イヴの言葉をよく思い出してくださいまし」

「きみに言われるまでもない。イヴ嬢、彼女の言葉は気にしないでくれ。気楽に話してくれて構わないよ」


 リリスへは眉を寄せて、イヴへは微笑みを添えて、チャールズは言う。それに対して、イヴの反応は素っ気ないものであった。


「——とんでもございません、ヘイグさま。あなたさまはリリスさまの婚約者、周囲からあらぬ思いを抱かれないように、どうぞ、ネイサンと」


 そんな彼女に、チャールズは楽しそうに笑う。けれどもイヴは平素を取り繕う表情とは異なって、その心は荒れているのだとリリスは触れる手から感じ取っている。彼女の指が、きゅう、と縋るようにリリスの人差し指に絡みついて来たのだ。


 たすけて。そう彼女が言っていると分かっても、リリスの言葉をチャールズが聞き入れることはない。彼は昔からずっと、リリスから何かを言われるのを嫌っているから。


 だが、イヴを見捨てるつもりもない。もう一度同じように節度を求めようとした時、教卓に最も近い扉が開かれた。


「始業時間だ。これから出席をとる、全員席に着いているな?」


 A組の担任教師だ。彼の言葉で、全員の意識が教卓側へと向かって行く。それにリリスはほっと胸を撫で下ろし、イヴと繋いでいた手を名残惜しく思いながら離そうとしたものの、けれど彼女からぎゅう、と更に握られてしまえば無理に振りほどくことも出来ない。


 可愛らしい仕草に胸の奥が締まるのを感じつつ、リリスもまた彼女の指をそっと握り返すと、一瞬だけ震えた手は、じんわりと熱さを伝えて来た。


 担任教師が話す連絡事項を聞きながら、リリスとイヴの指はゆっくり、睦み合うように触れ続ける。ただお互いの存在を感じていたい、その思いだけがリリスの胸の内を満たすのだ。


 やがて、素肌でイヴの指に触れられたならどれだけ良いかと思考がズレ始める。己の体温と、彼女の熱が交わる肌の境を感じてみたいという欲は、留まってはくれない。


 けれどもここでそんなことをするわけにはいかないのだと、リリスは深く息を吐く。視線だけをイヴに流すと、彼女もまた、リリスへ瞳だけを向けていた。


 その瞬間、二人同時に握る指に力を込める。このまま二人きりになれたなら、どれだけ良いだろうか。だがそんな静かな触れ合いも、一限目の授業準備をせねばならないので、長く続けられることはなかった。


「十分後、また来るからな。俺の授業で寝るなよ」


 貴族の子息子女ばかりが通う学園ではあるものの、教職員は担任教師のような言葉遣いであっても許されている。それは教師と生徒という関係性を言葉遣いとしても示すためであり、学園は貴族家の権力に屈指ることはないとの暗示だ。


 そんな担任教師もまた、ちらりとイヴへ視線を投げかけていたようだが、それはどんな感情からなのか、まだ推し量るための判断材料はリリスの手元にない。


「イヴ嬢——」

「イヴ。最初は魔術運用基礎の授業だそうだけれど、あなたは得意かしら?」


 チャールズの言葉を遮って、イヴに声をかける。すると彼女は嬉しそうに、彼は眉を顰めてリリスへと顔を向けた。その対比に少しだけ笑ってしまいそうになって、リリスは口元を扇でそっと隠す。


「ちょっと苦手です……。家庭教師の方にも、感覚で魔術を扱っているって何度も指摘を受けました」

「そうだったの。もし授業で分からないことがあったら、何でも聞いて頂戴。あなたになら、幾らでも教えてあげる」

「っは、はい! リリスさまは苦手な科目、あるんですか?」

「そうねえ、特には。ああでも、刺繍は少しだけ苦手かしら」

「でしたら、その時は私が相談に乗ります! 刺繍、得意なので是非お任せください」


 きらきらとした瞳で、リリスだけを映してイヴは言う。それに目尻を下げながら頷くと、彼女もまた柔らかな眼差しをイヴだけに向ける。まるで二人だけの空間だと、前の席に座っている女子生徒すらリリスとイヴの会話に混じろうとはしなかった。


 そんなあからさまな空気に、イヴの隣の席から立ち上がる音が聞こえた。チャールズが離席したのだろう、居心地が悪かったのかもしれない。


 そんな風に一瞬だけ揺れたリリスの思考をまるで見破ったかのように、イヴは大胆にも両手で彼女の手を包むように握る。それにはリリスも可憐な花の如き少女に対して目を丸くした。


「リリスさま。……最初の授業は、どの科目も説明からでしたよね。成績のつけ方についてもお話があるのでしょうか」

「そう、ね。あると思うわ。授業態度や課題の提出率を優先する教師もいれば、テストの点数を優先する教師も、その中間だという教師もいるそうだから」

「では、魔術運用基礎ではどうなのでしょうか。テストの点数を優先となると、不安が出てしまいます」

「さあ、人となりも分からないから何とも言えないわ。でも、テストの点数をメインに据えるのならば対策をきちんとすれば大丈夫。わたくしが力を貸すのだもの」

「ふふっ、ありがとう存じます、リリスさま。とても心強いです!」


 繋がれた手が、最後に強く握られてそっと離れて行く。それが寂しくて、リリスから指先を優しく握ってから、二人の熱は静かに離れた。

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