第25話 町田抗争 10

 煉瓦と別れてから間もない頃、アタリは横丁を駆け抜けていた。横丁の中は入り組んだ構造となっており、曲がり角に何度も遭遇するためアタリはいつ敵が現れてもいいようにナイフを構えていた。ちょうど中心地までやってくると、突然何かが焦げた臭いが鼻に入り込み、アタリは思わず顔をしかめた。しかしある人物が路地の真ん中で倒れているのを発見すると、アタリは思わず息を呑み、その人物の傍に駆け寄った。

 その人物の顔は炎で包まれていた。アタリはその人物の体を横にして顔を確認すると驚愕きょうがくし、慌てて火を消し始めた。顔が焼けただれていたにもかかわらず、アタリはその人物の顔を確認することができた。


 この人物は、福恵大樹だ。アタリは意識の無い大樹を腕で抱きかかえると彼の顔をじっと見た。大樹は喘ぐように呼吸をしており、アタリはそれを見て背筋を凍らせた。柚組の下で働き始めて人を殺すようになってから、殺害対象が同様の呼吸法をしていたのを見たことがある。これは死戦期呼吸だ。大樹は死にかけているのだ。


 その事実に気づくなり、アタリは目に見えて取り乱し始めた。心拍数が劇的に上昇し、呼吸も早いものになり、唇がせわしなく痙攣けいれんを始めた。彼は顔を上げて周囲を見渡すも誰も見つけられず、ついに耐えきれなくなって叫んだ。


「誰か! 誰かいないのか⁉」


 その声はかすかに震えていた。目の前で親しい人間が死ぬかもしれないという事実に、アタリは思わず涙を浮かべそうになった。


「またかよ……またかよ⁉ どうして俺だけこんな目に遭うんだよ、クソがッ! 誰か助けろよ!」


 すると、突然背後から何者かの気配がして、アタリは振り返った。そこに人の姿はなかった。だが人の姿が見当たらないだけで、何か得体の知れない物がいるということだけは伝わり、アタリは混乱した。それから間もなく、彼は不思議な光景を目にした。先ほどまで抜け殻のようだった大樹の肉体が突然青い光に包まれ、次第に生気を取り戻していったのだ。よく見ると大樹の傍には彼の胸に手を置いている異形の姿があり、アタリは思わず立ち上がった。


「大樹っちなら大丈夫だよ」異形から発せられたその声は柚のものであった。「かなり危ない状態だったけれど、私の力を使って何とか一命を取り留めてる。大樹っちのことは心配しなくていいから、アタリ君は先に行って」


「お前、組長か? その姿……」


「質問なら後でいっぱいできるから、早く行って。私は大樹っちの命を救うことに集中したいから……だからアタリ君は、絶対に大樹っちの仇を討ってきて」


 アタリは柚の白い目をじっと見た。表情は読み取れなかったが彼女の怒りがひしひしと伝わり、アタリはただ頷いてその場を後にした。


 どう見ても無事なようには見えなかった。しかし今アタリにできることは仇討ちくらいであり、柚の言葉を信じるしかなかった。そのまま通りを突き進んで表に出ると、アタリは地面にとある血痕が残されているのを見た。血痕はぽつぽつと地面の上で固まっており、その近くには使用済みの銃弾が落ちていた。アタリは思った──この血を辿たどれば、大樹先輩をあんな目に合わせたやつのもとに行ける。根拠はどこにもなかったが、アタリはそう確信して血痕を追った。


 おそらく相手は何者かの攻撃によって負傷し、そして逃亡を図っているのだろう。血痕は大型の駐車場へと続いており、アタリは無意識に走りを速めて中へと入っていった。それと同時に、突然彼の目の前を一台の車が通った。車はものすごい勢いで駐車場の出入り口へと向かい、アタリは運転手と目を合わせた。


 運転手は柚組の人間であった。彼の顔にはどこか既視感があり、アタリは一瞬のうちにその人物のことを思い出した。その人物は、事前に大樹から見せられた鬼沢桜大の顔と一致していた。


「てめぇコラ!」


 アタリは車に向かって叫んだが桜大は気にも留めず、出入り口のガードを突き破って道路に飛び出た。それから桜大は猛スピードで車を発進させて彼方へと走って行った。アタリは路上に捨てられている車に乗り込むと、桜大に追いつくようにアクセルを踏み倒した。桜大が乗っている車は高級感漂うスポーツカーなのに対し、アタリのは一般的な自家用車であったため、明らかに速度の違いが表れていた。


 遅れながらも一定の距離まで近づいた頃、アタリは大樹から拝借した拳銃を取り出し、窓から身を乗り出して桜大の車に銃口を向けた。それからタイヤめがけて連射すると車は制御を失い、そのまま勢いよく商業施設の中に突っ込んだ。アタリは猛スピードを維持したままその後ろから追突し、そして瞬時に車から飛び降りた。


 桜大はいつの間にか車から脱出しており、アタリの姿を確認すると水入りペットボトルを彼に投げつけた。アタリは一瞬でその行動の意図を理解し、体を転がして回避行動をとった。今まで戦ってきた鬼沢班のメンバーが全員超能力を持っているなら、桜大もまた能力者である可能性は高い。そして大樹の顔が燃やされていたことや、一見無害そうなペットボトルを投げつけていることから、桜大の能力は水を火に変える能力だとアタリは予想した。


 現に、アタリの予想は的中した。先ほどまで水を入れていたペットボトルが突然火を噴き、中規模の爆発を引き起こした。予想外の威力にアタリは顔半分が炎に包まれたが、彼は動揺することなく炎を手で消した。その間に桜大は施設の上の階へと向かい、アタリもそれに続いた。先の追跡劇でアタリは銃弾を使い尽くしてしまい、彼に残された武器はナイフと拳のみとなっていた。


 桜大の背中には一つの大きな穴が開いており、そこから鮮血がしたたっていた。にもかかわらず桜大はそれに構うことなく、まるで何事もないように走りを続けていた。


「おいコラ」アタリは後を追いながら怒鳴った。「てめぇか、俺の先輩の顔を焼いたのは」


「だったらどうするってんだ。俺を殺すか?」


「絶対に殺してやるからなボケ。俺に喧嘩売ったこと後悔させてやるからな」


 桜大は手に持っていたペットボトルの蓋を開封すると水をその場にぶちまけ、そして能力を使用した。その場にできた水たまりは激しく炎上した。その光景はさながら炎の壁のようであったが、アタリはそれに臆することなく飛び込んで突破した。


 それと同時に桜大はアタリに殴りかかった。アタリは桜大が突き出してきた腕を避けて掴もうとするも、桜大はアタリの目論見もくろみを見破ってすぐさま腕を引っ込めた。それから桜大は左足を回してアタリの横腹を狙い、アタリは腕を使ってそれを防いだ。背後から銃撃を受けて負傷しているにもかかわらず、彼の蹴りは強力であった。アタリは桜大によって蹴り飛ばされ、思わず体勢を崩して地面に倒れた。


 すると桜大は拳銃を取り出して倒れているアタリに二発弾を放った。アタリは体を転がせて回避すると反撃としてナイフを投げつけた。しかし桜大はアタリに背を向けて逃げ出しており、ナイフはただ宙を切っただけに終わった。


 桜大は施設の出入り口へと向かい、建物と繋がっている歩行者デッキへと出た。アタリはナイフを回収するとすぐさま桜大の後を追い、そして彼に跳びかかった。二人は取っ組み合いながら階段を転げ落ち、そして地面と強く衝突した。それから桜大がその場から離れようとするのを見て、アタリはすかさず彼の首に手を伸ばし、彼の体を壁に叩きつけた。


 アタリは桜大の顔に三回拳を叩きつけると、続けて彼の胸ぐらを掴み、そして膝蹴ひざげりを与えた。桜大が地面に倒れるとアタリは彼の髪を鷲掴わしづかみにして再び顔を殴り、そして肩で呼吸しながら言った。


「ボケが、クソが、カスが。よくも俺の先輩を半殺しにしやがったな」


 顔に痛々しい傷を負っていたにもかかわらず、桜大は歯を見せながらわざとらしく笑った。


「あれじゃもう死んでるかもな。顔がジューシーな焼肉になっちまってるわけだし」


「チンカスが。てめぇみたいなやつは生まれてこなければよかったんだ。地獄見せてやろうかてめぇ」


「地獄か、あるならぜひとも見てみたいね」


 桜大は依然として彼を挑発するように笑っていた。そんな彼の様子をアタリは気に食わなかった。何でここまで余裕でいられるんだ、彼は思った。ハッタリにしてはどうも自信満々だ。これじゃまるで、何か切り札を持ち合わせているみたいじゃねぇか。


「ところでお前、傘は持ってきたか。どうやら、これから雨が降るらしいぜ」


 桜大はそんなことを口にし、アタリは思わずはっとした。目の前の男性に対しての憎悪で我を忘れてしまい、アタリはいつの間にか小雨が降り始めていたことに気づかなかった。


 桜大の能力は、水を火に変える能力だ。それも直接手を触れる必要はなく、遠くにある水ですらも火に変えることができる。それはおそらく雨も例外ではない。


 突然、周囲に降っていた雨が火の粉へと姿を変え、周囲がまばゆい光に包まれた。どす黒く塗り潰されていた夜空は今や真っ赤に染まり、戦場と化した町田に容赦なく炎が降り注がれた。


 アタリの上半身は火の雨を受けて炎上し、彼は桜大から手を放して地面にのたうち回った。しかし桜大の身に炎は降り注がれておらず、彼だけが無事となっていた。


「頭が悪いってのは哀れなもんだな」桜大はアタリを見下ろしながら言った。「何が一番合理的なのかを知らねぇから、いつも肝心なところで失敗するんだ。そして冷静に考える知能も無いから怒りに身を任せて、勝手に自滅する。来世では頭のいい奴に生まれることを期待するんだな」


 桜大は地面を転がっているアタリを置き去りにして走り出した。アタリの体を包んでいる炎は次第に消え、彼はすぐさま立ち上がって屋根のある建物の下へと移動すると呼吸を整え始めた。それから離れていく桜大をじっと見据えると、彼は考えた。


 予報ではこの後、雨が次第に強くなっていくと伝えていたため、それに応じてこの火の雨の威力も次第に強くなっていくことだろう。その頃にはおそらく建物も炎上し、町田駅付近のほとんどが炎の海に包まれるはずだ。ならば動くべきタイミングは、火の威力が弱い今しかない。


 覚悟を決めて雨の中へと身を投げ出そうとしたその時、ふと何者かの悲鳴が聞こえてアタリは思わず固まった。見ると、火の雨の中で女性を抱えながら走っている一般人の男性の姿が遠くにあった。おそらく先ほどまで建物内で隠れていたものの、外が静かになったのを見て避難を始め、そして運悪く雨に巻き込まれてしまったのだろう。二人の周りに火をしのげそうなものは見当たらず、このまま彼らを見放せば重症は免れない。しかしなんとか彼らを救出してしまえば桜大を逃すことになってしまう。ここで彼を逃がせば事実上彼の一人勝ちとなり、それをアタリは絶対に許さなかった。


「どうすりゃいいんだよ、クソが……」


 アタリは呟き、その場で足踏みをした。それと同時に彼は自身がこうして選択を迷っているという事実に驚いた。


 何を迷ってんだ、彼は自分に言った。あの二人の命を救うよりも優先すべきことがあるだろうが。柚組に不利益となる人間を殺してこの先の殺し合いを防ぐのと、衝動的に目先の命を救うの、どっちが重要かなんてそんなのわかりきってるだろ。


 そう、わかりきってるはずだった。しかし彼は心のどこかで、それをしたら人間として何か大切なものを失ってしまう気がしていた。


 男性の体が燃え始め、そして彼が悲鳴を上げたのを見て、アタリはついに耐え切れなくなって彼らのほうへと飛び出そうとした。しかし、その瞬間どこからともなく突風が吹き、男女は風にさらわれてその場からいなくなった。先ほどまで確かにそこにいた人間が、視界から消えてしまったのだ。アタリは思わず目を見開いて周囲を見渡し、狼狽ろうばいしながらその場に立ち尽くしていた。


「今のは……?」


「アタリッ!」


 突然火の中から名前を呼ぶ声が聞こえ、アタリは声のした方向を見た。よく目を凝らすと、空中を埋め尽くしている火の下を縦横無尽に駆け抜けている黒い人影がそこにあった。人影が高速で移動するにつれて風が吹き荒れ、空中を舞っていた火の粉は次第に飛ばされていった。


 アタリはその人影の正体を一瞬で理解した。これほど高速移動で移動できる能力を持っていて、なおかつ俺を知っている人間はあいつしかいない。アタリはそう思い、人影に向かって叫んだ。


「その声、七星先輩か⁉」


「ああそうだよ!」七星は移動を続けながら言った。「時間が惜しいからよく聞け! ついさっき、このクソみたいな火のせいで被害に遭っている一般人をたくさん見かけた! そいつらのことは俺が助けるから、お前は桜大の殺害に集中しろ!」


「先輩が殺すんじゃだめなのか⁉」


「たとえあいつを殺せたとして、この火の雨が止まる確証は無い! 聞いた話じゃ女殺しの能力者は死後にも能力が続いたらしいじゃねぇか! この雨が止まらなかったら後が怖い、だから唯一戦えるお前が行ってくれ!」


「……わかった。俺やるよ!」


「頼んだぞ」突然七星の声が耳元に移動しており、アタリは思わず息を呑んだ。七星はいつの間にか彼の横におり、彼はアタリの体を掴むと言った。「桜大はどこに行った?」


 こいつまさか、アタリは思った。


「あそこの、商店街のほうだ」


 アタリがそう言うと七星は彼の体を掴んだまま大きく回し、そして彼が指差した方へと投げつけた。アタリと桜大との距離は瞬間的に縮んでいき、ついに二人の体は互いに接触した。


 背後からアタリに追突された衝撃で桜大は倒れ、そしてアタリは上手く着地できずに体を打ってしまった。桜大はアタリよりも先に起き上がると商店街のほうへと逃げていき、そしてアタリも少し遅れて続いた。


 商店街には金属製の屋根が備わっているため雨の影響を受けることはなかった。それゆえ火が降り注がれている外に反して商店街の中のみは無事だった。両脇には飲食店や居酒屋などが立ち並んでおり、所々裏方へと繋がる路地なども設けられていた。


 桜大はその路地へと入り込むと蛇口に繋がれているホースを掴み、そして近づいてくるアタリに向けて放水を開始した。水は炎となってアタリに襲いかかった。その姿はさながら火炎放射器のようで、アタリはすぐさま路地へと転がって炎を回避した。


 アタリを退けると、桜大は地面に水を撒いて炎の壁を生成し、アタリの進路を塞いだ。そして桜大がその場から逃げ出そうとした瞬間、彼の背後にある出口から大きな音が鳴り響いた。振り返ると、そこには出入り口へ無理やり突っ込んでいるトラックの姿があった。運転手は煉瓦であった。彼は桜大が常に発していた微小な死期を感知して彼の居場所を突き止めたのだ。


 桜大はトラックとアタリに挟まれ、退路を塞がれていた。店と店の間にある路地は繋がってはいるものの、そこから外に出られることはない。つまり桜大は文字通り、八方塞がりの状況にあった。


「もう逃げられねぇぞ」アタリは炎の壁を突破すると言った。


「いいや、逃げられる。お前さえ殺せば出口はあるんだからな」


 アタリは桜大を睨みつけたまま両手を握り、一歩、また一歩と彼に近づいていった。桜大はそんな彼の接近を、炎を噴くホースを手にしたまま待ち構えた。


 先に出たのはアタリだった。彼は桜大の顔、胸、そして再び顔を狙って殴り、桜大はそれを片腕だけで受け止めた。続いて桜大はホースをアタリに向けて火を放った。アタリはそれを避けると下から桜大の腕を叩き上げ、隙を見せた彼を狙って素早く殴りかかった。拳は桜大の顔面に直撃した。それをチャンスとばかりにアタリは連続で顔を殴打し、桜大はその衝撃で思わず後ろによろめいた。


 たった一瞬にして桜大の体力はほとんど削がれてしまい、今にも倒れてしまいそうなほど弱っていた。そんな彼にとどめを刺そうと、アタリは右手に渾身こんしんの力を乗せて殴りかかったが、拳が命中する寸前で彼は意識を取り戻し、そしてアタリに向けて再び炎を放った。


 アタリは何とか桜大を殴れたものの顔に炎を食らってしまい、思わず怯んでしまった。そんな彼に桜大は容赦なく炎を浴びせ、アタリの体は次第に炎上を始めた。


「消え失せろ、雑魚が!」


 桜大は得意になって声を上げた。アタリの上半身は炎に包まれており、彼は何とか消火しようと全身をしきりに叩いていた。桜大は笑いながらアタリの体に火を噴き続けていたが、突然アタリが消火を中断して動き出したのを見ると、思わず声を漏らした。肉体を焼かれて全身に強い痛みが走っているにもかかわらず、アタリは体に無理をきかせて反撃に転じたのだ。彼は痛みを忘れて桜大に跳びかかり、そして桜大の首に右手を突き出した。


 アタリの手に握られていたのはナイフだった。ナイフは桜大の首に突き刺さると動きを止め、アタリは刃先をさらに深く食い込ませた。桜大は何が起こったのかを理解できていないようだったが、そんな彼を置き去りにするかのように彼の肉体は首から崩壊を始めた。


 自分は死ぬのだと悟った桜大は白目を剥いて敗北を認めかけたが、不意にアタリと目を合わせて彼の首に手を伸ばした。既に左半身が煙と化しているにもかかわらず、桜大は残された右手のみでアタリの首を鷲掴みにし、出し得る最大の力で締め上げた。


 ともしびめっせんとして光を増すとは、まさにこのことであった。しかし滅びていくことに変わりはなく、桜大の悪あがきもむなしく彼は散っていった。ホースから放出されていた炎は水へと変化し、アタリは全身にその水を浴びた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る