第7話 闇の気配

 猫又音ねこまたおと。この名前を知らない人間は今の日本にはいないだろう。


 音はかつて日本中を熱狂させた女性アイドルであった。彼女は十七歳、高校在学中にデビューを果たし、しばらくしてある一枚のアルバムを世に放った。彼女はそのアルバムで青春の素晴らしさと未来への希望、そして名声を望む純粋な心を歌い、数多の人間がそれに共感したことで彼女の人気は爆増した。その歌声と美貌びぼうによって彼女は多くの日本人の心を鷲掴わしづかみにし、それに伴って富と名声を獲得した。


 そんな前代未聞のデビューから数年が経っても、彼女の人気が落ちることはなかった。彼女のアルバムは新作が出る度に前作の売り上げを上回り、最新作である六枚目のアルバムは数か月もの間オリコン一位を保持していた。


 アイドル活動を続けていく中で、彼女は華やかな生活を送っていた。使いきれないほどの莫大な資産に加え、男の遊び相手にも困っていなかったため、彼女は不自由無い生活を送っていた。


 しかし、この世に『諸行無常』という言葉が存在するように、彼女が年齢を重ねるとともにその人気は次第に落ちていった。人間は基本的により若い人間を好むものであり、いくら歌声や曲のセンスが進化していようとも、二十七となった彼女を応援し続ける人間の数など底が知れていた。そして最後のアルバム発売から四年後の今、彼女はアイドルとしての活動が厳しくなり、引退を考えるほどとなっていた。


 現在、彼女は商業施設の屋上から東京の夜景を眺めていた。彼女はただ呆然と冷たい夜風を浴び、静かに涙を流した。


 その日の昼時、彼女は長年交際していた男性から別れを切り出された。突然の出来事に彼女は衝撃を受け、二人は口喧嘩に発展した。そんな出来事から数時間経った今も、彼女の頭の中で彼の言葉が繰り返し流れていた。男性の言い分としては、音が年齢を重ねたことでその美貌が劣ってしまい魅力が薄れた、ということを理由に別れたいとのことだった。当然彼女はその言い分に納得がいかず、話は押し問答となって有耶無耶うやむやに終わった。


 彼から言われた言葉の一つ一つが彼女の心を突き刺し、彼女は今声を押し殺してむせび泣いていた。


 愛していた。たとえ彼が、自分を財布としか見ていないヒモだったとしても、彼女は彼を心から愛していた。しかしそんな彼から拒絶されてしまった今、彼女は絶望していた。人気が低迷し、仕事も少なくなり、その上最愛の人物を失って、彼女は先の見えない将来に希望を見いだせなかった。彼女は目を涙で濡らしたまま下を見た。ここから落ちたら、自分はどんな結末を迎えるのだろう。あまり見向きされなくなった有名人の悲劇として片付けられて終わりだろうか。


 そもそも、どうしてこんなことになってしまったのだろう、彼女は思った。自分はこんな仕打ちを受けるようなことはしていないし、何事にも一生懸命励んできたつもりだ。それなのに何故こんなことに──。


 いや、違う。悪いのは自分じゃない。そもそも自分が振られたのは人気が落ちたからであって、その原因は私が歳を重ねてしまったからだ。肉体的魅力が無くなったせいで、自分は全盛期と比べて肌も劣化している。そうだ、悪いのは自分ではない。悪いのは──。


「この老いなんだ」


 突然、自分の考えている言葉が声となって後ろから聞こえ、音はとっさに振り向いた。


 そこには見知らぬ男性が立っていた。男性は鬼の絵が挿入されたスカジャンを羽織っており、ちょうど今口にくわえていたタバコに火をつけているところだった。彼は煙を吸ったまま下を向いており、こちらからはその表情が読み取れなかった。


 こいつ、誰なの? 音は思った。彼女は男性が近づいていたことに全く気づけず、それどころか存在感さえも感じられなかった。決して忍び寄ったわけではなく、まるでたった今出現したばかりであるかのようだった。


 男性はうつむいたまま紫煙しえんを吐き出すと、ようやくその顔を音に見せた。そして彼と目を合わせたその瞬間、音はどういうわけか、自分はこの男性に殺されるのだと錯覚した。彼女の全身を鳥肌が覆い、急激に脈が速くなり、その呼吸はおぼつかなくなった。というのも、彼女が男性の目を一瞥いちべつした時、彼の目の奥に広がる不気味な何かが見えたからだ。


 彼の目の中には、地獄があった。


「こんばんは」男性は穏やかに言った。「いったいどうしたんだい? こんなところで一人泣いて」


 冷静になっている彼とは対照的に、音は未だにせわしなく呼吸を続けていた。冷たい汗が背を伝い、彼女は体が震えるのを感じた。今や彼女は他のことを考える余裕がなかった。考えていることといえば、目の前の男性──もしくは別の何か──から逃げることであった。しかしその意思に反して、彼女の足は一歩も動かなかった。何とか力を振り絞ってみるも結局ふらついてしまい、彼女はその場に尻もちをついた。


 それを見ると男性は音にゆっくりと近づいていった。彼が歩み寄ってくるのを見ると、彼女は小さく悲鳴を上げて目をにじませた。男性は不気味な笑顔を浮かべながら一歩ずつ近づき、彼女の顔に手を伸ばした。それを見て彼女は死を覚悟して目を閉じたが、次の瞬間、彼女は涙袋に暖かい何かを感じた。恐る恐る目を開いてみると、男性が指で彼女の涙を拭っていた。


「君みたいな美しい女性に涙は似合わないよ」彼は依然として笑みを浮かべながら言った。


 音は拍子抜けした。先ほどまで狂気と悪意をかもし出していた男性が、今では彼女にとって善人として見えていた。男性はタバコをくわえたまま微笑み、彼女の目をじっと見た。もはや彼の目に地獄は映っていなかった。


 タバコの煙は静かに揺れて彼女の鼻腔びこうをくすぐった。臭かった。しかしその臭いは嫌悪感を抱かせるようなものではなく、どこか懐かしさを感じさせるようなものだった。


 そこで彼女は思い出した──この臭いは、父親が生前吸っていたタバコの臭いと同じものだ。


 彼女の父親はヘビースモーカーだった。自室には必ず箱の山が積み上げられており、がんで亡くなる最後の最後までタバコを手放さないほど依存していた。そういえば、幼いころ悲しいことがあったときに今と同じように慰められたっけ、彼女は思った。


「辛いことがあるなら話してみてよ。僕でよければ聞いてあげるよ」


 男性のその言葉を聞いて救われたような気がして、彼女はうやうやしく彼に抱きついた。そして彼女は同じ体勢のまま、しばらくその場から動かなかった。


───


「ごめんね、急にあんなことして」しばらくして音が言った。


「別に気にしていないよ。誰にだって泣きたいときはあるしね。君、名前は?」


「猫又音。それで、あなたは……」


みねって呼んでくれ。それで早速話を聞かせてほしいんだけど、どうして泣いていたんだい?」


 散々涙を流したおかげで冷静に考えられるようになり、彼女は先ほどまで困っていたこと自体が馬鹿らしく感じられるようになった。しかし話を聞いてくれる人物を欲していたので、彼女は話し始めた。


「好きだった人に振られたの。五年以上付き合っていたんだけど、相手から一方的に切り出されてね」


「それまたどうして?」


「あたし、以前までアイドル活動をしていたんだけど、ここ四年活動してないせいで人気が落ちちゃって、それで愛想尽かされちゃったの」


「クズだな」峰は笑った。「別れて正解じゃないか、何であんなに泣いていたんだい?」


「たとえクズだったとしても、あの人を愛していたの。長年の仲だから思い出もいっぱいあるし、だからこそ別れたくなかった。それに一方的に悪いのはあの人だけじゃない。だってそもそもの原因はあたしが歳食って魅力的じゃなくなった……から……」


 そこまで言って音はあることを思い出し、峰を見た。そういえばこの人、あたしが考えていたことを口に出していなかった? あたしはこの男と出会うまで一言も発していない。だから心を読むとかでもしない限り、そんなことをするなんて不可能なはずだ。


「歳食って魅力がなくなった、ねぇ」彼女に構わず峰は言った。「確かに、生き物というのは若い時が一番輝くからね。老化というのは醜いものだ。体中の機能が劣って、見た目も酷くなる。しかも全生命にその呪いが課せられているものだから逃げられない。まったく酷い話だよ」


 彼の話を聞くにつれて、音は先ほどの問題などどうでもよくなった。彼の言う通りだった。彼女がアイドルを目指すきっかけになった女性も今や老いによって肌の劣化が目立つようになり、彼女自身もそれに近づいている。自分は主に美貌を武器にしてきたというのに、それを奪い取るなんてこんな話があるか、彼女は思った。もしもこれが呪いだというのなら、この呪いをかけた者はくたばってしまえばいい。


「けど、僕が呪いから逃げる方法を知っていると言ったらどうする?」


 突然峰はそう言い、音は反射的に彼のほうを振り向いた。逃げる方法? 彼女は思い、その瞳に少しの光を灯したが、すぐに頭を振った。いいや、そんなうまい話があるはずがない。この男が言いたいのは、美容品の定期購入に興味があるか、とかだろう。きっと今にも胡散うさん臭い話を持ち出してくるに違いない。


 そんな彼女の心を見通したように峰は言った。


「逃げる方法といっても、化粧とかで肌の劣化を防ぐという話じゃない。僕が言いたいのは、これから直面するであろう老化を避ける、つまり若返りの話なんだ」


 この時点で音は彼に対して不信感を抱いた。しかし不思議なことに、彼女は心のどこかで彼の話に興味を抱いていた。


「その若返りってのはどういうものなの?」


「文字通り若返ることができるんだ。顔や手にできたしわも綺麗さっぱり消えて、それどころか体の機能も前と同じようになれる。極端に言ってしまえば、認知症のおばあさんすらも生娘きむすめに戻ることが可能なんだ」それからしばらく間を置いて彼は言った。「僕の目を見てくれ」


 彼女は言われた通り峰の目を凝視した。地獄は見えなかった。しかしその代わりに、彼の目の中には引きこまれるほどの深淵しんえんが広がっていた。不気味だが同時に美しかったその闇に、彼女は目を奪われた。


「老いを避けて再び若さを取り戻すことができるんだよ。魅力的な話だろう?」


「うん」音は力なく言った。


「夢みたいな話だろう?」


「うん」


「手にしてみたいだろう?」


「うん」


「ぜひとも教えてあげるよ。知識というのは分け与えるものだからね」


 もはや彼女に考える力など残されていなかった。彼女は今やただ彼の誘導通りに動く傀儡かいらいと化していた。


「とても簡単なことなんだよ。ただ信じるだけでいいんだ。自分は若返ることができると、そう強く信じるだけでいい。ほら、やってみて」


 あたしは若返ることができる、彼女は心の中で言った。


「信じて」


 あたしは若返ることができる。


「僕を信じて」


 信じます。


「僕を崇拝して」


 崇拝します。


「契約成立だ」


 峰がそう言った瞬間、彼は音の顎を鷲掴みにして顔を近づけた。音が驚いて我に返ったと同時に彼は口を大きく開き、中から煙を吐き出した。煙は音の口に入り込み、そのまま喉、そして腹へと下っていった。再び蘇った恐怖に音は必死で体をばたつかせたが、それもむなしく彼女は意識を失った。


───


 気づけば音は自宅のベッドで横になっていた。ベッドから跳び起きるや否や、彼女は混乱しながら宙を見つめた。自分はいつの間に家に帰ったのだろう、彼女は思った。


 彼女はおずおずと体中を探り、そして考えた。昨日峰という男性に催眠のようなものをされて気を失ったのは覚えている。けれど、そこからどうやってマンションに戻ってきたのかは記憶に無かった。暴行を加えられた跡は無い。あの峰という男に何かをされたわけではないのだろう。そもそも、あれは現実だったのだろうか? 夢ではないのは確かだ。何故だか峰という男性の顔は鮮明に覚えているし、何より彼が醸し出していた不気味な雰囲気が頭から離れない。


 彼女はしばらくベッドの上で考え事をしていたが、時計を一瞥すると声を上げてキッチンへと向かった。そういえば、今日は朝からモデル雑誌の撮影があるんだった。彼女は思った。


 集合時間はギリギリとなっており、彼女は慌ただしく身支度を始めた。パンとコーヒーを腹に入れ、服を手に鏡の前に立ったとき、彼女は思わず動きを止めた。彼女は鏡の前に立ち尽くして自身の姿を凝視し、しばらくすると服を落として鏡に近づいた。


 どうなってるの? 彼女は思った。どういうわけか──顔が変わってる。というか、見た目が五歳くらい若くなってる。これはいったい何なの? そういえば、昨日あたしが峰に若返りを信じるだとか何とか言ったけど、まさかあれが関係してるの?


「すごい……」


 彼女は思わずそう呟いた。自分はこんなにも美しかったのか、こんなにも魅力的だったのか。彼女は自分の姿に感動し、そして峰に感謝した。これで自分は再び輝ける、彼女は思った。


───


 その夜、彼女は嬉々としながら自宅に戻った。


 例の撮影の仕事で彼女は何度もその容姿を褒められ、関係者から別の仕事の依頼を持ち出され、その上帰りにはファンである数人の男女から話しかけられるなど、彼女の周りで都合の良い事ばかりが続いた。


 リビングのソファに倒れてスマホを見ると、ネットでのある投稿が話題になっているのを目にした。そこには前述した男女と彼女が映っている写真が貼られており、コメントには年齢にそぐわない彼女の美貌を羨む声ばかりが書かれてあった。


 それによる歓喜と同時に、結局皆が印象に残っていて、そして求めていたのは過去の自分の姿なのか、と彼女は少し悲しくなった。でもまあいいか。二十七のあたしは既に死んだ。今のあたしは皆が求めるあたしだ。今からでも遅くない、もう一度返り咲いてみせる。


 彼女は身を起こし、服を脱ぎながら浴室へと向かった。そして洗面所の鏡を一瞥したその瞬間、彼女は固まった。


 彼女は焦ったように自分の顔を見つめた。なんと鏡の中の彼女は顔が少し戻っており、消えていたはずのしわが戻っていたのだ。いったいどういうことなの? 彼女は思い、それから何度も顔を見直した。やはり今朝と違って、あの忌々しいしわが元通りになっている。若返りが峰によるものなら、これもあの男によるものなの? それとも若返りの効果が切れつつあるということなの? 何にせよ、今すぐ彼に会いに行かなければならない。


 音は家を飛び出し、昨夜峰と出会った商業施設の屋上に辿り着いた。彼女の予想に反してそこには誰もいなかった。しかし彼女が手すりまで歩いたとき、背後から聞き覚えのある声が聞こえた。


「まだ何かを望むのかい?」振り返ってみると、そこにはいつの間にか峰がいた。


強欲ごうよくだな。だけど嫌いじゃないよ」


「いつからここに?」


「そんなことはどうでもいい。それより僕に用があってここへ来たんだろう? 言ってみなよ、話は聞いてやるからさ」


「……昨日の若返りの話、あのことについて詳しく聞かせて。若返れることに不満は無いけど、それがたった一日だけだなんて聞いてない。いったいどういうことなの?」


「僕のことを完全に信じていないからだよ。説明が欲しいなら、これから僕が言うこと全てにおいて信じると約束してくれ」


「わかった、信じる」


「本当に?」


「本当だから早く説明してよ!」


「了解。それで君の若返りの件だけど、あれは僕がやったものじゃない。僕が君にあげた能力がやったものなんだ」


「能力?」


「君は昨日、生命からエネルギーを吸収して力を得る能力を手に入れたんだよ。だから君の若返りも、その力を利用したものなんだ。君は体の中に蓄えておいた生命エネルギーを美貌に使って、それで見た目が若くなっていたんだ。けど君は無意識のうちにエネルギーを消費していたみたいだから、たった一日で効果が切れてしまったようだね」


「じゃあ、今朝のあたしの見た目が良かったのは、あたしが誰かの生命エネルギーを吸収したからなの?」


「正確に言えば、それは僕のだ。おまけってやつだよ。けど僕はこれ以上サービスするつもりはないからな。後は自分で何とかしてくれ」


 音は考えた。つまり他人からエネルギーを吸収すれば、あの美しさを保てるということか。けど吸収された側のリスクがわからないし、何よりそれが可能な量が計り知れない。もし極限まで吸ってしまったら、あたしはその人を殺しちゃうかもしれない。


「とにかく」峰は言った。「まずは使いまくって慣れるといい。それと僕は生命から吸収できるって言ったけど、何も対象を人間にする必要はないんだよ。犬や猫でもいいし、そこら辺にある植物でもいい。もちろん人間からのほうが多く吸収できるけどね」


 確かに峰の言う通りだ、彼女は思った。せっかく授かった力のリスクを恐れて美貌を諦めるわけにはいかない。とりあえず今は誰かを見つけて実験をするしかないだろう。けれどそんな都合のいい人物なんて周りに──。


 その時、彼女はとある人物のことを思い出した。


───


 音がかつて交際していた男性は今、彼女が住んでいるマンションの部屋の前に立っていた。


 数十分前、突然彼に電話がかかった。着信元は音であり、彼女は自宅で話し合いをしたいとのむねを電話越しに伝えた。話し合いは必要ない、自分はもう別れるつもりである、男性がそう言うと、音は最後に別れ話をしたいとだけ答えた。彼女が言うには、これを最後に終わりにしたいとのことだった。時刻は午後十二時過ぎと遅い時間であったが、彼は渋々それに応えた。


 彼は部屋のインターホンを鳴らしたが、しばらく経っても中から音が出てくる気配はなかった。それに耐えかねた彼は取っ手を引っ張った。そこで思いもよらない出来事に直面し、彼は呆気に取られた。なんと、音の部屋のドアが施錠されていなかったのだ。たとえセキュリティが完備しているマンションに住んでいるとはいえ、彼女が鍵をかけずにいることは一度も無い。不審に思いながら彼が玄関に入ると、中には闇が広がっていた。どうやら部屋のどこにも電気が点けられていないらしく、まるで誰もいないかのようだった。


「いらっしゃい」


 突然突き当たりのリビングから声が聞こえ、男性は思わず体を震わせた。


「鍵を閉めてここに来て」


 よく耳をましてみると、それは音の声だった。言われた通りにして中に入ると、彼は暗い部屋の中で音がソファに座っているのが見えた。彼女はこちらに背を向けており、背もたれから頭だけが見えていた。


「なあ、音」彼は言った。「何度も言うが、俺はお前とよりを戻すつもりはないぞ」


「わかってるよそんなの。あたしはただ別れ話をしたかっただけだし」彼女はそこで口を閉ざし、しばらくしてから言った。「あたしはあんたに戻ってきてほしいとは思ってない。けどこれだけは訊かせて……あんたはこれまであたしを愛したことがあった? 口先だけじゃなく、心の底からあたしを愛してると思ったことがあった?」


 彼は頭を振った。


「俺はお前の体と金に興味があっただけで、そんなことは一度もない」


「そう……」


 音の返事に男性は引っかかった。本来なら彼の言葉を聞いて逆上したり失望をするはずなのだが、彼女の言葉には安堵あんどのような感情がはらんであったのだ。


「それが聞けて良かった」


 彼女は言うと突然立ち上がって男性のほうを振り返った。そんな彼女の姿を見て彼はぎょっとし、思わず目を見張った。リビングの電気が点いていない上に窓がカーテンで覆われていたため部屋は真っ暗であったが、それでも彼は音の格好がわかった。


 彼女は裸だった。彼女は抵抗も無く彼に近づき、それに見かねた彼は一歩後ろに引き下がった。何か様子がおかしい、彼は思った。表情がわからないまま近づいてくる彼女に、彼はより一層不気味さを覚えた。


「お願いがあるの」彼女は言った。「あたしを抱いてくれない?」


「何考えてやがる」


「最後の思い出くらいは楽しい思い出にしておきたいの。あたしはあんたを愛していた。たぶん、この先あんたのことを忘れることは絶対にないと思う。戻ってこなくてもいいから、せめて最後くらいはいい気持ちでいさせてよ」


 二人の距離は徐々に短くなっていき、ついに彼らは互いの表情がわかるほど近づいていた。音は彼の首に手を回し、そんな彼は険しい表情でそれを受け入れた。彼は音の目をじっと見つめ、それから恐怖を感じて彼女を突き飛ばそうと手を出した。


 偶然にもその手は彼女の胸に当たり、彼は思わずそれに反応してしまった。恐怖という感情は消え、代わりに性欲が彼を支配した。彼は音の後頭部に手を置いて抱き寄せ、彼女に接吻をしようとした。


 その瞬間、彼女は口を開けて大きく息を吸い始めた。


 彼女が何をしているのか、男性にはわからなかった。ただ一つわかっているのは、自身の口から煙のようなものが現れ、それを音が吸収しているということだけだった。


「何だよ、これ」彼はそう訊いたが、音は何も答えずに煙を吸うことだけに集中していた。


 そんな状況が数秒続いた後、男性は途端に体調が悪化していくのを感じた。冷や汗が垂れ、意識が朦朧もうろうとし、呼吸がおぼつかなくなり、彼はその場に倒れ込んでしまった。それでも彼と音の口は未だに煙で繋がったままであり、彼女は息を──もしくは別の何かを──吸い続けていた。


 きっとこいつが関係してるんだ、男性はそう思ったが、結局成す術も無く彼は意識を失ってしまった。それと同時に煙が途切れ、彼女は最後の一息を吸うと目を閉ざした。


 不思議と彼女の体には活力がみなぎっていた。同時に気分も高揚しており、彼女はしばらくそこに立って全身を巡る快楽にふけっていたが、足下で横になっている男性の存在を思い出して彼の首に手を触れた。


 冷たかった。しかし彼女は衝撃を受けるわけでもなく、後悔にさいなまれるわけでもなかった。確かに彼のことは愛していたし、死んでしまったことについては残念だった。しかし生命エネルギーを吸収したことによる快楽と比べれば、そんな感情など無に等しかった。


 音は男の頭を踏みつけ、鏡越しに自分の姿を見た。その姿は今朝よりも美しく、そして若かった。


 峰は偉大だ、彼女は思った。この力さえあれば、あたしはいつまでも美貌を保つことができる。ひょっとすれば永遠の命すらも手に入れることができるかもしれない。


 永遠の命。彼女は心の中で復唱した。なんていい響きなんだろう。もしそれが本当に叶うならば、あたしはいつまでも輝き続けることができる。ひょっとしたら無理な話じゃないかもしれない。だってあたしは人間を食べることで生きる、食物連鎖の頂点に立つ存在なんだから。


 彼女は興奮のあまり気が狂ったように笑い始め、そしてそこから遠い地で、峰は彼女を嘲笑あざわらうようにほくそ笑んだ。

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