二十三通目 来訪者
*
酷く異質な部屋だった。いつか菊花達が訪れた、殺風景な花冷の部屋にも似ている。部屋の中にはほとんど何もなく、中央には年季の入った小さなローテーブルだけが置いてある。その上に、ぽつんと置かれた写真立て。その写真に写るのは、花冷に似た金髪の青年。写真に映り慣れていないのか、カメラにむかって照れくさそうに微笑んでいる。これはただ何気ない幸福であった日常を切り取った、そんな一ページ。
その写真立てを、いつの間にか部屋にいた男が静かに手に取る。晩夏だ。晩夏は、その写真を愛おしそうにゆっくりと撫でる。大切なものに触れるように。それを決してなくさないように。この世の全てから守るように。
「僕は、お前のためならなんだってする。」
安心しろ。僕が世界を殺すから。
愛する心は。決意は。ゆっくりと
*
あの日から、何度も同じ夢を見る。最愛の人がいなくなる。その光景。飛び起きて、彼のいなくなった残酷な現実に打ちひしがれる。彼という光のなくなった
「あ⋯⋯菊花!起きたか。」
気を失っていた菊花が目を覚ますと、心配そうに顔を覗き込んでいた深緑が菊花を強く抱き締める。母さん⋯⋯。徐ろに、自然と菊花の口から溢れた言葉に、深緑は更に強く菊花を抱きしめた。
「ごめんな。」
深緑の弱々しい謝罪。菊花の不幸。その全てを拭えないこと。母として、
「何かあったらすぐ呼ぶんだぞ。
玄関の向こうはすっかり暗くなり、深緑が振り返り菊花に言う。深緑は昼間に倒れた菊花をオフィスの仮眠室へ運び看病していた。そしてやっと今、オフィスから菊花の自宅へ戻ってきたところだった。
玄関先に立つ菊花は、視線を下に逸らし、深緑の言葉に小さく頷いた。今にも泣き出しそうな、迷子の子供のようにも見えるその様子に深緑は、強く菊花を抱きしめた。そうして、優しく頭を撫でる。何度も、優しく。何時までそうしていたのか、道路を走る救急車のサイレンをきっかけに深緑はやっと菊花から離れる。
「今夜は⋯⋯よく眠るんだぞ。」
背を向けて、深緑が歩いていく。夜に映える深緑の長く白い髪を緩やかに目で追いながら、菊花は家の中に戻っていく。
菊花は自身の鞄から、書類の束を取り出す。それは、持ち帰ってきた書類仕事であり、眠ることを恐れた菊花の唯一の逃げ道だった。目の前の紙に没頭し、辛く苦しい
コンコン。コンコン。ふと、妙な音に気づく。菊花は顔を上げる。時計は深夜三時を指している。深緑が様子を見に来たのだろうか。寝ていないことがバレれば深緑は怒るだろう。だが、深緑にしては何かが妙だと思う。
コンコン。コンコン。音はまだ鳴り続けている。深緑は、菊花の家の合鍵を持っているのだ。つまり、ノックなんてしなくても静かに家の中に入り、寝ている菊花の寝顔を確認して勝手に帰ることができる。それをしないということは、別の人物か。菊花と仲の良い入梅や向暑の可能性はないだろう。彼等は、日頃瞬間移動の異能を活かして、勝手に家の中に出現する。ノックどころか、インターフォンを押したことすらない。
ならば、考えられるのは花冷か。時間は非常識だが、可能性はある。むしろ記憶喪失で一般常識の欠如している彼だからこそ、この非常識な時間に訪れてきた可能性はある。彼は酷く菊花を心配していたし、合鍵も瞬間移動も持っていない。
菊花はゆっくりと玄関に近づき、外にいる人物を確かめるために覗き穴を覗く。暗くてよくは見えないが、少なくとも金髪は見えない。菊花は目を凝らす。あれは、ネクタイ⋯⋯だろうか。菊花は眉を顰める。外にいるのは、覗き穴に顔が映らないほど身長の高い人物だろう。とすれば、歳末か。花冷も長身ではあるが、覗き穴に顔が映らないほどの長身ではない。
菊花が鍵に手をかけようとしたとき、ガチャリ。と鍵の開く音がした。菊花の心臓がざわりと揺れる。
だがしかし、最初のノックこそ不可解だが、歳末が深緑に合鍵を借りたのなら合点がいく。菊花は、開いた扉にぶつからないよう、半歩玄関から離れる。
⋯⋯本当に歳末か?彼には菊花の元を訪れる理由がない。菊花の中に疑問が浮かんだ時には、既に扉はゆっくりと開き始めていた。
「おや、菊花くん。いたのなら開けてくださいー。」
ゆっくりと開かれた扉の奥から現れたのは。綺麗に磨かれた革靴。シワ一つないスーツ。シックな印象を持たせる青いネクタイ。そうして何より、優しく間延びした喋り方をする声。
「なん⋯⋯っ、」
菊花の目は大きく見開かれ、口からは声にならない声が漏れる。だって、そんなはずないのに。目の前の人物は、誰がどう見ても拝啓だ。
いいや、それは些か言い過ぎか。目の前の人物には、菊花のよく知る拝啓とは違う点がある。それは、髪。それは瞳。目の前の
「菊花くんー?」
黒髪の拝啓が、深く考え込んでいた菊花を心配そうに覗き込む。菊花は咄嗟に自身の眼帯に触れる。まさか、ぼくに天地始粛を移したから?菊花の疑問に答えるかのように拝啓がニヤリと笑った。その微笑みは、菊花の知る拝啓のものではない。瞬間、菊花は弾かれたようにその男と距離をとる。
「誰だ。」
顔も声も口調も背恰好も全て拝啓の形をした、拝啓ではない存在。忌々しい。さっきまでの菊花は、泣き出してしまいそうだった。抱きしめてしまいそうだった。だがしかし、今は強い敵意の籠もった目で男を睨んでいる。
「拝啓、ですよー。菊花くん。わかりませんか。」
さっきの笑みが嘘のように、困ったように微笑むいつもの拝啓の顔。嘘だ。すぐに菊花が否定する。
「嘘じゃないですよ。少なくとも、この体は。
お前は⋯⋯!菊花は気づく。信じられない。有り得ない。これが悪い夢ならばよいのに。そう思いながらも、菊花には目の前の現実を受け入れるしかない。こいつの正体は⋯⋯!
「「天地始粛。」」
人々は、
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