醒めない夢になりますように
しろがね
第一話
両親が不仲だった。まあ、よくある話といえば、そう言えるし、そうも言えない。
人の仲の良し悪しの判断基準なんて曖昧で、人によるし、世界の切り取り方による。
けれども、私は、自分の両親は不仲だ。
小学生のころには、そう判断した。
不思議なことに私の両親は、高校生になった私が未だに彼らの不仲に気がついていない、と思っているらしい。あるいは、気がついていない、と思うようにしている。
私は、おそらく後者が正しいのだろうと思っている。
だって、人間というものは、見たいものを見たいように生きているのだ。
否定する人がいたとしても、どんな人にだってそういうところは少なからずある。
自分に優しくない世界に生きるなんて、そんな苦行ができる人がいたら是非紹介してほしいくらいだ。
まあ、それはさておいて。私の両親の話に戻ろう。
私の両親は、お互いに仲が悪いが、離婚してしまうと、お互いの生活が回らなくなる。それが彼らが一緒にいる理由だ。そんな身も蓋もないことを言うわけにもいかずに、彼らは言い訳をする。
――栞が高校を卒業するまでは。
小学五年の夏休みのある日曜日。遠くに引っ越してしまった友達と遊ぶ予定がなくなってしまい、家に帰ったときのことだ。
今、思えば、「また会おうね」なんて一年前の約束を鵜呑みにして、待ち合わせ場所に行った私が莫迦だったのだけれども――。
約束を破られて、少なからずショックを受けながら、帰宅した私は、家のドアを開けた瞬間、両親が言い合いをしていることに気がつき、息を潜めた。
そうしている内に、私は耳にしてしまったのだ。
――栞が高校を卒業するまでは。
と――。
言い合いをしていた両親が、そうお互いに、ビジネスライクに確認し合うのを。
私は、あまり両親に愛されていない。表面上は、私を甘やかしたり、どこかに連れて行ったりしてくれていた。
が、どこか胡散臭い。私に向ける笑顔が作りものめいているのだ。産んでしまった義務感から生じる愛。そんなところだろうか。
そんな空気感を、幼いときから、薄々感じとってはいたが、あの日、私の中で両親からの愛がただの打算で、彼らの壊れ切った仲を繋ぎ止めるための装置でしかないことを確信してしまった。
別に気にしていない。
そう言えば、嘘になるだろうか。うん、当時の私は、すごく気にしていた、と思う。
今、私がこうして両親のことを淡々、と語ることができるのは、ひとえに一人の存在のおかげだ。
まあ、その子との関係性も今や、歪だけれども。
お父さんと、お母さんがしばらく言い合いをし、やがて事態は収束に向かった。
静まり返った家にいつもとは、大分声色の違う二人の至って冷静な会話が響き始める。いつもだったら、牧歌的な童話でも読み聞かせるような調子で話す。しかし、今は、学校の先生たちが職員室で話しているときに出す声色に似ている。
――栞が高校を卒業するまでは、私たち、ちゃんと夫婦をやりましょう。
――ああ……。それが親としての……俺たちの責任だ。
玄関で息を潜めていた私は、そっと、家のドアを開け、外に出た。
そして、家から少し離れると、ある場所へと駆け出した。
一年ぶりに会うはずだった、友達と遊ぶ約束を反故にされたので、もう私には、向かう先は、そこしかなかった。
少しの迷いがあったけれども、私の心は、もう既にそこに向かっていた。
「ソラちゃん……」
私は、ここ最近の唯一の友達と言える女の子の名前を呟きながら走る。両親の思い出の残骸が生産され続ける工場から今は逃れたかった。あそこは、有毒ガスが発生していて、今、あそこにいたら、私は、きっと死んでしまう。
ソラちゃんの住む家に辿り着いた私は、自動じゃない昔ながらの押すタイプのドアを開く。
ドアノブに手をかけた瞬間、憂鬱な気分が大分マシになった。なにせ、親友(多分、このときは、私が勝手にそう思っていた)に会うのだ。
あ、決して、ふほーしんにゅう? というやつではない。ソラちゃんの家は本屋さんなのだ。
本屋さんとはいっても古書店だけれども。
ソラちゃんのおじいちゃんが本を集めすぎて、倉庫を借りても収まりきらないほどになってしまったことがきっかけでできたらしい。
そう、ソラちゃんが言っていた。
好きなことを仕事にしているのってすごく素敵だな、私もそんな大人になれたらいいな、とソラちゃんに聞いたときに思った。
店内に入ると、客の入店を知らせる鈴が鳴った。神社でお参りするときに聞こえてくる、鈴の音に少し似ている。鈴だって金属だから当たり前だけれども、鈴の音にも種類がある。私は、とりわけこのにぎやかな感じのする鈴の音が好きなのだ。古書店の雰囲気としてはマイナス要素かもしれないけれども。
「いらっしゃい」
おそらくこの町一のビブリオマニアであるソラちゃんのおじいちゃんが私をにこやかに出迎えてくれた。
古本の暖かみのある臭いを感じながら、店内を歩くと、彼女はいつもの棚の前――店の最奥の棚だ――で膝を折りたたんで本を読んでいた。長い黒髪が、邪魔で顔がよく見えない。けれども、たまに見える横顔が、物憂げでそこが、またいいのだ。
ソラちゃんは、いつも私には、到底理解できそうにない難しそうな本を読んでいる。ソラちゃんは、いつも『そうでもない』と言うけれども、私は、三行くらい読んでダメだった。後、何年かしたら私も読めるようになるだろうか。
数年後の私にこうご期待だ。
「今日は、何の用? 外遊びならしないわよ」
顔を上げずに本を読み続けながら、ソラちゃんが言う。こんな反応を見せられると、本当に好かれているのか怪しく思えてくるだろう。が、少し口元が綻んだのを私は、見逃さなかった。
「別に外で遊びたくて来たわけじゃないよ。ただ、ソラちゃんに会いたくて」
「そう」
私と同じ歳とは、とても思えない落ち着いた立ち振る舞い。
他の子とは違う特別な感じが好きだ。
こんなタイプの友達は、今までいなかった。学校中どこを探してもいない。
この見るからに特別な雰囲気を醸し出すソラちゃんとは、割と最近仲良くなったばかりだ。付き合いにして、二カ月――いや、三カ月といったところだ。
最初は、私のことを鬱陶しそうにしていたけれども、気がつけば、友達と言っていい関係になっていた(はず)。
「私は、このまま本を読むけど、それでもいいの?」
「うん、いいよ。私、ソラちゃんが本読んでるところカッコよくって好きだから」
「変な人ね」
静かに息を吐いて、ソラちゃんが、読んでいた本のページを繰る。
傍から見たら、やっぱり、仲良くなんて見えないだろうな。
私は、そんなことを考えながら、ソラちゃんを見つけたときのことを思い出そうと、記憶の再上映を行うことにした。
ソラちゃんが本を読んでいる姿を眺めるのは、好きだけれども、今、ぼーっとしていたら、嫌なことばかり考えてしまいそうだったため、楽しいことで頭の中を満たしていたかったのだ。
今年のクラスでは、今まで仲良かった子たちとはぐれて、私は、一人になり、ほぼ孤立と言っていい状態になっていた。小学生の交友関係の移り変わりは、とても激しいのだ。
様々な事情が重なり、うまく新しいクラスに馴染めずにいた私は、クラス替えがあって、一週間くらいが経ったころ、窓際でずっと本を読んでいる女の子を見つけた。
それが、ソラちゃんだ。
私が、見た限り学校で独りぼっちで過ごしているらしかった。どうしても、学校での話相手が欲しかった私は、ソラちゃんにしつこく話かけるようになった。
のだが――。
――学校で話しかけないで。
――本が読めないじゃない。
しつこく話かけてくる私にソラちゃんは、心底迷惑そうに私のことを見た。
今、思うと、退くべきだったが、私には、この子とならうまくやっていける、という確信があった。第一印象は最悪。性格も真逆なのに不思議なものだ。
初めに、ソラちゃんに拒否されてからしばらく経ったころ、授業参観があって、そこにやってきたソラちゃんのおじいちゃんがソラちゃんに話かけているのを見た。
ソラちゃんのおじいちゃんのことは、何度か見たことがあり、両親から古書店をやっている、と聞いていたため――本屋さんの子なんだ、と私は、したり顔をした。
情報を得た私は、今となっては、迷惑極まりなかったな、とは思うけれども、次なる行動に出た。我ながら、すごい行動力だぞ、私。
なんと。
お店(お家)なら話しかけてもいいでしょ? と屁理屈を言って、ソラちゃんのおじいちゃんが営む古書店に通い始めたのだ。それも、毎日。本も買わないし、読めない小学生の客。思い返せば、本当に迷惑極まりないな、こいつ。ソラちゃんのおじいちゃん、ごめんなさい。今度、ちゃんと本も買わせていただきます。
それは、さておき。
この迷惑極まりない上、しつこい私にさすがのソラちゃんも折れた、というか面倒になったのか、私が話しかけてくることを、容認してくれるようになった。
あれ?
もしかして、やっぱり、別に仲良くなってない?
いや、でも、ちょっと嬉しそうにしてたのさっき見たからね! ソラちゃん!
私が一人で、あわあわ、としながら、ソラちゃんのことを見ていると――、
「これこれ、せっかく友達が遊びに来てくれているのに、本ばかり読んで……」
ソラちゃんのおじいちゃんが、たくさんの本を抱えながらこちらにやってきた。
それを、よっこらせ、と掛け声を出しながら段ボールの中へと、全て一挙に詰め込んだ。どすっ、と本の重みを伝える鈍い音がした。
紙がまとまっただけのものでも、あれだけ、集まれば武器になりそうだなあ、と私は、感心してみる。思い返したら、私も毎日ランドセルに教科書をたくさん入れて歩いていたし、さほど驚くことでもないような気もした。小学生は、みな、毎日凶器を背に背負っているのだ。そのことの方がよほど衝撃的だった。
「別にいいでしょ」
と、こちら、ソラちゃんは、私が考えていたみたいなことは一切考えていなそうである。やっぱり、落ち着き払っている。
けれども。
私は、ソラちゃんは、色んな一面を持っていることを知っている。
学校で私だけが知っている。
「ごめんねえ……。こんなんだけど、仲良くしてくれると嬉しいよ。そうだ、おいしいカステラを常連さんから頂いたんだ。持ってくるからソラちゃんと上に行っててよ」
ソラちゃんのおじいちゃんは、私たちの返事を待たずに階段を上っていってしまった。
「全く……。人の話を聞かないんだから……」
ソラちゃんが呆れながら本を閉じて、のっそり、と起き上がる。背中まである長い黒髪が少し湿っている頬にくっついたのが見えた。それを邪魔そうに掻き分け、あるべき場所へと戻す。こうして見ていると、ソラちゃんは、私よりもずっと年上のお姉さんに見える。歳よりも幼く見えてしまう私は、たまに嫉妬してしまう。
「何よ? 人のことじーっと、見て」
「えっとね、ソラちゃんはやっぱりお姉ちゃんみたいだなーって」
「そ、そう?」
あ、満更でもないやつだな。これ。
照れ隠しに「早く上の部屋に行くわよ」と、気持ち早足に階段を上っていった。
クールぶっているけれども、褒められると少し歳相応の反応を見せてくれる。
可愛い。
嫉妬なんてするのが馬鹿みたいだ。
ちなみに、このパターンは何度も繰り返している。
「本、忘れてるよー!」
私が床に落ちていた本を拾い上げ、言うと。
ソラちゃんが体を翻し、顔をほんのり上気させながら、戻ってきた。
どたどたどた、とソラちゃんの足が階段を踏みしめる音が少し心地良い。
「意地悪……。黙って持ってきてくれればいいじゃない……」
「ごめんごめん」
その拗ねる顔を見たくて、わざとやったって言ったら怒るかな?
うん、きっと、怒る。
けれども、怒らず、いつか仕返ししてきそうだな、とも思う。
ああ、やっぱり、仲良くなれているな。
私は、そう実感しながら、本をソラちゃんに手渡した。
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