第35話 救世主来たりて笛を吹く

 土曜日。

 今日は朝からシュメッタリンのアルバイト。

 今はお昼時。

「すみません。コーヒーまだですか?」

「申し訳ございません。少々お待ちください!」

「お会計お願いします」

「はい。ただいま伺います!」

 接客に会計。

 皿洗い。

 片付け。

 現在、店の忙しさは混沌的で、俺は一人、右往左往。

「キッド! 早くコーヒー持ってけ! 冷めちまうぞ!」

 マスターからそうどなられて、俺は、「はいぃぃぃー!」と悲鳴めいた声を上げてカウンターに置かれたコーヒーを素早くお客の待つテーブルに運んだ。

 今日はなんて忙しいんだ。

 今までも十分忙しかったが、今日は未だかつてない忙しさを体験している。

 忙しいと言う文字は心をなくす、と書くらしい。

 今の忙しさはまさに心をなくすほどだ。

「キッド、皿洗い頼む。流しが地獄だ」

 厨房からマスターのSOS。

 マスターは、さっきまでカウンターでコーヒーを入れていたのに、もう厨房に入り仕事をしている。

「直ぐに行きます!」

 俺が厨房に入ろうとすると、「すみません。注文お願いします」

 お客からのオーダー。

「はい! はい! ただいま!」

 ああ。

 汗をかく暇もない。

 こんなに忙しいのには理由がある。

 昨日、SNSでこの店、シュメッタリンが紹介されたのだ。

 この普段の倍の客の入りは、それが原因に違いないと思う。

 事が発覚したのは、そう、昨日の……。




「あ」

 スマートフォンに見入っていた河瀬さんが声を漏らした。

 俺は河瀬さんの部屋で、河瀬さんお手製のおからクッキーを河瀬さんが入れた極上の紅茶と共に食していた。

 河瀬さんの作る物は何だっておいしい。

 無限に食べられる。

 今、この瞬間にもクッキーを食べようと開いていた大口を俺はそのまま動かした。

「どうしたんです?」

「いや、今、SNSを何気なく見ていたら、これ」

 そう言って河瀬さんは俺に自身のスマートフォンの画面を見せた。

 スマートフォンを覗いた俺は、はっとする。

「え。これって……」

 スマートフォンの画面に映っていたのは琥珀色の木のテーブルの上に載った白いコーヒーカップに注がれたコーヒーの写真だ。

 写真のコーヒーから立ち上る白い湯気からは温かみを感じられる。

 いや、注目するべきは、そんな所ではない。

 このコーヒーカップとテーブル。

 俺には非常になじみのあるものだった。

 これは、どう見ても、アルバイト先の喫茶店、シュメッタリンの物に見える。

 見間違えかと思ったが、間違いないと思う。

「これ、シュメッタリンのコーヒーですよね」

 俺が言うと、「はい」と河瀬さん。

「ほぇーっ」

 自分が働いている店がSNSに載っているなんて、なんだか不思議な気持ちになる。

「この写真の投稿者さん、凄いフォロワーさんがいる方みたいで。いいねとか沢山されてて、あ、投稿者さんがコメントもされてて。これです。読んでみてください」

 河瀬さんに言われるまま、コメントを読んでみる。

 コメントには、隠れ家的な喫茶店で最高においしいコーヒーを堪能中、と書かれていた。

 そのコメントにフォロワーからコメントが寄せられている。


 このお店、どこですか?

 私も最高においしいコーヒー飲んでみたいです!

 お店の場所を知りたいです。


 そんなコメントで溢れていた。

 投稿者はフォロワーのコメントに答えて店の場所と名前を教えていた。

「こ、こんな風にシュメッタリンが紹介されるなんて!」

「世間は狭いというか、びっくりです」

 びっくりしている割に静かに河瀬さんは言った。

「SNSに自分の店が載ってること、マスターは気が付いているんでしょうか?」

 俺の台詞に河瀬さんは「分からない」と首を振る。

「知らないとしたら、マスターに教えてあげた方が良いでしょうか?」

「うーん。どうだろう。こういうのに興味なさそうだからなんとも言えないよ」

「そうですか……。この投稿を見て、シュメッタリンに来る人なんていたりするんですかね?」

「さあね。でも、そうなったら、心配だな。小さな店でも、あいつと二人きりで切り盛りするのが大変なくらいに忙しいよね」

「はい」

「お客さんが増えたら、きっと忙しいなんて言葉じゃかたづけられなくなりそうだよね」

 河瀬さんが心配そうな顔で俺を見る。

「だ、大丈夫ですよ。俺はともかく、マスターはしっかりしてますから。それに店が今よりも繁盛したら俺の時給もアップするかも!」

 俺は河瀬さんに心配かけまいと笑って見せたのだった。




「このコーヒー、ほんとうにおいしい! コーヒー以外のメニューもおいしいし!」

「お店もレトロで雰囲気いいよね」

「あのマスターさん、渋くて素敵だよね!」

 はしゃぎながらテーブルに並んだ料理の写真を撮っているお客達を遠い目をして俺は眺めた。

 河瀬さんの不安は的中した。

 忙しいなんて言葉じゃ、本当にかたづけられない。

「キッド、ぼんやりしてないで仕事しろ! こっち来てカフェオレを一番テーブルに運べ!」

 その声にカウンターに振り返ると、今まで厨房にいたはずのマスターがカウンターで大変鋭い目つきでカフェオレを入れていた。

 急いでカウンターに向かうと入れ立てのコーヒーの良い香りが鼻に入った。

「さっさとテーブルに運べ。全く、今日は何だっていうんだ。いつもの倍は客が来てる」

 ぼやくマスター。

「あ、それは多分、SNSでこの店が紹介されたからですよ」

 俺の台詞にマスターが、「どういうことだ?」と眉をひそめる。

「マスター、やっぱり知らなかったんですね。昨日、SNSでこの店についての投稿があったんですよ。投稿した人、人気者みたいで。投稿を見た人たちが来てるんだと思います」

「なんだそれは」

 マスターは店内をうんざり気に見回した。

「そんなので、こんなに客が来るものなのか?」

「みたいですね。俺もびっくりしてますけど」

「はぁ……」

 マスターのため息は店の喧噪にかき消されるのであった。




 いつもなら、店が落ち着いて来ている時間。

 俺もマスターも休憩を入れる時間だ。

 しかし、今日はそうはいかない様だった。

 お客が途切れないのだ。

 休憩も出来ず、俺は疲労困憊だった。

 それはマスターもだ。

 マスターはため息のつきっぱなし。

 イライラのしっぱなしだ。

 そんなマスターに何度怒られたことか。

 いや、それはいつものことだ。

 さすがのマスターも疲れているんだろう。

 普段、ショーでもしているかのように優雅な動きで仕事をこなしているのに、いつもの余裕がマスターから消えていた。

 しかし、そんなマスターの心配なんてしていられない。

 俺は俺の仕事で手一杯だ。

 並んでいる会計の列を片付けたら、空いたテーブルを片付けて、空き待ちをしているお客を席に通して、オーダーも通さないといけない。

 それから、それから……。

 不意に、ぐぅっ、と俺のお腹が音を鳴らした。

 会計を待つ目の前のお客がきょとんとした顔で俺を見る。

 俺は恥ずかしさで下を向いた。

 何でこんな時にお腹が鳴るのか。

 でも俺は、お客の前で、みっともない音を鳴らした自分のお腹を憎むことは出来ない。

 だって、腹ぺこなんだ。

 休憩に入れていないということは今日の昼飯もまだだと言うことだ。

 シュメッタリンのバイトがある時は朝食は少なめに取っている。

 マスターの作るまかないをたらふく食べる為である。

 しかし、今日はそれが徒になった。

 俺の空腹は限界を超えていた。

 お腹がすいて、力が出ないくらいだ。

 疲れと空腹で死にそうだけど、でも、働かない訳にはいかない。

 とは建前で、出来ることなら今のこの瞬間に、秒で店から脱出したかった。

 しつこいようだけど時すでに疲労困憊だ。

 お会計が終わると直ぐに、俺は空いたテーブルを片付けにかかった。

 テーブルを拭いて、食器をお盆に載せて、さあ、厨房に! と歩き出した瞬間。

「うわっ!」

 俺は、自分の足に自分の足を絡ませてふらりと転びそうになる。

 危ない、危ない。

 何とか転ぶのをナイスバランスで踏みとどまった。

 でも……。

 ガチャン! と言う耳障りな音を聞いてぞっとした。

 恐る恐る、床を見るとお盆から滑り落ちたコーヒーカップが無残な姿をさらしていた。

 俺は呆然と立ち尽くした。

 マスターが「失礼しました」とお客に声をかけて、俺の方に飛んできた。

「キッド、何やってんだ!」

 マスターの声に俺の体はびくりと反応した。

 怒られる。

 そう思った。

「大丈夫か? 怪我はないか?」

 マスターが俺の顔をのぞき込む。

「え、え。あの……」

 言葉が続かない。

「ここは俺が片付けておいてやるから。厨房行って皿、洗ってこい。後、飲み物飲めよ。冷蔵庫にミネラルウォーター入ってるから」

「…………」

 何で怒られないんだろう。

 大事なカップを割ってしまったのに。

 忙しいのに失敗して、迷惑かけたのに。

 さっきまであんなに俺を怒鳴っていたのに。

 失敗した俺に、今度は何でそんな優しい声で話しかけるんですか?

 マスター。

 ああ。

 もしかしたら、マスターは俺に心底呆れて怒る気も失せているのかも知れない。

 そう思ったら凄く惨めな気分になった。

「おい、大丈夫か?」

 固まって動かない俺に向かってマスターが言う。

 お客達の視線が俺に注がれている。

「…………」

 帰りたい。

 もう、帰りたい。

「マスター、俺……」

 もう、情けなくて、みっともなくて、恥ずかしくて。

 今すぐに仕事を辞めたい。

 そんな言葉が口から出かかった時。

 店のドアベルが涼しい音を立てた。

 新しいお客か。

 マスターが店の入り口に目をやる。

 マスターは視線をそのままに眉間に皺を寄せた。

「何だ、お前」

 入り口を凝視したまま言うマスター。

「久しぶり」

 静かにマスターにそう応えたその声に反応して俺は入り口を見る。

 見ないわけにはいかない。

 だって、この声は。

「河瀬……さん……」

 店の入り口に、微笑みをたたえた河瀬さんの姿があった。





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【BL】二人暮らし万々歳! 円間 @tomoko4649

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