第31話 吸血鬼の取扱説明書、その二

「まあ、血を吸われている側だけじゃ無くて、吸血鬼の方も血を吸う事で性的な興奮を味わえるからイーブンな関係と言えるけどな」

 マスターはまたもやとんでもない事を言う。

 俺はまだまだ、性的興奮、なんて聞いて、そうなんですか、と流せる様な大人じゃあない。

 それってつまり……。

「か、河瀬さんも、その……俺の血を吸っている時に……その……そうなんでしょうか?」

 つい、訊ねてしまった。

 河瀬さんも俺と同じで行為中にドキドキしたり、甘く痺れたりしているのだろうか。

 そんな素振りは河瀬さんは一切見せない。

 マスターは鼻で笑い、「そんな事は本人に訊くもんだ」と言った。

 訊けるかっつーの!

 俺は何だか酷く落ち込んだ。




 休憩時間も終わり、俺は再び仕事を開始した。

 ゴールデンタイムが過ぎれば落ち着いた時間を楽しむために店に訪れるお客で大体席は埋まる。

 一杯のコーヒーで一時間以上、ぼんやりとテーブルに座るお客なんかもいたりするし、パソコンで何やら仕事をするお客もいる。

 本を読むお客。

 店に流れる音楽に耳を済ませながらリズムを刻みカフェラテを飲むお客。

 スマートフォンをずっと眺めたり、カウンター席に座りマスターと何か話をしたりするお客など、本当に色々だ。

 ここを憩いの場としている人の多さに驚かされる。

 俺も、ここの空気は気に入っている。

 マスターはキツイけど、嫌なやつでは無いし、それに、マスターに吸血鬼の事を色々聞けるのも嬉しい。

 俺は少しでも河瀬さんの事が知りたい。

 でも、吸血鬼である自分が嫌いだと言う河瀬さんに吸血鬼の事を聞くのははばかられた。

 だから、マスターに色々訊く。

 マスターは俺の質問には大体答えてくれる。

 例えば、吸血鬼は太陽の光も金の目を隠していれば大丈夫な事。

 ニンニクも聖水も大丈夫で苦手じゃ無い事。

 ニンニクに関しては個人の好みで嫌いなやつもいるかも知れないな、との事だった。

 十字架も怖く無いし、血を吸った人間を仲間に出来る、何て能力も無いらしい。

 俺が吸血鬼に関しての質問をすれば「君は小説の読み過ぎだ」と言われてしまう。

 こんな風に吸血鬼に関しての質問には答えてもらえるのだが、河瀬さん自身の事となるとそうはいかなかった。

 俺が河瀬さんのプライベートな事に対して質問すると、「そういうのは、他人じゃ無くて本人に訊く事だ」と言われてしまう。

 それが出来ないから困っているのだ。

 河瀬さん本人にプライベートな質問をするのもはばかられる。

 日常会話レベルの話しなら出来る。

 昨日は何を食べましたか?

 とか。

 好きな色は何ですか?

 とか。

 昨日はどんな事をして過ごしたんですか?

 とか、当たり障りのない事なら訊けるのだが、河瀬さんって彼女さんとかいた事あるんですか?

 とか。

 むしろ、今お付き合いしている人はいるんですか?

 何て事は口が裂けても言えないし、俺の血を吸う前はどうやって血を得ていたのか、とかも訊けない。

 余計な詮索をして河瀬さんにウザいと思われたり、万が一嫌われる様なことになる事が怖いのだ。

 マスターは血を吸う吸血鬼の方も性的な興奮を味わえる、と言った。

 俺も体は確実に河瀬さんに血を吸われる事でそうなっているけれども、河瀬さんの方も本当に同じなんだろうか。

 もし、そうなら、河瀬さんはどんな気持ちで俺の血を吸っているんだろうか。

 マスターは本人に訊けというが、しかし。

 

 そんな事だからこそ訊けない。


 俺ってどうしようもないのかも。


 そう思ってため息を吐き出していると、マスターが「一ノ瀬君、裏行って食器洗って来い」とカウンター側から言った。

 レジでぼんやりとしていたものだから言われているのか。

 俺は、「はい」と言うとマスターが裏と言う厨房へと急いだ。

 マスターが厨房に入っている時は一人で接客を任されている。

 それは本当に緊張する事だった。

 自分が本当に極度の人見知りなんだと思い知らされる。

 まず、お客との会話が続かないし、オーダーももたもたしてしまう。

 仕事に慣れれば大丈夫になるんだろうか。

 マスターが表に出ている時は、よく、こうして裏方に回って食器を洗う。

 その時間は何だかほっとできる時間だった。

 憩いのひと時と言っても良いくらいだ。

 俺は汚れた皿やグラスを洗う事に専念した。

 余計な事は考えずにひたすらやっていると結構早く洗い物が片付いた。

「ふぅっ」と一息入れて、上を見上げる。

 その行動は何となくの事だった。

「あれ?」

 視線の上の棚を俺は見つめる。

 棚の一番上に何やらある。

 どうも、写真らしい。

 俺の身長では背伸びをしても写真を覗くことは出来ない。

 でも、俺は写真が気になって思いっきりジャンプした。

 しかし、見えない。

「おい、洗い物は終ったか?」

 マスターの声が表から響く。

 俺は慌てて、「はい」と言うと厨房の外へと飛び出した。




 仕事終わり。

 つ、疲れた。

 しかし、帰っても大学の課題が待っている事を考えると更に疲れた。

 でも、それより何より、河瀬さんが夕食を作って待っていてくれている事を思い出してほっとする。

「マスター、お疲れ様です。あの、俺、もう帰りますから」

 そうマスターへの挨拶を済ませるとマスターは「今日はよく頑張ったな。ご褒美にコーヒーご馳走するから少し残れ」と言う。

 俺は喜んだ。

 この店のコーヒーがただで頂けるなんてツイている。

「是非、ごちそうになります」

 俺がそう言うと、マスターは、目じりに皺を作り、「そんなにこの店のコーヒーが好きか?」と訊いて来た。

 俺は元気良く、「はい」と答える。

 マスターは柔らかい目をして「君も可愛い所があるじゃないか」と俺の頭を撫でた。

 ごしごしと、犬の頭でも撫でる様だ。

 他人に頭を撫でられるのは慣れていないので照れ臭い。

 河瀬さんもよく俺の頭を撫でてくれるけど、やっぱり恥ずかしいし、照れくさいのだ。


 マスターのコーヒーを待つ間、俺はカウンターの指定席で河瀬さんにスマートフォンでメールを送っていた。


 帰り、少し遅くなります。


 と言う文書を書き上げて送信すると、返事は直ぐに返って来た。


 了解です。

 帰り、気を付けて下さいね。

 待ってます。


 待ってます、の一言ににやけてしまう。

「何、にやにやしてるんだ」

 マスターの声にはっとする。

「別ににやけてません」

 そう言うと鼻で笑われた。

「ほら、コーヒー。火傷するんじゃないぞ」

 マスターの手がカウンターにコーヒーカップを滑り込ませた。

 カップからは白い湯気が立ち上っている。

 苦くて甘い、良い香りが店内を包み込む。

「頂きます」

「ああ」

 マスターはウイスキーの瓶にそのまま口を付けて飲みだした。

 この前は血の様に赤い赤ワイン。

 店が終わった後はお酒を嗜むのがマスターの習わしらしい。

 熱々のコーヒーに息を吹きかけて冷ましながら、俺は、ふと、思い出した。

「あの、マスター」

「んんっ?」

 マスターがウイスキーの瓶を口から離して俺を見る。

 俺はほろ酔いのマスターへの言葉を続ける。

「厨房の棚の上に、写真があるみたいで。あれ、何の写真ですか?」

 そう訊ねた。

 そう言えば、と写真の事を思い出したのだ。

 マスターは、「ああ……」と言うと、「ちょっと待ってろ」と言って厨房に消えた。

 マスターは直ぐに戻って来た。

「ほら」

 マスターが埃を被った写真立てに収まった写真を俺に渡す。

 埃を気にしながら写真を見る。

「あっ!」

 声が出た。

 白黒の写真に写っているのは紛れもなくマスターでその隣にいるのは河瀬さんだった。






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