俺の魔法使い
boly
第1話 俺の魔法使いの魔法の言葉
それが音なのかなにかの気配なのか、わからなかった。放っておいたら止むかと思ったけれど、一向にその気配がない。ヴーッ、ヴーッ、ヴーッ、ヴーッ……あぁスマホが振動しているのだ。
『今から3時間後に羽田に着くから迎えに来てよ』だけで切れた。朝イチに。
『お前どこにいるんだよ』ってこっちが聞いてんのに答えもしないで。それはお願いなのか、命令なのか。だいたいお前はいつもそうやって、こんな朝イチに、と口の中でぶつぶつとこぼす。や、待てよ。朝イチっていうけど8時前は朝イチって言わないか。
数ヶ月ぶりに見たそいつは、目を疑うような真っ赤なスキニーとブーツで、「なんだ?その格好は」っつったら、向こうを出る時に部屋で一緒に寝てた女のをかっぱらってきたと抜かす。そんなことして相手が困るだろうがっつったら、「大丈夫。おれの革パン置いてきた」って。どこが大丈夫なのか1から10まで説明してほしい。大丈夫じゃなくて大迷惑の間違いだろ。
どっか行くあてがあんのかって聞いたら「アンタんとこ行くに決まってるっしょ」って。突然いなくなっといて、相変わらずなのにもほどがあり過ぎる。
「おれさぁ、Perfumeは好きなんだけど香水がキツい女って苦手っしょ?」
「知るか」
「そういえばPerfumeの3人って10歳とか9歳で知り合ってグループ組んだんだって。知ってた?」
「知らん」
「それで20年一緒にやってるってすごくね?」
「すごいんじゃねーの」
「でさ、向こうで一緒にいた女の香水がキツいのなんのって」
「へー」
「最初のうちはしばらくすれば慣れるかな〜なんて思ったけど、全然だめ」
「あっそ」
「やっぱいちばん落ち着くわ。この匂いが」
「車が臭うって言うなら降りろ」
「ちゃうちゃう」
「どこのしゃべり方だよ、それ」
「だってさぁ、おれがこの世でいちばん好きなのはアンタの匂いだから。それ以外はやっぱ、ね」
知ってるくせに、とほざきやがる。
俺の匂いがこの世でいちばん好き? じゃあなんで、そうやって鉄砲玉みたいになにも言わずに飛び出していくんだよ。それも一度や二度じゃないだろ、と恥ずかしげもなく食ってかかれるほど俺は若くない。
「けどまあなんていうか、定住できないっていうかあえて不安定を選ぶっていうか? 『やっぱそれ以外はダメ』を確認する旅を重ねずにいられない愚かな若者なわけよ、おれは」
「ほーほー」
「ほんと、見事に思い出しちゃうんだよね。アンタの舌と指と、分厚い胸と首筋の匂い」
よもやこの男が柄にもなく謝ってみせたり言い訳をこねたりして、どんなに俺の心が揺れたとしても、前だけを見て(もちろん左右後方も確認して)安全運転だと心の中で自分に言い聞かせる。
窓から入る風がこの男のふわりとした髪を後ろになびかせるのが目の端にある。目の端でじゃなく、ちゃんとまっすぐに見つめたい気もする。けど今そっちを向いたら、これまでさんざん『俺の何がいけなかったんだろう』と考えあぐねたり、『俺がこんなしょーもないバツイチ四十男だからあいつがいなくなるんだろうな』と頭を掻きむしったりして、目も当てられないぐらい悲惨だったここ数ヶ月の日々を一瞬でかき消す、こいつの魔法のような言葉にほだされかかっているおっさんのツラを見られてしまう。
「あのさあ」
「なんだよ」
「今日休み?」
「休みじゃなかったらこんな時間にこんなところにいねえ」
ふうぅ、よかったとシートに背中を預けたまま隣の男がこっちを見る。頬が緩んでいるのが横目でもわかる。
「帰ったらさ、いっぱいちょーだいよ。そのベロと唇、もうイヤだっつーぐらい」
……神様。俺という男はわりと我慢強いほうなんだと思う。
けど、これ以上は無理だ。
もちろん安全運転はキープする。だからハザードつけて路肩に車を停める。たぶんあと10分も運転すれば家に着く。けどその前に少しだけ、鉄砲玉みたいな恋人の唇に触れることを許してほしい。
俺の魔法使い boly @boly
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