十五、②
ぼくは居間のソファにどっかり座り、やれやれ、とため息交じりにこぼしつつ、一緒に戻ってきた杉原さんには悟られないように、こころの中で、終わったあああ、と、これ以上ないくらいの解放感に浸った。
それ以降は、これといった事件もなく時間が過ぎていった。
オルガさんが手入れを済ませて鎧を着直したので、後片付けのために寝室に戻ってみたら、確かに、彼女の格好は目に見えてきれいになり、気になる臭いもあんまりしなくなっていた。
狙いどおりにことが運んでくれて、ぼくはすっかりご満悦だった。お巡りさんたちと三人でお手洗いから汚水を捨てたり、雑巾色になった手ぬぐいを晒と一緒に洗濯機に放り込んで回したり、浴室のシャワーでたらいやバケツ、そして股引の汚れを洗い流したりと、普段なら堪えがたくてしかめっ面してしまうような作業も、鼻歌交じりにどんどんこなしていけた。あとから思えば、無茶な作戦を乗り切るうちに情緒がもみくちゃにされて、ちょっとおかしな気分になっていたのかもしれない。
昼過ぎ、ぼくはオルガさんにまたお粥と味噌汁を持っていったあと、十時に私服警官が届けてくれたほっとずっとの弁当(ぼくは唐揚げ弁当にした)を杉原さんと二人で黙食し、彼と見張りを交代して居間に戻ってきた西谷さんと一緒に、お昼のワイドショーを見はじめた。
彼女は弁当を食しながら、「あら、また北朝鮮からミサイルですか」と率先して話を振ってくれた。それからも、生まれや学歴、仕事のことや休日の過ごし方など、飲み会で初対面同士がするような絶妙に当たり障りない話題をぽんぽん投げかけたり喋ったりしてくれたので、彼女が食べ終えて廊下に出ていくまでの二、三十分間は、とてもきもちよく過ごせて助かった。杉原さんと過ごす重苦しい時間とは大違いである。
あとは、夕方までなにもすることがなかった。医者が来るという話だったけれど、いつになるかは聞いていないし、聞いたところでどうしようもない。
そんな中、ToTubeやheXunへの投稿に反響があったかどうかが、目下、一番の気がかりだった。どうにかして、再びタブレットを起動させて画面を見ることができないか、考えはしたものの、なにも思いつかないまま、朝や昼と同じ話題を流してばかりの午後のワイドショーをBGMに、
意識がとろけてきたり、ふとした弾みに覚めたりを何度か繰り返していたら、ドアホンの呼び出し音が鳴った。まどろみをぶち壊されたぼくは、また警察の物資かと思いながら、渋々立ち上がった。
「はい、はい」
モニターの画面に近づくのと同時に、血相を変えた西谷さんが居間に飛び込んできて、「すみません」と小声で断り、ぼくの前に割り込んだ。どうしたんだろう、とのんきに脇からのぞき込んでみると、画面に映っていたのは、お
西谷さんがモニターの通話ボタンを押しながら、緊張した声で話しかける。
「お疲れ様です」
「お疲れ
モニターのスピーカーから、間延びした子どもの声が返ってきた。
そう、子どもだった。長い黒髪を左右で束ねて垂らし、紺のブレザーに
隣には、図体が大きくてどっしりした風格の、スーツを着た年配男性が付き添っていた。白髪交じり、角張った顔で、にこにこ、というよりは苦笑いをしている。
「あの、」明らかに動揺している西谷さん。「到着は六時過ぎと聞いていたんですが……」
「あたしもそうしたかったんですけどねえ、急かされたんですよお、上に」語尾を投げつけるようにして、女の子が言った。「おかげさまで、学校生活滅茶苦茶っすわ。ま、いまにはじまった話じゃないけど。――とにかく、野々タカシをこっちによこしてください」
「あ、ぼく?」
急にご指名されたので、自分を指さしながら西谷さんの方を向いたところ、彼女は黙って頷いた。行ってください、ということらしい。ぼくは素直に廊下に出て、見張りを続ける杉原さんの前を通り過ぎ、寝室の出入り口の近くまで歩み寄ってきたオルガさんと視線を交わした。
「気をつけろ、ノノ」
彼女は真剣な顔で、ぼくに警告してくれた。
「いま声が聞こえた方から、魔の気配がする。それに、この建物の外にもいる」
「この世界には、魔物はいませんよ。でも、」
でも、オルガさんの感覚は正しいと思った。いろいろ鈍いぼくでも分かる。この急転直下の異様な来訪者が意味するところは、ひとつしか考えられない。「用心します」
ぼくはたたきでサンダルを履き、オートロックを解除すると、ひと呼吸置いて、玄関ドアを開けた。不機嫌な女の子と付き添いの大男に、生で相対する。とりあえず会釈。
「どうも……」
「あんたが野々さん?」
「そうです」
正直に返事すると、女の子はふん、と鼻で笑うだけして、ぼくにこう言った。
「いやあ、やってくれましたなあ、監督」
オルガさんの存在を全世界に漏らしたことが、警察にばれたのだ。
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