十一、

 はるか昔、アイドルはものとして語られたこともあったらしいけれど、言うまでもなく、人類はみな、平等に尿意便意を催すのである。お風呂に入れないことより、こっちの方がよっぽど重要なのに、ぼくの頭の中には、「オルガさんトイレに行けない問題」のオの字もなかった。いかに普段、ひとのことを考えていないかを、またしてもはっきり自覚させられて、正直、とてもがっかりした。

 たぶん、警察は早い段階でこの問題に気づいていて、朝、ホームセンターかどこかが開くタイミングで、速やかに非常用のトイレを調達してきたのだろう。流石というか、それが当たり前なんだと思う。

 西谷さんに言われて、お手洗いの棚からトイレットペーパーを一個取ってきたぼくは、完成したダンボールトイレの横にそれを添えた。西谷さんは、トイレの中に、「凝固剤」と書かれた小袋から粉末を投入したあと、身振り手振りを交えつつ、オルガさんへ説明をはじめた。

「準備ができましたので、ここにこう座って、用を足してください。この白いものは、お尻を拭く薄い紙です。必要な分だけ巻き取って、使ったら、同じくこの中に捨ててください。用を足し終わったら、この黒い袋を取り外して、こんなふうに、口を硬く縛ってください」

「分かった」オルガさんがしっかり頷く。

「それから、念のための確認ですけど、用を足すとき、鎧は脱ぎますよね?」

「ああ。このままでは、流石に無理だ」

「なら良いんです。オルガさんの鎧はとても重いようなので、着たまま座ったら、便器が潰れちゃうかもしれないと思ったんですけど、大丈夫そうですね」

 そう言うと、西谷さんは梱包こんぽう用の箱や細かな付属品を手早くまとめて抱え上げ、寝室の出入り口に歩み寄って、しばらく開けっぱなしだったドアのノブに手をかけた。

「じゃあ、いったんドアを閉めますね。野々さんも、部屋の外に出てください」

「え、あっ、はい」

「オルガさんは、ひととおり済んだら、ドア越しに私へ声をかけてください。あなたの方からドアに近づくと、が作動するかもしれないので、私がドアを開けます」

「分かった。そうするよ」

 そのあと、そそくさとぼくが退出するのを待って、西谷さんがあっけなく、寝室のドアを閉めた。そして、ぼくに向かって、

「あの、大変申し訳ないんですが、これを、ごみとして片付けてもらえないでしょうか」

 と、ダンボールトイレの梱包箱を差し出してきた。

 まあ、それくらいどうということはないので、素直に「分かりました」と受け取ってから、ぼくはそれとなく、彼女にを入れてみた。

「素朴な疑問なんですけど……、見張るのに、ドアって、閉めても良いものなんですか?」

「トイレのときは、仕方ないです」西谷さんは微笑んだ。「私たちが見張りをしているのは、オルガさんの状況を本部に逐一報告するため、ということもありますけど、一番の目的は、オルガさんの情報が外部に漏れないように、この部屋に余計なひとを入れないため、ということですから。トイレの最中まで監視するのは、いくらなんでも行き過ぎです」

「なるほど」それに、想像してみると、全体的になんか変態だ。「ええと、そうしたら、オルガさんにからだ拭いてもらうときも、ドアは閉めてもらえるんですか?」

「そのつもりです。時間が長くなるようだったら、たまに私がドアを開けて、様子を確認するくらいで良いと考えています」

「ああ、それなら良かった」ぼくは、変に勘ぐられることのないよう、つとめて軽い口調で返した。「ほら、オルガさんもですけど、女のひとなので、ドア開けっぱなしだと可哀想かなあ、って思ってたんですよ」

「その辺はちゃんと配慮しますので、安心してください」

 これで、なんとか、の前提条件はクリアできることが分かった。なのでぼくは、表向き、穏便に「分かりました」と言いながら、腹のうちで予定どおり、を決行する決心をした。

「オルガさんがトイレを済ませたら、すぐにお湯を運びますか?」

 と西谷さんが聞いてきたので、善は急げと思って、「そうですね。そうしましょう」と打ち合わせたあと、ただちに洗面所へ駆けこんだ。そして、湯沸かし器の温度設定をちょっと上げてから、浴室で、湯船に栓をして蛇口を全開にした。

 湯船へたっぷりのお湯を張るのに、いつも大体、十五分くらいかかる。はじめ、蛇口から勢いよくお湯が出てくるのを、ついぼんやりと眺めていたら、湯船の三分の一ほどお湯がたまったあたりで、オルガさんと西谷さんのやりとりが聞こえてきた。トイレが終わったのだ。

 廊下に戻ってみると、寝室の中で、オルガさんがずいぶん神妙な感じで、口の縛られた黒い袋を西谷さんへ渡すところだった。

「これは……」オルガさんが再び苦笑いをして、ひと言、「なぜだろう、かなり恥ずかしい」

「分かります。それが普通です」と西谷さん。「慣れるまでの辛抱ですよ」

「その袋は、このあと、どうするんだ?」

「野々さんにお願いして、ごみとして処分してもらおうかと」

「え?」そんな話はじめて聞いたので、あからさまに戸惑ってしまった。「ぼくが?」

「大丈夫です。専用の凝固剤を入れましたから、袋の中のものは全部固まって、除菌消臭もされています。可燃ごみとして出せますので、ごみ袋を用意してもらって、そこに、収集日までの間、まとめて入れておいていただけるとありがたいんですが」

「はあ……」

 話は分かったけれど、ほかのひと、しかも女性のに手をつけるのには、結構抵抗があった。でも、オルガさんが恥を忍んで? 託してきたのだ、あんまり邪険にしたくもなかった。なので、結局ぼくは、仕方なく、

「じゃあ、その、そうします」

 とお願いを聞き入れた。とりあえず、カウンターキッチンの下から市の指定ごみ袋を一枚持ってきて、広げたそれの中に、ぽすん、と落としてもらうかたちで、黒い袋を引き継いだ。

「このごみ袋は、お手洗いにしまっておいて、必要になったら出す感じでも良いですか?」

「それで結構です。よろしくお願いします」

「すまないな、ノノ。こんなことまでさせて……」

「ああいえ、全然問題ないです、このくらい」

 謝るオルガさんへ、なるべく平気な感じをアピールしたぼくは、速攻でお手洗いにごみ袋を置いてきて、とっとと次の話題に移った。

「――それじゃあ、オルガさんにはせっかくしてもらったので、これからもう一段階、すっきりしてもらいましょうか」

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