十、②

 洗面所で(すっかり忘れていた)朝の歯磨きをして、素印良品すじるしりょうひんで買った自己主張がなくてお気に入りの私服に着替えたぼくは、居間に戻って、杉原さんに自分のスマホを返してもらった。時刻は七時四十五分、いよいよ、会社の上司に、前代未聞の家宅捜索休みを申告し、社会的に空気のような存在だった自分とお別れする時間がやってきたのだ。

 ただ、くだんの方がよっぽど無茶だったので、こころの中でのお別れセレモニー、要するに緊張や感傷は、全然盛り上がらなかった。むしろ、こんなことさっさと済ませて、ひとつでも余計な気がかりを減らしたいという思いが頭の大半を占めていた。

 なので、ぼくはスマホを手にすると、速攻、直属の上司である保立ほたて係長へ電話をかけた。

 いきなり結論を言えば、係長は、ぼくの休みの申告を、

「なるほどね。分かったよ」

 と予想に反し、実にあっけなく受け入れてくれた。係長は面倒見が良くて良いひとなんだけれど、なんというか、野次馬根性のようなものをお持ちなので、てっきり、家宅捜索なんてことばを出したら、テンション爆上げで根掘り葉掘り聞いてくるだろうとばかり思っていた。

「どうせ、野々くんの身に覚えのないことなんだろ? それなら正直に、聞かれたことに答えてれば、そのうち解放されるだろ。警察もそんな、馬鹿じゃあるまいし」

 おそらく、ぼくの日頃の行いが功を奏したのだろう、存在感はなくとも、信用はしてくれているみたいだった。空気だけに。

「あの、必要だったら警察の方が電話を代わって、説明してくれるらしいんですが……」

「や、必要ないよ」と言ってから、係長は一転、「あ、やっぱおもしろそうだから代わって」

 ということで、杉原さんにスマホを渡して、詳しい説明をお願いした。すると彼は開口一番、

「お電話代わりました。北海道警察本部、サイバー犯罪対策課の杉原と申します」

 思いっきり身分を詐称した。仕方のないこととは言え、取り締まる側のお巡りさんが、堂々と特殊詐欺まがいのことをするのを見ると、ちょっと引く。

 それから杉原さんは、ぼくが「不正アクセス禁止法違反」なる疑いで家宅捜索を受けていること、それ以上の容疑の内容は話せないこと、家宅捜索と事情聴取の結果を踏まえて、容疑が固まればぼくを逮捕する可能性があるが、どの程度の可能性かは話せないこと――といった、完全な嘘八百を、ぼくに話すときとまったく変わらない冷静な口調で係長へ話した。

 係長は、それで納得というか、充分満足したらしい。杉原さんは、「はい、分かりました。よろしくお願いします。失礼します」と言って、ぼくにスマホを戻すことなく、電話を切ってしまった。そして、ぼくに向かって、

「無実が証明されて、出勤できるようになったら連絡するように、野々さんへ伝えて欲しいとのことでした」と無表情で報告してきた。

「ああ……、はい」警察に伝言を頼んでみちゃうところが、いかにも係長っぽいなと思った。

 いずれにせよ、これでこの日の第一ラウンドは無事通過した。ぼくにはまだがあるので、とても気をゆるめるどころじゃなかったけれど、それでもやっぱり、肩の荷が軽くなって、目の前のもやもやが少し晴れたような気になれた。

 そのあとは、オルガさんの使った食器を洗うことくらいしかすることがなかったので、しばらくの間、杉原さんと一緒にテレビを見ていた。民放にチャンネルを変えて、良い歳した男二人、二時間近くワイドショーを鑑賞したのだけれど、これがかなりつらかった。

 ひと嫌いなぼくは、雑談が超苦手なのだ。

 ここまでのやりとりからは全然そうは見えないかもしれないけれど、実際は、ただ必要に迫られてぺちゃくちゃ喋っていただけだ。どうでも良いときに、どうでも良い話をわざわざ自分から発信する意義が全然分からないので、そもそも億劫おっくうだし、話すネタの備えもなければ、話を弾ませる能力もない。

 だから、仕事中、聞き耳を立てれば、あちこちでいろんなひとが挨拶がてら軽く談笑しているのだけれど、なんでそんなに話すのかなあ、なんでそんなに進んで繋がるのかなあ、といつも不思議でならなかった。

 だけど、ここに来て、ついに雑談の重要性を痛感する羽目になった。雑談がないと、というより、ひととひとは繋がらないと、お互いがただのになってしまうのだ。ぼくは振られた話には反応するので、会社では自ずとみんなと繋がって、なんの違和感もなく過ごしていられたけれど、うちではそうはいかない。ぼくが自ら客人に話しかけなければ、どうにも繋がらない場面がある。それがまさにこのときだった。

 一回だけ、頑張って、「ああ、また北朝鮮がミサイル撃ったんですね」と杉原さんに振ってはみたのだ。けれど、彼はそれに対してひと言も返してこないものだから、きもちが簡単にへし折れてしまって、それ以上、彼に話しかけるのを諦めたのだった。おかげで、得体の知れないでっかいのことを、なるべく気にしないように、ひたすら自分へ言い聞かせなければいけなかった。

 なので、十時ごろになって、ドアホンの呼び出し音が鳴ったときは、ああ、やっとこの異様な空気から解放される……と、ものすごく感激した。というか、どうして杉原さんは西谷さんのように廊下に出て休憩してくれなかったのだろう。テレビが好きなの?

 前の日の西谷さん同様、杉原さんも、モニター越しに私服警官と短くことばを交わしたあと、五分後に、玄関へ物資を取りに行った。ややあって居間に戻ってきた彼は、白い弁当パック数個と、お茶やジュースのペットボトル数本を、レジ袋に入れたまま、どさっと無造作にローテーブルへ置いた。

「これが、私たちと野々さんの、昼食と夕食です。弁当も飲み物も全部種類が違うので、好きなものを二つずつ取ってください」

「はあ」それはそうと、ぼくには待ちかねていたものが。「あの、頼んだ買い物は……」

「全部揃いました。使うのはオルガさんの部屋なので、そこにまとめて置いてあります。それと、野々さんへの謝礼金ですが、最終的に、残金が六百六十円になりました。買ったもののレシートと一緒に、こちらの封筒に入ってますので、渡します」

「どうも、ありがとうございます」

 普通の茶封筒をうやうやしく受け取って、早速廊下に出たぼくは、見張り役の西谷さんが、廊下ではなく、寝室の中でなにか作業しているのを目にした。オルガさんがそれを、立って腕を組んで、興味深そうに……というより、妙にそわそわした感じで眺めている。

 組み立ての必要なものをお願いしたつもりはなかったので、あれ? と思いながらぼくも寝室に入った。ぼくの頼んだ、青い品々――ブルーシート、机くらい場所を取るプラスチックのたらい、それに大きめのバケツ三個――は、ちゃんと、クローゼットの真ん前で整然と重ねられていた。そして、西谷さんはというと、なにやらちんまりしたダンボールの囲いを立てて、そこに、よいしょ、と真っ黒いビニール袋をかぶせるところだった。

「ああ、ノノ」オルガさんがこっちを向いて、苦笑いを浮かべた。「いやあ、では、罪人のことを、こんなに丁重に扱ってくれるんだな」

「ええと……、その、ごみ箱みたいなので、オルガさんの扱いが良くなるってことですか?」

「うん。あるのとないのとでは、大違いだ」

 彼女はそう強調してから、あくまでもさわやかに、ぼくにこう打ち明けた。

「実は、とうとう、催してしまったんだ」

「もよおしてしまった」

 ぼくが復唱するのと同時に、西谷さんが、水色をしたコの字型の板を、ビニール袋の上からダンボールに載せた。その全体像をしばらく見て、ようやくぼくは、はっと気がついた。

 これ、トイレだ!

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