四、

 こうしてぼくは、なんの罪もないのに、お巡りさんの見張りつきで、外出禁止とあいなった。外部との連絡は一切認められないということで、自分のスマートフォンやノートパソコンも預けるように言われて、女性のお巡りさんへ渋々渡した。

「明日、会社に休みの連絡を入れなきゃいけないんですけど、それはどうするんですか?」

 と聞くと、西谷にしやと名乗った女性のお巡りさんは、ごついお巡りさん(あちらは杉原すぎはらというらしい)よりはるかに穏便な調子で、こう答えた。

「朝だけスマートフォンをお返ししますので、会社の方に電話をして、『とある事件の重要参考人としていま家宅捜索を受けていて、事情聴取もされる予定なので、今日は仕事に出られない』とお伝えください。もし疑われるようなら、私たちが電話を代わって説明しますので」

「ほとんど容疑者じゃないですか」

 思わず失笑してしまった。これまで、社内で頑張って? 築きあげてきた空気のような存在感が、完全に水の泡だ。「もっとこう、ましなうそはないんですか?」

「これが一番、ましな嘘だと思います」ぼくに合わせて西谷さんも笑った。「後日、まったくの無関係だということが判明した、ということにしますので、野々さんにとっては、災難だったね、という感じで丸くおさまるんじゃないかと」

 ぼくは、なんかもう、いろいろと諦めた。

 いち小市民がなにをぶつくさ言ったとしても、結局、公権力の方が強くて賢くて、素直に言うことを聞くよりほかに、やりようがないということがよく分かったからだ。というか、気づいたら時刻は十一時を回っていて、正直、これ以上無駄な抵抗をする気力も残っていなかった。

 きもちが沈んでくると、途端にお腹が空いてきた。お昼ご飯のあとなにも食べていないので当たり前なのだけれど、なんだか余計にむなしくなる。

 コンビニ弁当の入ったレジ袋とかばんが玄関の上がり口に置きっぱなしなのを思い出したので、取りに行くと、ごついお巡りさん、つまり杉原さんが寝室の出入り口の脇で直立していた。

 一度、ちらりと、目の前で恐縮しながら荷物を回収していくぼくのことを見たけれど、すぐ正面に視線を戻した。さっきまで、半分焼け落ちて目隠しにならなくなっていた寝室のカーテンを居間のカーテンと手際よく取り替えていたけれど、いまは完全にオルガさん見張りモードに入っているようだ。

 居間に戻ったぼくは、いつもの流れで朝の分のコンビニ弁当をカウンターキッチンの奥の冷蔵庫にしまい、その上に載せている電子レンジへ夜の分のコンビニ弁当を突っ込んで、さてチンしよう……とボタンを押しかけて、はたと我に返った。

 ひとりでひと息入れようとしている場合じゃなかった。いま、うちには、不本意とはいえ客人が三人もいるのに、全然対応できていないのだ。

 オルガさんには京極の名水と寝室を提供したけれど、自ら進んでやったわけじゃないし、お巡りさんたちに至っては、いくら気に食わないからって、お茶のひとつも出そうともしていない。こういうとき、さっと気の利いた行動をできないところが、ひと嫌いなぼくの駄目な部分である。

 とりあえず、西谷さんをカウンターキッチンとソファの間に黙って立たせているのがとても気まずかったので、急ぎ、部屋の奥にある、パソコン用の机のワーキングチェアを引っ張り出してきて、そこに座ってくださいと促した。彼女は変に遠慮することもなく、「ああ、ありがとうございます」と素直に腰かけてくれた。

 次はお茶……お茶もコーヒーも、ちょっとしたお菓子もこのうちにはない。そもそも来客を想定していないし、ぼく自身もあんまりたしままないのだ。そこで、ソファの前のローテーブルに置いたままの京極の名水がたまたま残り二本だったので、西谷さんと杉原さんに一本ずつ、水ですが良かったら、と腰低く差し出して回った。

 けれど、これは二人とも「ああ、大丈夫です」と断ってきた。せっかく急ごしらえしたおもてなしのこころが無駄になったので、内心へこんでいると、杉原さんがこうつけ加えた。

「もうじき、物資が届くはずですから」

「ぶっし」ぼくは、先ほどのやりとりを思い出した。「こんな夜中にもう届くんですか?」

「ええ。オルガさんに最低限の栄養補給が必要だと、救急隊から引き継いだので、私たちの夜食類と合わせて、署に買い出しを頼んでます。たぶん、二十四時間営業のコンビニかドラッグストアで調達してくるでしょう。届き次第、オルガさん用の飲食物を渡しますんで、こちらから指示があり次第、調理してください。よろしくお願いします」

「……はい」

 ぼくは仕方なく頷いて、すごすご居間に帰ってきた。やることはやった、はずなので、お先に夕ご飯を食べることにして、電子レンジのボタンを押した。ごうごううなりだしたレンジの中、照らされた弁当をぼんやり眺めていたら、ピーンポーン、と、ドアホンの呼び出し音がうちじゅうに鳴り響いた。

「なんだこの音は!」オルガさんの鋭い声がこっちまで聞こえてくる。「魔物の襲来か!」

「玄関の呼び鈴です」冷静に説明する杉原さんの声が続く。

「そうなのか。急に騒いで悪かった」

「私が対応します」

 西谷さんが立ち上がり、素早くドアホンのモニターに駆け寄った。スーツ姿の男性がぼんやり映っている小さな画面に向かって、「お疲れ様です。手帳を見せてください」と指示する。

「分かりました」

 相手も淡々と応じ、テレビドラマとかでよく見る縦開きの警察手帳の、顔写真つき身分証を見せてきた。西谷さんは手元のメモとそれを見比べたあと、

「ありがとうございます。お願いしたものは全てそろいましたか?」

「揃いました。全部、ドアの脇に置いておきます」

「ありがとうございます。では、五分以内にここから退去してください」

「分かりました。失礼します」

 ちょうどそこで、電子レンジがあたため終わった。中から弁当を取りだしたぼくは、ついでと思って、「あ、じゃあ、物資、取ってきますね」と居間を出ようとした。ところが、

「駄目です!」

 温厚なはずの西谷さんから、存外きつく止められてしまった。ちょっとびくつく。

「え、玄関から、ちょっと出るだけでも?」

「駄目です」

 真顔で繰り返す西谷さん。「五分経って、外にだれもいないことを確認してから、私が取りに行きます。野々さんは、うちの中から、一歩も出ないでください」

「……はい、すいません」

 ぼくは叱られたので謝って、すごすごソファに腰かけた。そして、ひとり静かにローテーブルに、あたたまった弁当と袋入りの割り箸、それと、一緒に買った紙パックの野菜ジュースを並べたあと、手を合わせて、意気消沈したまま夕ご飯にありついた。

 弁当はとり天丼。たれを絡めた鶏の天ぷらと刻み海苔のりの載った白飯しろめし、ただそれだけのものなのだけれど、いつもと変わらぬ甘塩っぱい天ぷらが、このときはなんだかぼくを慰めてくれているような気がして、心身にほんのりみた。

 ひととおり平らげて、また手を合わせたあと、カウンターキッチンで弁当殻をすすいでいたら、ようやく西谷さんが腰を上げて、ドアホンのモニターで外を確かめてから、居間を出ていった。玄関ドアを開け閉めする音のあと、大きなレジ袋を引っ提げて戻ってきた彼女は、その中から、五百ミリリットルの経口補水液を二本、レトルトパウチの白粥しろがゆと、紙カップのインスタント味噌汁を三つずつ、「よいしょ」とローテーブルに置いた。

「これで、オルガさんの食料一日分になります」手で示してみせる西谷さん。「救急隊のアドバイスどおり、まずは、経口補水液を一杯、あたためてもらえますか?」

「はい」腹が満たされたぼくは、なぎのようなきもちになって、事務的に応答した。「ああ、そうだ、その前に、さっきの部屋にコップを置いたままなので、取りに行って良いですか?」

「構いません」

 ということで、ぼくは杉原さんに会釈してから、寝室の様子をうかがった。中ではオルガさんが、脚つきマットレスに腰かけたまま、目を閉じてうつむいていた。精神統一か居眠りかと聞かれたら、たぶん後者の方だろう、そりゃあお疲れだよなと思って、抜き足差し足で足を踏み入れた途端、

「ノノか」彼女がうつむいたままで、ぼくの進入を言い当てた。「どうした?」

「あ、あの、」ぼくは、なぜだか後ろめたさを覚えつつ、「コップを取りに……」

「コップ……? ああ、」

 オルガさんは顔を上げて立ち上がると、寝室奥のミニストーブの上に載っていたガラスのコップを持ってきてくれた。「これか? 床に転がっていたから、そこに置いておいたんだ」

「これです。ありがとうございます。あ、」コップを受け取って、すぐに残念なことに気づいた。「ぼくが蹴っ飛ばしたからだ、がっつりひびが入っちゃってる。別のを持ってきますね」

「なにか、ほかの飲み物を持ってきてくれるのか?」期待たっぷりの表情で、オルガさんが聞いてくる。「キュウキュウタイが別れ際に言っていたが、このまま水だけ飲んでいたら、わたしは、死んでしまうそうだ! うん、確かに、死ぬな!」

「まあ、そう、ですね……」底抜けに明るく言われても、反応に困る。

「なあに、本当に死ぬとは思っちゃいないさ。わたしを死なせないように、あの水のような素晴らしいものが、これから続々と出てくるんだろう? さあ、今度は、なにをくれるんだ?」

「ええと……、経口補水液、というものです。分かりますか?」

「分からない!」

 ずいぶん前のめりな彼女に圧倒されつつ、ぼくは説明した。

「あー……、脱水症状、って言って、からだに必要な水分や塩分? がすっからかんになって、からだが弱っているときに飲むと良い、って言われている飲み物です」

「なるほど。わたし自身は、からだが弱っている気はしないが、いずれにせよ、気遣ってくれているのだな。ありがたい。――それで、それは、うまいのか?」

「うーん」よく考えたら、自分で飲んだことなかった。「ひとによるかと」

「そうか。ものは試しだな……」

 腕を組み、納得したように小さく頷いてから、オルガさんは言った。「飲むのが楽しみになってきた。是非持ってきてくれ」

「分かりました」

 ぼくは居間に戻ると、カウンターキッチンに入って、用意した別のコップに、五百ミリリットルのボトルから、なみなみと経口補水液を注いだ。それを電子レンジでちょうど一分あたためたあと、西谷さんに断りを入れたうえで、彼女ではなくてぼくが、トレイにコップを載せて、中身をこぼさないように、そおっと寝室まで運んでいった。

「お待たせしました。経口補水液、です」

「ありがとう。いちいち世話をかけるな」

 オルガさんはぼくをねぎらったあと、その半透明の澄んだ液体をしげしげ眺めてから、コップを手に取った。そして、ぐいとひと口……と言うには多めの量を早速口に含んで、少し頬をふくらませながら、しっかり味わった、ようだった。

 飲み込むまでざっと十秒、はつらつとした表情を終始崩さず、最後に「うん」と頷く。

「どうですか……」

 ぼくがたずねると、彼女はあたためた経口補水液のことを、こう評した。

「ただの塩水と見せかけて、そのはるか遠くに、砂糖が絡みついている。実に繊細な味だ!」

「はあ」感心してはいるみたいだけれど、結論が分からない。「おいしかった、ですか?」

 オルガさんは即答した。

「うまくはない!」

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