三、

 オルガさんをどうするかということと、ぼくがこのうちのあるじとして、彼女に関わり続けるかどうかということがはっきりしたので、完全に役目のなくなった救急隊が、彼女に別れを告げて、引き上げていった。

 扱いとしては、理屈はともかく、事実、オルガさんが見違えるほど健やかになったため、わざわざ救急車で病院に運ぶまでもないから、自分たちで医者にかかるようにと救急隊が促して、彼女やぼくがそれに同意した――ということにしたい、という説明を受けた。

 二人ともそれに納得したので、眼鏡をかけた救急隊員が手早く準備した書類に、二人してサインした。はじめ、当事者であるオルガさんが、「変わったペンだな」とか言いながら、持たされたボールペンで署名したのだけれど、案の定、どこの国の文字かも分からないような記号の羅列だったので、その下にぼくが、「知人」として自分の名前を書いた。

 うちから出ていく間際、大柄な隊員が、ぼくに歩み寄って話しかけてきた。

「あのひと、一週間なにも食べてないって言ってたでしょ」

「はい、言ってました」

「水飲んだだけであんなに元気になるんだから、常識は通用しないと思うけど、それでも、食事には気ぃ遣ってあげた方が良いと思うんだ。いきなり普通のご飯を食べさせると、弱ってる内臓に負担がかかっちゃって、良くないから」

「はあ」

「っていう話をさっきお巡りさんにもしたんだけどね、食事のことは、野々さんにお願いするから、野々さんにも話しといてください、って言われたの」

「え?」

 なにを勝手に、一般人のぼくを当てにしているのか。またちょっと、むかついてきた。

「ってなるよねえ。分かるよ」しみじみと同情してくれる隊員。「なんか、明日中には医者をここに呼んでくれるようだから、とりあえず今晩は、あたためた経口補水液でも飲ませてあげて、明日は、おかゆ味噌汁みそしるをあげるのが良いかな、具は入れないでね。全部ね、ドラッグストアとかコンビニで調達できるから。あとは、医者の診断を待ちましょう」

「分かりました、と、言って良いのか……」

「お巡りさんに怒ってやんな」

 隊員は笑いながら、最後にぼくの肩をたたいて、んだ。「お兄さんだけが頼りだからね。オルガさんを助けてあげてよ。――それじゃ、失礼します」

「あ、ありがとうございました……」

 一礼して、隊員が玄関のドアを閉めるのを見送ったあと、ぼくは、なんの断りもなく居間に入って打ち合わせしていたお巡りさん二人のもとへ怒鳴り込み、するほどまではキレてなかったので、せいぜい不機嫌な感じをあらわにしつつ、顔を出した。

「ああ、野々さん」ごついお巡りさんが、相変わらずにこりともしないでこちらを向く。「救急隊から、オルガさんの食事の話は聞きました?」

「聞きました。が、」良かった。ちゃんと不機嫌な声になった。「食事のことは、警察の役目じゃないんですか?」

「警察の役目です」

 お巡りさんはあっさり認め、またぼくに視線をロックオンしながら話しはじめた。

「通常であれば、警察署で食事を出しますし、今回のように署に連れて行けない状況であれば、警察の方で買いに行くなり出前を取るなりして、食事をとってもらうこともあります」

「じゃあ、それで良いじゃないですか」全然違う話を平然とされたので、なんだか余計にむかつく。「なんでそこにぼくが登場するんですか?」

「まあまあ、聞いてください」

 ぼくを手で制してから、ごついお巡りさんは続けた。

「まず、当初の話では、私たちは交番の人間なので、パトロールだとか、通常業務がありますから、交番に戻って、代わりに、署から来た警察官が、オルガさんを見張ることになってました。引き継ぎのときに、ある程度の食べ物を用意して持ってくるという段取りも確認してました。ですが、ついいましがた、警察の方針が、大きく変わったんです」

「方針が変わった?」

「ええ。お分かりのとおり、いまのこの状況は、です。さっきも言いましたが、異常には、それ相応の、が要ります。その対応について、本部のレベルで協議した結果、オルガさんのことを、最重要機密として扱うことが決まりました。そして、これから二十四時間、オルガさんに関する一切の情報を外部に漏らすな、という指令が下されました」

「はあ」

 そのことと、ぼくの食事担当抜擢ばってきに、いったいなんの関係があるのか。「それで?」

「代わりの警察官が来れなくなりました」

「はい?」意味がよく分からない。「なんでそうなるんですか?」

「ほかの警察官がここに、入れ代わり立ち代わりで出入りすればするほど、オルガさんのことが外部に知られる可能性が高くなるから、という理由です。私たちには守秘義務ってものがありますんで、通常の事件でもそんなことはまずありえないんですが、今回は、万が一にも情報が漏れるようなことがあってはならない、深刻な事態だと判断されたわけです」

「じゃあ、オルガさんの見張りは?」

「私たち二人でやります」

「二十四時間ぶっ通しで?」

「ええ。そういう指示だから」

「そこまで徹底するんだったら、じゃあ、救急隊はどうするんですか?」

 腹が立つとなぜか、頭の回転が速くなって、いろんなことに気がつくので不思議だ。「さっき、普通に帰してたじゃないですか。あのひとたちたぶん、詰め所かどこかに戻ったら、ほかのひとたちに、オルガさんの話をしまくりますよ」

「救急隊が所属するこのまちの消防本部には、すでにこちらの本部から連絡をして、」想定どおりの質問だったのだろう、端的に回答された。悔しい。「それ以上のことは、話せません」

「ん? ……待てよ?」

 なにか、急に嫌な予感がしてきた。「、ということは? ぼくはどうなるんですか? 明日も普通に、朝から晩まで仕事なんですけど」

 お巡りさんは、顔色ひとつ変えず、ぼくに言い聞かせるように、こう答えた。

「申し訳ないですが、野々さんには、自宅待機してもらいます」

「じたくたいき?」

 予感がずばり的中したのを、まだ信じたくないきもちで聞き返す。

「はい」

「仕事は休め、と?」

「そうです」

「ええぇ……」

 頭を抱えるぼくをよそに、ごついお巡りさんは毅然きぜんと話を進めた。

「これはお願いではなく、本部からの指令を受けた、警察官としての命令です。ただ現場に居合わせただけのひとに、現場から出ないよう強制するわけですから、必要なサポートはします。オルガさんだけでなく、野々さんの分も食事を調達しますし、そのほかに必要な生活用品があれば、遠慮なく言ってください。必要に応じて、署の私服警官が買い出しをして、このうちの玄関前に置いていくことになったんで」

「はあ」

 自宅待機と言うより、隔離だな、と思った。それはともかく、肝心なことが分からない。

「あの、いまのお話だと、オルガさんの食事のことはそちらがやる、っていうふうに聞こえたんですけど、結局、ぼくに、なにをしろって言うんですか?」

「要は、警察が、一般の方のうちの火の元を好き勝手にいじって、もしなにか事故を起こしてしまったら、どう責任取るんだということになっちゃいますから、私たちは、台所周りには触れないんです。ですので、野々さんに、オルガさんの食事の、調理を頼みたいんです」

「ちょうり?」

 生まれてこの方、一度も自炊したことないのに。ぼくは、首の代わりに両手を振って、

「無理です、無理無理」

「無理なわけないでしょう。できないと暮らせませんよ」

「はあ?」

 ちょっと頭に血が上りかけたぼくを視線で押さえつけて、冷静にお巡りさんが言った。

「コンロでお湯を沸かしたり、湯煎してもらいたいだけなんですが、できないんですか?」

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