六、

「あっ、」

 ぼくは、鎧のひとが意識を取り戻したことに、ちょっと安堵あんどした。「起きた」

「お姉さん、分かりますか!」すかさず、大柄な救急隊員が彼女に声をかける。

「……」

 彼女は、その赤い瞳で素早く周りを見回してから、「あなたたちは?」

「救急隊です。お姉さんが倒れてるって、このひとから連絡があって来ました」

「呼びました」

 ぼくが軽く手を挙げてみせると、彼女は相変わらず苦しそうに息をしながらも、納得したように小さく頷いた。そして、

「わたしを、助けようとしてくれて、ありがとう」

 また礼を言ったあと、真剣な顔のまま、こう続けた。「――だが、いまは、わたしを諦めて、ここから逃げてくれ」

「え?」

 ぼくの中の嫌な予感が、いっそう高まった。

 根拠はないけれど、鎧のひとは、いまここでなにが起きているのか、完全に理解して喋っているように思えたからだ。

「お姉さんを助けるのが、僕たちの仕事だから」こういうひとの相手は慣れっこ、という感じで、大柄な隊員が言い聞かせる。「逃げるんなら、一緒に逃げましょう。ね」

「それはできない」

 彼女は即答した。

「この魔法陣は、わたしを、ここにものだ。それに、その向こうから、がする……」

 そして、ごろんと寝返りを打って横を向き、震える両腕を支えに上半身を起こすと、かろうじて、片膝立ちにまでなった。救急隊が、あわてて三方から支える。

「立つ? 立てる?」大柄な隊員が、彼女の顔をのぞき込んだ。「ゆっくり立って。ゆっくりで良いから」

「これの狙いは、このわたしだ」

 鎧のひとは、魔法陣をにらんだまま、語気を強めて言った。「関係ないあなたたちを、巻き込むわけにはいかない。一刻も早く、この部屋を出ろ」

「そういうわけにはいかな――うおっ」

 大柄な隊員が急にのけぞった。

 彼女が、肩にかけたベルトで背負っていたつるぎさやから抜いて、両手で振りかざしたのだ。彼女の半身ほどはある太くてまっすぐな刃が、重厚な光沢を放つ。

 よく斬れるかはともかく、少なくとも、コスプレ用の小道具には見えなかった。

「危ない危ない、危ない!」

「お姉さん、それはしまって!」

「警察呼ばなきゃいけなくなるよ!」

 一歩身を引いた救急隊が、口々に鎧のひとを制したけれど、彼女は一切応じることなく、彼らへ背を向けたまま、繰り返した。

「部屋を、出ろ」

 そのことばには、有無を言わさないが戻っていた。

 鎧のひとは、つるぎを逆さに持ち替えると、思いっきり、床に突き立てた。つるぎの切っ先が明らかに床にめり込んだのを目の当たりにして、ぼくは、いろんな意味でショックを受けた。

 そのつるぎにしがみつくようにして、とうとう彼女は立ち上がった。酸素吸入用のマスクや指につけられた装置を、無造作に外して、放り捨てる。

 急に、放電の音が激しくなった。

 身を屈めながら天井の方を向くと、魔法陣の中央の月のかたちが、大きく欠けたり、逆に真ん丸になったりと、不規則に、不気味にうごめきだしていた。

 それを見た鎧のひとが、血相を変えて、窓際にいたぼくに鋭く叫んだ。

「逃げるんだ! 早く!」

「はっ、はいっ」

 あまりの剣幕に、ほとんど反射的に返事したぼくは、なぜか頭を押さえながら、すくんだ足をなんとか動かして、壁伝いに寝室の出口へ向かった。救急隊はすでに廊下に出ていて、「警察官要請……」「応援は……」「本部に状況を……」などと打ち合わせている。

 とそこで、ぼくの右足が、いきなり固いなにかを蹴飛ばした。がちゃん、という音に不意を突かれて、完全に怖じ気づいたぼくは思わず、

「ひっ」

 と声を上げ、足を引っ込め後ずさりしてしまった。

 床を見ると、救急隊が退けておいてくれたのだろう、ぼくの持ってきたガラスのコップが、向こう側にすっ転がっていくところだった。おのれを情けなく思いつつ、気を取り直して、再びぼくは歩きだした。

 けれどもう遅かった。

 魔法陣の中央にあった月が、新月になった。

 暗闇に塗りつぶされた状態で、ぴたりと動きを止めたのだ。

 その穴のような闇の中に、幾重にも電光がひらめき、空気を引きちぎるような音がとどろいて、一時いっとき、まるで目も耳もなくしてしまったみたいに、なにも分からなくなる。

 部屋が、どすん、と激しく揺らいだ。

 それきり全てがおさまって、まぶたの向こうの輝きが、すうっと消えた。

 直後、その場にしゃがんでいたぼくの鼻に、獣の臭いが立ちこめてきて、塞いでいた耳の向こう側が騒然となった。

 耳から手を放すと、重く低いうなり声や、甲高いき声、「退避! 退避!」という救急隊の叫び声が、一気に飛び込んできた。

 なにが起きたのだろう?

 おそるおそる、目を開けたぼくが見たのは、

 すぐそばで、つるぎを支えにかろうじて立つ鎧のひとの背中と、

 この世のものとは思えない、大きな化けものの姿だった。

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