五、

 その後、一一九番のひとは一切余計な話をせず、鎧のひとについて、意識はあるか、呼吸はどうか、怪我をしていないか、何歳くらいで性別はどうか、流れるように次々ぼくから聞き出して、最後にぼくの名前と電話番号を確認したあと、

「では、救急車が向かいますので、サイレンの音が聞こえたら、外に出て、案内をお願いします」と指示した。

「分かりました」

「電話を切ってお待ちください」

「よろしくお願いします。失礼します」

 いつもの癖で頭を下げて、言われるがまま電話を切ったぼくは、ふう、とひと息ついて、ふと、鎧のひとに視線を落とした。

 ついさっきまで、通話中のぼくをなにごとかと言わんばかりに凝視していた彼女は、いつの間にか目をつむっており、呼吸もなんだか弱々しくなっていた。ぼくは急に不安になってきて、あわててしゃがみ直すと、彼女の鎧の肩あたりをこんこん強くノックした。

「んん……ああ……」

 彼女はこの上なく安らかな表情で、ふらふらと首を振った。「駄目だ……。ほっとしたせいか、眠気が、一気に……」

 その消え入りそうなことばどおりに本人は眠るつもりだとして、放っておいたら永久とわの眠りになりはしないか、気が気でなかった。肩を掴んで揺さぶろうとしたけれど、とにかく鎧が重いし堅いしで、びくともしない。それで仕方なく、彼女の顔に手を伸ばして、頬をぺちぺち軽くたたいた。

「もしもし」

「……んん……すまない……、少しだけ……、眠らせて……」

「ここで寝ないで。救急車、すぐ来ますから」

「……ん……」

「もしもし。もしもーし、もしもーし」

 ぼくの引き止めもむなしく、鎧のひとは、完全に意識をなくしてしまった。

 ほどなくして、サイレンの音がかすかに聞こえはじめ、それが段々と大きくなってきた。かなり耳障りになったところで、指示どおりにマンションの外へ飛び出したら、探すまでもなく、ちょうど、前の通りへ救急車が滑り込んできたところだった。

 手を振って合図すると、無事ぼくの目の前で停まり、サイレンもやんだ。赤いランプが激しく光をき散らす車の中から、白いヘルメットにゴーグル、マスクをつけ、水色のジャケットを着たひとたちが三人、続々と出てきた。テレビでしか見たことのないストレッチャーまで登場して、一気に物々しい雰囲気になる。

「一一九番された、野々ののさんですね?」眼鏡をかけたひとりの隊員が、張りのある声で確認してきた。

「はい。お世話になります」

 ぼくは早速、救急隊を自分のうちへ連れて行った。

「こっちです」

 玄関で靴を脱ぎながら、鎧のひとがいる寝室を手で示すと、救急隊はどっと中へ入っていき、床のど真ん中できれいな大の字に倒れたまま、きれいな顔で寝ている? 彼女の上半身を素早く取り囲んで、持ち込んだバッグやらなにかの装置やらをそばにどんどん置いていった。

 廊下の灯りだけじゃ暗いだろうと思って、部屋の灯りのスイッチを押した。白いLEDの光が、普段どおりの家具や寝具と、この異常な状況を、まとめてまぶしく照らし出す。

「救急隊です! 分かりますか! 分かりますか!」

 座り込んだ大柄な隊員が、ぼくと同じように肩のあたりをばんばん叩きながら大声で二回呼びかけたけれど、鎧のひとは微動だにしない。「反応なし。気道確保」

 さっきの隊員が、廊下から見物していたぼくに近づいてきた。

「電話でも話したと思うんですけど、もう一度、状況を聞かせてもらえますか?」

「はあ」

 ぼくは頭を掻きながら、これまでの顛末てんまつを順々に、なるべくかいつまんで話した。

 その間も、鎧のひとの周りでは、ほかの隊員二人が慌ただしく動き回り、ひとつひとつ声出し確認しながら、彼女のあごを押して口を開けたり、その口元に目や耳を近づけたり、首に手を当てたり、大の字の体勢を小の字にしたり、手の防具をすぽんと外して指先になにか取りつけたり、耳に手のひら大の機器を差し込んだり、なんとか両腕や両膝を持ち上げては放してみたり、無理矢理まぶたを開けてペンライトで照らしてみたりしていた。

 隊員は、うん、うん、と細かく相槌あいづちを打ちながら、ひととおりぼくの話を聞いたあと、

「分かりました。いま、状態を確認していますから、しばらくお待ちください」

 と言って、鎧のひとの方へ戻っていった。

 すぐに、大柄な隊員がさくさく報告をはじめる。

「気道正常、呼吸二十、脈拍百三十一、SpO2エスピーオーツー九十六パーセント、体温鼓膜で三十七度九分、GCS三点、JCS三百、ドロッピングテスト上肢下肢とも異常なし、瞳孔正常、頭部外傷ありません。問題は、鎧が重く、外し方も分からないので、血圧と心電図の測定が困難、頸部けいぶ以下の外傷も不明。搬出にも支障が出そうです」

「了解。なんとかして鎧を外しましょう。それからだ」眼鏡をかけた隊員が指示を出した。「酸素投与と血糖測定の準備、それにABCDの観察継続。鎧の除去は自分が行い、除去が困難と判断した場合は、応援を要請します」

「了解」ほかの隊員たちは、また各々動きだした。

「着たんだから、脱げるはずだ……」

 眼鏡をかけた隊員は、そうつぶやいて四つんいになり、鎧のひとに顔を近づけて、時折鎧に軽く触れながら、足先から首元までをくまなく見ていった。そして、なにか確信を持ったように二、三回頷くと、ほかの隊員たちに向けて、

「大丈夫。外せるわ、これ」と言った。「金具で固定してるか、後ろでベルトで留めてるだけだ。すぐ外します」

「了解」

 ほかの隊員たちが返事をした、次の瞬間、

 ぶうううん、

 という、はえが耳元で飛ぶような不快な音が、うちじゅうに鳴り響いた。完全に気がゆるんでいたぼくは、飛び上がるほど驚いて、音がしている寝室の天井、シーリングライトのあたりを見やった。救急隊も全員、同じところを見上げている。

 ネオンみたいに鮮やかなピンク色で輝く、小さな光の輪が、ライトの中にできていた。

「なんだ、なんだなんだ」

 最初、もしかしてライトが爆発するんじゃないか、と思ったぼくは、大あわてで寝室に入って、灯りのスイッチを切った。けれど、音はいっこうにやまない。

 暗転した寝室を、うさんくさい雰囲気に染めた光の輪は、見る見るうちに大きくなって、ライトのカバーを、あっという間に天井全体を覆った。プロジェクターやレーザーで映したのではない。まばゆい光が、ばちばち放電しながら、宙に浮いていた。

 そして、輪の内側に、月のような欠けた円が現れ、なんとも言えない幾何学模様がそれを囲んで、まるで魔法陣のよう、というより、明らかに、魔法陣になった。

 ぼくのうちには、当然ながら、こんなものを出す仕掛けはない。

「なんですか、これ」

 眼鏡をかけた隊員が怪訝けげんそうに聞いてきた。

 なにか、嫌な予感しかしないけれど、

「いや……、分かんないです」としか答えようがない。

 そのとき、

「――来る」

 と、足元から、くぐもった声が聞こえた。

 反射的に下を向くと、鼻と口を透明なマスクで覆われた鎧のひとが、思いきり目を開いて、はじめて出くわしたときのような鋭いまなざしを、ゆっくり回転する魔法陣へと向けていた。

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