四、
「頼み?」
ぼくは、スマホを手に持ったまま、鎧のひとのそばにしゃがみ込んだ。立ちのぼる臭いがきつかったけれど、表情に出さないよう気をつけて、用事の中身をたずねる。
「なんでしょうか」
「……水……」
そうつぶやく鎧のひとの、思いのほか小さな顔や、くちびるや、両目を縁取る長い
「水を、少し、分けてくれないか」
「水。あっ、はい」
なぜだか、返事がぎくしゃくしてしまう。「持ってきます。ちょっと、お待ちを」
小走りで寝室を出たぼくは、廊下の突き当たりにある、居間のドアを開けた。
目の前の薄暗いカウンターキッチンに入って、シンクの下の引き出しから、ガラスのコップをひとつ、ガスコンロの下の備蓄スペースから、「京極の名水」というラベルが巻かれた、五百ミリリットル入りペットボトルを一本取りだすと、急いで彼女のもとへ戻ってきた。
「持ってきました」
ペットボトルを掲げてみせる。「コップもあります。飲みますか?」
「ありがとう、そんな、貴重そうな水を……」
たかだか百円くらいのミネラルウォーターに、たいそう感銘のまなざしを向けながら、鎧のひとは言った。「……しかし、もう、コップも、持てそうにないんだ。わたしの口に、そのまま、注いでくれないか」
「分かりました」
ぼくはその場に
「こ、こんな感じで、良いですか?」
「ああ……」
「じゃあ、ゆっくり、いきますね」
そして、少しずつ、慎重に、ペットボトルを傾けた。
飲み口から、水がささやかにこぼれだし、彼女の口の中へ流れていく。すると、たちまち彼女が喉元を大きくうねらせて、ごくん、ごくん、とそれを飲み込んでいった。なんとなく、牧場で子牛が哺乳瓶に吸いついて、ぐいぐいお乳を飲む光景を連想した。たぶん、生命力、みたいなものを感じたのだと思う。
二、三分くらいだろうか。廊下の灯りが差し込むだけの寝室で、ぼくは黙って、水を彼女の口に注ぎ、彼女はひたすら、それを飲み続けた。
やがて、ペットボトルが空になった。
ぼくが飲み口を離すと、鎧のひとは元どおり、ふう、ふう、と呼吸しはじめた。けれど、その息づかいの中には、これまでにはない、満ち足りたような
「うまい……」深いため息とともに、彼女が言った。「とても清らかで、甘くて、すっ、とからだに、染みこんでいった。こんなにうまい水は、生まれてはじめてだ」
「それは良かった」
ずいぶん大げさだけれど、こころから感激しているようなので、悪い気はしなかった。「あの、まだありますけど、飲みますか?」
鎧のひとが、目を見開く。「まだあるのか」
「さっき見たら、あと三本くらいは……」
「三本。……三本か」
彼女は肩で息をしながら、一瞬、思案したあとで、「……いや、わたしはもう、充分だ。残りは、どうか、大事に、取っておいてくれ。……なにか、運命めいたものを、感じる」
「うんめい」
また話が怪しくなってきた。
ぼくは、自分の本分、つまり通報することを思い出して、その辺の床にコップと一緒に置きっぱなしだったスマホを回収し、立ち上がった。画面のロックを解除すると、一一九番が打ち込まれたままの電話アプリが表示されたので、満を持して、発信ボタンを押した。
生まれてはじめての緊急電話だ。否応なく緊張してくる。
短い呼び出し音のあと、ちょっと早口な男性の声がスピーカーから聞こえた。
「一一九番、消防です。火事ですか? 救急ですか?」
「救急です」
「救急ですね。場所はどこですか?」
「伊皆市
「どなたがどうされましたか?」
「ええと、ここはぼくのうちなんですが、帰ってきたら、鎧を着た知らないひとが倒れていて、動けないみたいなんです」
「……鎧?」
「鎧です」ぼくは強調した。「全身、鎧です」
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