ロシアの春

Tako_tatsuta

ロシアの春

私は当時、30歳だった。


長野の地主の元に生まれ、東京の銀行に就職し、父親が紹介した女性と婚約していた。


銀行員は、今も当時もエリートだ。仕事は順調で、給料も周りの数倍もらっていた。

結婚はうまくいきそうだったし、クラシックを聴くのが趣味で、レコードを買って音楽を聴けるくらいには裕福だった。


幸せな人生だった。

全てうまく行くと思っていた。

しかし、歯車が狂った。


満州事変、真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦…


当時は作戦名も変えられ、攻勢と伝えられていたが、実際はそうではなかった。

私は最初は愛国者だった。金はあったので、代人料を払って徴兵を免除することもできたが、国のために戦いたいなどと馬鹿なことを考えていた。


そのおかげで、徴兵令により1942年に徴兵され、関東軍に送られた。



満州は比較的平和だった。欧米を相手に戦っている仲間よりマシだ、といつも上官に言われた。


仕事内容は通信官。本国からの命令を解読士に伝えるだけだ。


しばらくして、戦争は終わり、攻め込んできたロシアの捕虜となった。


最初は気が気でなかった。殺されるのではないか、洗脳されるのではないか。

様々な憶測が飛び交った。

捕虜となる前に支給品の青酸カリを飲んで自殺した仲間もいた。


しばらくすると、ロシアの兵士が私たちに何かを命令してきた。

「トウキョウダモイ。イポーニャダモイ。」

私は少しロシア語に心得があったので、意味を知ることができた。

「日本に帰れるらしい」と言った瞬間、仲間たちは湧き立った。


しかし、列車に乗り込んでしばらくしてわかった。


日本の方向には進んでいない。


列車は港のある南東ではなく、西へと進んでいた。


私は怯えた。

殺される、もう終わりだ、誰かがそう言った瞬間、元々静かだった列車がより静寂に包まれた。




私たちが送られたのは、収容所だった。


そこで私たちは労働を課せられた。


幸いだったのは、私たちの収容所はそこまで重労働を課せられることなく、地域住民との交流もできる程度には自由が認められていた点だ。

それでも、環境は地獄と言って良かったが。


私はロシア語が話せるのが幸いし、通訳の仕事を任され、周りより少しばかり良い食事をしていた。

少しでも生活を改善するため、共産主義を崇拝するフリをし続け、スターリンの偉大さを仲間たちに語り続けた。


最初は怪訝な顔をしていた仲間だが、途中から意図を理解し始めた。

上官も気づいていたが、生きるためだと見て見ぬふりをしてくれた。


おかげで、仲間の監視役を任され、部屋(と言っても2人で一部屋だが)を与えられ、ある程度の範囲まで自由に移動をすることができた。


だが多くの仲間は労働こそ過酷でないものの、南京虫やトコジラミに苦しめられ苦しんでいた。


まさにこの世の地獄だった。


しかし、そんな過酷な状況にも、沼に咲く蓮のような救いの存在があった。

それがナターシャだ。


彼女は官史の娘で、私たちによく会いに来ていた。


私たちを苦しめる雪と同じ色とは思えないほど美しい銀髪。

身長は高く、顔は整っていて、モデルをも圧倒するような美貌の持ち主。

そして私たちに分け隔てなく接してくれる優しい心。

彼女は女神だった。


彼女が笑えば我々も笑い、彼女が悲しめば笑う。

間違いなく彼女は私たちの希望であった。



私も彼女に惹かれていた人のうちの一人だった。

仲間は彼女にアプローチすることはなかった。

雲の上の人、神聖な存在。


自分如きが構っていい相手ではない、まさにアイドルだった。

しかし、私は通訳だったので、仕事の時間をほとんど彼女と過ごすことができたし、真剣に彼女のことを愛していた。


しかし、我々捕虜と彼女の距離は、遠く離れていた。

何もできないまま数ヶ月が流れていく。


そんな中、好機が訪れた。官史がナターシャと私の距離を近づけてくれたのだ。

私たちの官史は、大酒飲みでよく笑う、いわゆる「漢」だった。

私の彼は気が合った。音楽の好みも合う、寛大な男だ。

私たち捕虜の話も真摯に聞いてくれた。私が生きているのは彼のおかげかもしれない。


彼は私がナターシャに気があるのを見抜き、住み込みで働いていたナターシャの部屋と私の部屋の移動を許可してくれた。そして、ナターシャの家庭教師として私をつけてくれた。


私は熱心にアプローチし続け、少しずつ距離を縮め、ついに男女の仲になった。


私は幸せだった。高嶺の花だと思っていた女性と付き合えたのだから。


毎晩ナターシャの部屋に足を運んだ。

私は地獄のような環境にいながら、幸せの絶頂だった。


手紙を書くことができるようになっても、私は家族にも婚約者にも手紙を書かず、


そして、1952年、帰国の時がやってきた。


仲間たちは、「帰国する」か「ロシアに残る」か選ぶことができた。


私の心は揺れ動いた。


このままロシアに残ってナターシャと結婚し、愛している人と幸せな家庭を築くか、日本に戻り父に勧められただけの人との家庭に戻るか。


官史は私に、ロシアに残ることを勧めてきた。

ロシアに残るなら、仕事も斡旋し、結婚も認めよう。

住む場所がないなら私の家に住めばいい、と。


しかし、この決断は、当時三十歳の私には重すぎた。


当時は今と違い、富裕層の恋愛結婚はめずらしく、私は父に紹介されお見合いした女性と結婚するのが普通だと考えていた。


しかし、私は知ってしまった。

愛する女性が悲しい顔をしている時の苦しみを。

愛する女性が嬉しい顔をしている時の喜びを。

そして何より、愛する女性が私に愛を注いでくれることの幸せを。


私の心は揺れ動く。

日本には婚約者がいる。

ここにはナターシャがいる。

もちろん私にとって幸せなのはナターシャといることだ。

だがナターシャと暮らそうと思うたびに凄まじい罪悪感が体を駆け抜ける。


私は夜ナターシャの部屋に歩みを進める。

いつものことであったが、今日は足が重い。


ノックをし、入る。

空気が重い。

お互い事情を理解しているからこそ、切り出せない。

気まずい沈黙が続く。


沈黙を破ったのは、ナターシャの言葉だ。


「日本に帰ってあげてください」


「どうしてだい?」


「日本にはあなたの家庭があるんです。

 このままロシアに私といるより、そっちの方が幸せです」


「なんで君がそんなことを決めるんだい?」


「あなたに幸せになって欲しいから…」


そこで間を置き、私が教えた拙い日本語で静かに言った。


「日本で幸せになって。ロシアからあなたの幸せを願ってる。」


二人の目から涙が落ちる。


ついに、日本に帰る日がやってきた。

私は列車に乗り込み、

ロシアに別れを告げる。


日本語で一言。


「さようなら」


「またいつか」









列車が走り出す。


「さようなら」


「さようなら」














二人の距離は離れていく。


「さようなら」


「さようなら」















違う。私が欲しかったのはその言葉ではない。


「さようなら」





「さようなら」












もはや姿は見えない。


「さようなら」


私が欲しかったのは、別れの言葉ではない。

私の幸せを願う言葉でもない。





















私はただ、

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