第一章 好敵手たち

第一話 賭けごとはほどほどに・一

 第二の故郷に別れを告げ、嘉治郎の知人に伴われ向かった大都市で八意が鉄道に乗ってから、数日があっというまに過ぎた。

「やっと着いた……」

 晴天の都心の駅を降り、さらに路面電車に揺られた梅雨前の昼下がり。眼前の店の行灯と紙に書かれた店名を確かめ、八意は安堵の息を吐いた。

 その吐息に気づいてか、門の前でうつらうつらしていた異形――あやかしがふと顔を上げた。八意の顔を見るなりぎょっとして、慌てて逃げだす。

 別に私は貴方たちを追い払ったりしないんだけど……。

 絵物語に描かれる小鬼そのものの姿をした異形たちの過剰な反応に、八意は苦笑した。

 あやかしはいにしえから街角にひそみ、人々の生活に時折干渉してきた存在だ。恐ろしい災いをもたらすほど力が強いものも存在するが、このような小物程度なら少々悪戯をしてくる程度。可愛らしいものだ。

 そんな悪戯程度でも嫌なものだが、よほど強いあやかしでない限り、見鬼の才――――異能の一種がなければその姿を見たり声を聞いたりすることはできない。だから人々はあやかしというものが存在すると信じていても、誰も気にすることはない。

 生まれてこのかた小物のあやかしにはこういう対応をされがちなので、いつものこととしか思えない。八意はすぐあやかしのことを忘れ、【赤城荘】と力強い字が躍る伝統的な様式の旅館に目を向けた。

 それまで交流がなかった異国との接触に端を発する動乱が終わり、この島国が大八嶋大帝国と名乗るようになって約四十年。

 異国由来の技術や文化、価値観が流入して人々の生活に浸透しつつある一方、庶民のあいだでは旧来の生活習慣もまだ根強く残っている。帝都の中心部から少し離れたこの地域でもそれは同じようで、辺りは伝統的な木造の店が多く軒を連ね、行き交う人々も昔ながらの格好がほとんどだ。

 それでも、異国風の建物の建設工事が数軒進行している。異国の装いをした男女や袴姿の女学生が通りを歩き、故郷では珍しい異国由来の菓子の名を書いた看板の店がある。八意にとっての物珍しさと親しみやすさが、この地域には混在していた。

 八意は深呼吸して心を落ち着かせると、旅館の中へ入った。

 土間を歩いた先の座敷に置かれた文机に、従業員が突っ伏していた。他には誰も見当たらず、健やかな寝息が聞こえる以外はまったく静かなもの。どう見ても、昼下がりの静けさでついうたた寝をしてしまったふうである。

「あのー……」

 座敷に近づいて荷物を地面に置き、八意は声をかけてみた。しかし従業員はすやすやと夢の国に旅立ったままだ。よほど暇だったのか、朝早くから仕事していて疲れが押し寄せてきたのかもしれない。通常業務に加えて、来たるべき日の準備に追われている真っ只中に違いないのだから。

 このまま寝かせてやりたいが、しかし勝手に中へ入るわけにも玄関でのんびりしているわけにもいかない。八意は困ってしまった。

 女将さんか誰か、来てくれたらいいのだけど……。

 そんな八意の願望は早くも叶えられた。座敷の奥から、迫力のある顔立ちの女性が現れたのだ。髪を高い位置で括って下ろして萌葱色の小袖を着た、いかにも働き者といった空気をまとった女性である。

 女性は形の良い唇に指を一本当てて八意を黙らせると、従業員の背後に足音もなく近づいた。

 そして。

「何うたた寝してんだい、この馬鹿息子!」

 持っていた帳面を思いきり振り被ったかと思いきや、従業員の脳天に遠慮なく振り下ろした。八意はぎょっとするが、女性はまったく悪びれない。

 攻撃されてはそのまま眠っていられるわけもなく、従業員は後頭部を押さえながら、がばりと背後の襲撃者を振り仰いだ。

「っおふくろ何すんだよっ!」

「仕事中にうたた寝なんてするのが悪い! 帳簿づけは?」

「できたよ、ほら」

 むくれた声で従業員は帳簿を母親に提出した。それを受け取り、女性はぱらぱらと帳面をめくって中身を確かめる。

「うん、ちゃんと書いてあるね。……じゃあいい加減、そこの可愛らしいお客さんに気づいてやりな」

「! ちょ、早く言ってよそれ!」

 にやりと口の端を上げる母親の指摘に吠え、従業員は土間で親子のやりとりを拝聴している客のほうを向く。

 そしてようやく、八意は彼の顔を真正面から見ることができた。

「八意ちゃん! 久しぶり!」

「うん、久しぶり、圭太けいた君」

 約一年半前とまるで変わらない満面の笑顔に迎えられ、じんと胸に広がるものを覚えつつ、八意も微笑んで返した。

 赤城圭太。この【赤城荘】の跡取り息子であり、八意が働いていた旅館【彦の湯】の女将の甥だ。彼は約二年前から半年ほど、帝都一円で流行していた疫病から逃れるため【彦の湯】に身を寄せていて、八意はその頃に彼と親しくしていた。

 あれから何度か手紙のやりとりをしていたが、再会したのは今日が初めてだ。それだけに、あの頃と同じ旅館という場で仕事に励む姿は懐かしくてならない。

 女性――【赤城荘】の女将は、腕を組んでわざとらしく大きな息をついた。

「まったく……世話になった女の子の前で、こんなみっともない姿を見せるとはね。我が息子ながら情けない」

「半分はおふくろのせいだろ。今朝は真っ暗なうちからあちこち走らされたし。八意ちゃんを迎えに行かせてもらえてたら、今頃ばっちり起きてたよ」

「旅館の跡取りが、早朝からの仕事程度で音を上げてるんじゃないよ。寝るなら仕事が終わってからにしな」

 圭太は抗議するが、女将はまったく聞き入れない。そして両腕を解くと、息子に向けるものとは打って変わった優しい笑みを浮かべた。

「駅まで迎えに行けなくてすまなかったねえ。乗り物に乗ったり歩いたりで、大変だっただろう。地図を送っておいたけど、迷わなかったかい?」

「はい。わかりやすかったですし、駅員さんや町の人が優しかったですから迷いませんでした」

「そう? ならよかった。じゃあ上がって。部屋へ案内するよ。――ほら圭太、案内してやりな」

「へーい」

 母親に生返事を返し、圭太は座敷へ上がる八意の手から風呂敷包みを受け取る。そしてすぐ、その重みに目を丸くした。

「重っ……一応聞くけど、何入ってるのこれ?」

「……棋考きこう盤と駒」

「あはは、だよねー」

 むしろそれ以外に何入れるって感じか、と圭太は苦笑する。女将もくすくす笑った。

 棋考は約千年前に大陸から伝来し、独自の進化を遂げた伝統的な盤上遊戯だ。八十一のますが描かれた盤上で自軍の駒を動かし、奪いあい、相手の大将を追いつめる。旧政権時代に貴族や武士から庶民のあいだにも普及し、知的な娯楽として愛されてきた。

 八意はそんな棋考の愛好者――――棋考指しだ。亡き祖父が棋考指しだったうえ、実家である居酒屋も棋考を学んだり対局したりする場――――棋考道場を兼ねていたので、物心ついた頃から棋考を見て学んで育った。圭太はそんな八意の生い立ちを知っている。

 そしてこの【赤城荘】も、棋考と縁が深い場所なのである。圭太が八意の荷物を軽く笑って流すのは、当たり前と言えるのだった。

 通された部屋に荷物を置き、料理人頭である圭太の父親に挨拶を済ませたあと。八意は圭太に頼んで、昼間は棋考道場になっているという一階の大広間へ案内してもらうことにした。

 廊下を歩いていると、襖を隔てて色々な声が聞こえてきた。勝っただの負けただの、数字の符号だの、専門用語だの。ここが旅館であることを忘れてしまいそうだ。

 八意は頬を緩めた。

「圭太君が前に言ってたけど、本当にここの棋考道場も人がたくさんいるね」

「うん。この辺りだと、ここが一番大所帯だと思うよ。うちは棋考連盟御贔屓の旅館だし」

 自慢そうに圭太は言う。結局は家業を強調しているのがおかしくて、八意は小さく笑った。

 ほどなくして大広間に到着し、圭太は襖を開けた。

 整然と長机が並ぶ襖の奥では、二十人ほどの棋考棋考指したちが思い思いに対局していた。八意より少し下程度の少年から薄い白髪の高齢者まで、年齢層は幅広い。

 ただ、全員が男であることは一致している。

 二人に気づいた何人かが、お、と意外そうに目を丸くした。

「よお圭太、そっちの可愛い嬢ちゃんは誰だ?」

「叔母の旅館の元奉公人ですよ。さっき着いたばかりなんで、中を案内してるんです」

「ってこたぁ……もしかして、賢木八意か? 考試の地域代表常連の秋山に勝って、山浪やまなみの代表になったって噂の」

 圭太の紹介に続いて八意が頭を下げるより早く、部屋の片隅からそんな声があがった。

 八意がそちらを見てみると、よく日に焼けた肌の大柄な男が腰を半ば浮かせ、八意に目を向けていた。わずかに端が上がった口元は八意の素性を確信し、登場を面白がっているのがうかがえる。

 彼の一言で広間はたちまちざわついた。八意を見る目が変わり、好奇や値踏みといった感情が場に漂う。

 やっぱりこうなるよねえ……。

 素性を見抜かれたことは意外であるものの、周囲の反応そのものはいつもと変わらないのでそう驚きはない。八意は苦笑した。

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