巫女の一手

星 霄華

序章

序章 挑戦の始まり

「――――お願いします」

 雅やかなものなど望むべくもない、勇ましき女神と小さき神を祀る社を抱く漁村でもっとも賑やかな建物の一角。建物の主である夫婦の部屋で、少女はそう畳に手をつき、深々と頭を下げた。

 よしておくれよ、とふくよかな体格が迫力の女は顔をしかめ、手を振った。

「そんな、あんたが頭を下げる必要なんてないんだから。ねえ? あんた」

「ああ。八意、顔を上げるんだ」

 妻に顔を向けられ、夫は頷き少女――賢木さかき八意やいにどこかたしなめるような調子で言う。八意が知る限り一度として荒げられたことのない、いかにも人の良さそうな声音は困った色だ。

 仕方なく、八意は頭を上げた。

 しかし、心の中ではまだ頭を下げているつもりだった。引き取ってもらった身であるなら口にしてはならない、大それた望みを口にしたのだ。甘えた態度でいたくなかった。

 夫――嘉治郎かじろうは、困ったように眉を下げた。

「そんなにかしこまらんでくれ。お前は奉公人ではなく、私たちの大事な家族なんだから」

「そうそう、あんたは遠慮しすぎるんだよ」

 妻――多江たえは両腕を組んで短く息を吐いた。

「そりゃあんたは三年前に引き取ったわけだけどさ。それでもあんたはあたしたちの娘みたいなものなんだから、遠慮しないで我がまま言えばいいんだよ。……もっとも、あんたのは我がままですらないけどね」

「まったくだ」

 妻のぼやきに嘉治郎は首肯する。そして、まばゆいものを見るかのように目を細めた。

「本当に――――やっと、言えたんだな」

「…………え?」

 万感の思いがこもった息混じりの言葉に、八意の思考は完全に停止した。

 やっと。それは、どういう――――。

 八意が混乱しているのを表情から見てとったのか、多江は苦笑した。

「三年前、あんたが本気で考試こうしの本戦を目指してるってあんたのお師匠さんとかお友達からの手紙を読んだときは、まさかと思ったんだけどね。だってほら、そんなこと考える女の話なんて聞かないからさ。いくらあんな、高そうな道具を持ってるって言ってもね……」

「……」

「でも、色んな人と指したり一心不乱に勉強してるあんたを見てたら、考えが変わったよ」

 にやりと多江は笑ってみせた。

「あんたはこんな小さなところで終わっていい女じゃない。せっかく才能も意欲もあるんだ。出場できるんだから、出なきゃ損だよ」

 多江はからりとした笑顔で八意を後押しする。当の八意は呆然とするしかなかった。

 この二人に引き取られる前から、八意には行きたい場所があった。そのために努力し続けてきた。

 けれど引き取られた身でそれを願っていいのか、子供の自分にそれだけの実力があるのかという思いも消えなかった。自分の将来をどうするべきかと悩みながら、八意は日々を過ごしていたのだ。

 でもそのあいだずっと嘉治郎伯父さんと多江さんは、私が言いだすのを待ってくれてたなんて――――。

 思わぬ話の展開についていけず、仰天した思考はまだ動いてくれない。そのせいか八意の喉から出た声はかすれていて、どこか遠くから聞こえてくるようだった。

「行ってきなさい、八意」

 今度は嘉治郎が優しい声で言った。

「多江が言うように、お前には才能がある。結果がどうであれ、若いうちに自分を試してみるのはいいことだ。心に決めた目標があるなら、なおさらな」

「……!」

「今年が駄目でも、また来年挑戦すればいい。私たちは応援するよ」

 そう嘉治郎も妻に続いて、八意の小さな背中を押してくれる。

 見守り続けてくれた二人の眼差しを見て、自分の願いは許されているのだと八意は実感した。

「……っ」

 八意が気づいたときには、両の目から涙がこぼれていた。全身が熱くなる。

 そうしようとせずとも、熱と共に沸き上がる想いで自然と頭が垂れた。

「はいっ……! ありがとうございます…………!」

 きつく閉じた瞼に、この海辺の漁村で過ごした賑やかで穏やかな日々が浮かんだ。それらはすぐ、遠くを見る横顔と渡された二つの道具に変わる。

 そして三年前の縁側で口にした、自分の言葉も。

『帝都に行きたいの』

『それで、いつか――――』

 自分はそう誓った。あの熱は今もこの胸から失われていない。

 そう、必ず。必ず、帝都へ行ってみせる。

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