【幻想百合短編小説】変容する蝶たちの蜜 ~薔薇密室のメタモルフォーゼ~(約6,970字)

藍埜佑(あいのたすく)

序章:邂逅の夜

 一九世紀末のパリ。私が彼女と出会ったのは、冬の終わりが近づく頃だった。


 まだ春の気配すら感じられない二月の終わり、モンマルトルの石畳に、凍てつく闇が降りていた。グラン・ギニョール劇場の裏手にある路地は、濡れた街灯の光に照らされ、どこか非現実的な霞みを帯びていた。


 その頃の私は、パリのサロンで絵を描く画学生だった。本名のリリアーヌ・デュボワという名前を使わず、「リリー」というだけの名で通していた。画壇では、私の描く官能的な女性像が密かな評判を呼んでいたが、どこか物足りなさを感じていた。


「あなた、私を待っていた?」


 不意に、背後から声がした。


 振り返ると、そこには月光を纏ったような女性が立っていた。


 艶やかな黒髪を緩やかに結い上げ、肩まで流れる深紅のヴェールを纏っている。ワース・メゾンの最新作を思わせるドレスは、深い紫を基調に金糸の刺繍が施され、裾には黒薔薇の模様が浮かび上がっていた。その眼差しは深い琥珀色を帯び、黒曜石のような輝きを放っていた。


「……いいえ。私は、ただ歩いていただけです」


「それは違うわ。あなたはずっと、ここへ来る運命だったの」


 彼女の声は甘く、絡みつくように私の意識を撫でた。香水の香りが漂う。ゲルラン特製の「時の符牒」だろうか。官能的な薔薇の香りに、何か得体の知れない魅惑が混ざっている。


「私の名前は、エリス」


 そう名乗った彼女は、蝶が羽を広げるように両手を優雅に広げた。


「ここには、あなたの知らない世界があるわ」


 私はその言葉に、得体の知れぬ魅惑を感じた。まるで運命に導かれるように。


「私の館へいらっしゃい。夜の秘密を、あなたにも教えてあげる」


 エリスが差し出した手は、月の光のように白く、冷たかった。

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