第9話 最高の使用人
「ジルベルト様にとって、いつか最高の使用人になります。誰にも負けないくらい、美味しい料理を作ります。ジルベルト様にできることは、私にはこれくらいです。申し訳ありません。無力で……」
「ありがとう。イル。君はやさしいな……だが、イルが言うことで、私が思うことに1つだけ間違いがある」
ジルベルト様はゆっくり立ち上がり、私のことをふわりと抱きしめました。
「『最高の使用人』ではなく『最高の女性』だ。そして、もうイルは私にとってかけがえのないひとだ」
私は、頷くことさえ出来ませんでした。──怖かったのです。憧れから、恋慕に変わり、そしてあの方を『失えないただ一人』にすることが。そして、あの方の隣に立つかもしれない未来が。そう考えを馳せた自分にはっとします。酔っているのだと解りました。自意識過剰もいいところです。お酒は都合よく出来ています。ジルベルト様が淡い酔いと罪悪感から、私を好いていると錯覚しても奥方は、貴族の名門ではなくては勤まりません。こんな、みずぼらしい……私は。手を見ます。ボロボロのあかぎれだらけ。ジルベルト様に恥をかかせたくない。その恥になりたくない。頭の中がごちゃごちゃして渦を巻いて世界が回り始めました。私は一言『申し訳…ござい、ません』と言い残し、気を失いました。
「ん……?」
ここは何処でしょうか?綺麗な、落ち着いた淡い水色の天蓋の布と可愛らしい犬の刺繍。犬はイデアに似ています。
「気がついたか?水だ、背中を支えるから、少しづつ飲むといい」
ジルベルト様が心配そうに私の身体を起こします。
「申し訳ございません」
私は冷たいお水を少しづつ飲みます。頭の中が透明になっていきます。
「私の腕の中で眠ってしまった」
「申し訳ございません。こんな、綺麗なお部屋に。すぐに着替えてきます、きゃあっ!」
私はブランケットを被りました。下着が上下だけです。
「服を、着たいのですが……」
チラリと顔を出すと悪戯っぽく私を覗き込むジルベルト様の視線とぶつかりました。
「脱がしてもよかったのだが、それでは雰囲気がないのでやめておいた。感謝して欲しいくらいだ。男には気をつけろ。本能と言うものを押さえられない獣もいる。そして、そういう行為で、お前を傷つけようとするものも現れるかもしれない。獣でも、イデアのように傍らに座り、ずっとイルを案ずる紳士もいるがな」
服だ。なるべく動きやすいものを選んだつもりだ。気に入ると、いいが。
そう言い、ジルベルト様は『次の間にいる』と、部屋をあとにしました。
テーブルに置かれたのは、新しいアップルパイを入れる籠、そして焼け焦げが綺麗に、元のままのように直された赤いポシェット。大きなバックにはドレスが入っていました。蒼地の布に、銀糸の縫い取りの薔薇と小さなイーグルが描いてありました。
「私は……こっち」
枕元にあったいつもの使用人の服。さくさくと着替えます。やっぱり動きやすい。私にドレスは似合わない。シンデレラの魔法は私にはいらない。気の迷いでも、嘘でも、ジルベルト様は仰ってくれた。
──『最高の使用人』ではなく『最高の女性』だ。そして、もうイルは私にとってかけがえのないひとだ──と。
次の間に私が行くと、ジルベルト様は驚いた様子でした。
「ドレスは……?気に入らなかったか?どうして着ない!?」
問い詰めるように、ジルベルト様は言いました。私は初めて見せるジルベルト様の様子に怯えました。ですから、わざと明るく答えました。
「私には似合いません。こっちが本業ですから」
「愛しているんだ!イルを……愛しているから、公爵夫人としてではなく……ただのお飾り人形なんて私はいらない。イルには私の唯一無二のパートナーとして、傍に居て欲しい」
──私は、2番目です。簡単に言えば側室。第一夫人の正室に、公爵夫人になれるなんて思っていませんでしたが、私の気持ちを真っ黒にさせるには丁度より余るくらいでした。
「厨房に戻ります。それともう1つ、今後秘密のティータイムはありません。蒼薔薇の庭にも行きません。私は一からレモン料理長から料理を学び、退職金で街に小さな引き車の屋台でも始めます。甘い夢なんて、ないんですね。今日はあなたの誕生日を祝えて嬉しかったです。幸せでした」
私はジルベルト様を睨んで言いました。
「──ですが今、酔いも冷めて、最低な気分です。惨めで惨めでたまらない。あなたには一生解らない。私は2番。これが身分差です。私はジルベルト様をお慕いしていました。ですが私には何もない。後ろ楯も、由緒正しい家も、学も、マナーも、社交界の振る舞い方も。何故か?貴婦人が浴びるように受ける『教養』がないからです。──さよなら、ジルベルト様。これが現実です」
私は立ち去ります。もう、戻らない気持ちでいました。ドアノブに手を掛けた時、ジルベルト様に強引に手を引かれ、次の間の天蓋のベッドに押し倒されました。
「何故、正室にこだわる?私はお前を愛しているのに」
私は手で目を隠し、言いました。
「私には、あなたしかいませんから。正室にお子さまが出来ても、その子に言えますか?『私が愛しているのはお前の母ではなく側室のイザベルだ』と。身重の正室の貴族のお嬢様に『彼女は最高の女性であり、かけがえのないひとだ。生涯愛するのは彼女だけだ』と言うのですか!!」
イル……。泣かないでくれ。私まで悲しくなってしまう。そう、震える声でジルベルト様は言いました。
「ただ、私は、君と一緒に居たかっただけだった。すまない。許してくれ。そんな、悲しい顔をしないでくれ。愛して……いるんだ。共に……幸せになりたいんだ。 イル。許してくれ。傍に居てくれ。私を独りにしないでくれ。やっと、独りではないと思えたんだ」
そんな風に泣かないで欲しかった。子供が母親に縋るように。あまりにも、いたいけな、まるで幼い頃に戻ってしまったようなジルベルト様を私は抱きしめて、頭を撫でることしか出来ませんでした──私はその晩、ジルベルト様と夜を明かしました。
─────────《続く》
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