第35話 久賀遼「渡せない」

 軽く買い物をした後、俺たちは朝比奈宅に帰宅。


「あんにゃろう! あんにゃろうがっ!」


 あれから数十分経ったが、俺は一向に怒りが収まらなかった。


「あいつ、一体なんなの!?」

「山野辺さんっていう私の元マネージャー」

「それは聞いたけど、感じ悪すぎない!?」

「……あの人、いつもあんな感じだから。超ビジネス主義というか」


 朝比奈がキッチンで買い物袋を広げながら、淡々と俺の疑問に答える。告白する雰囲気ではなくなってしまった。いや、そんなことよりも朝比奈のことをモノとして扱っている感じがすごく癪に障る!


「私、あの人とずっと一緒に仕事してんだ。仕事ができる人だったからお母さんはとても信頼してたの」


 ポツリとこぼれたその言葉に、胸の奥がズキッと痛む。

 お母さん――朝比奈の元マネージャーは確かに「母親が復帰を望んでいる」と言っていた。なんとなくだけど、マネージャーの話だけだったら朝比奈は断っていた気がする。でも、親がからんでくるとなると……。


「……朝比奈はこれからどうするの?」


 そう聞かずにはいられなかった。


「……」


 朝比奈の手が止まる。下を向いて、泣き出しそうな顔になってしまった。


「私、遼君と離れたくない……でも、お母さんのことも気になってる……」

「そうだよね、気になっちゃうよね……」


 朝比奈と彼女の両親のことはよく分からない。でも、関係性がうまくいっていないことは分かっている。じゃなきゃ、こんなところで一人暮らしはしていないはずだ。


「遼君、私、どうしたらいい?」


 朝比奈が俺の腕にすがりついてきた。その声が、あまりにも弱々しくて、胸がまた痛くなる。


 せっかく、朝比奈周りの環境が劇的に良くなろうとしているのに、どうしてこのタイミングで……。


 俺、なんて声をかけてあげるのが正解なんだろう。朝比奈にとっては、決して悪い話ばかりではないと思うのが悔しい。


 結局、その日は、俺は朝比奈の背中を優しく撫でてあげることしかできなかった。







 約束の一週間まで、残り半分を切ろうとしていた。


 俺、寝ないで沢山考えた。


 朝比奈のこと。これからのこと。


 多分、朝比奈自身も沢山考えていると思う。


 なんとなくだけど、朝比奈のトラウマってお母さんが原因な気がする。だったら一度、朝ちゃんとお母さんと話をしてみるしかない気がする。ちゃんと話をして、ちゃんとこれからのことを家族で話し合った方がいい。


 もし、その結果が俺が望んでいないものになっても、それが朝比奈がやりたいって言ったことなら全力で応援したい。それが彼女を育成し直すって言った俺の責任だと思う。


 最悪、俺は胸が張り裂けそうな思いをしないといけないかもだけど……。


 今日はそれを朝比奈に伝えようと思っていたのだが――。


「あれ?」


 朝、いつも通りピンポンを押すが、一向に朝比奈が出てこない。昨日は普通に引きこもっていたのにどうしたんだろう?


「朝比奈ー?」


 電話をかけるも朝比奈が出ない。もしかして、久しぶりに寝坊している? まさか、復帰のこと考えすぎてまた具合が悪くなったんじゃ……。


「朝比奈、入るからな!」


 俺は心配になり、預かっていた合鍵で部屋に入ってしまった。


「え?」


 すぐに信じられない光景が目に飛び込んできて、言葉を失う。


 朝比奈の部屋からは、普段の生活感がまるで消えていた。


 俺が看病をしたベッドも、一緒に勉強したガラステーブルも、あのふかふかのソファーも、この前のクマのぬいぐるみも……俺がいつも使っていたクシも部屋からなくなっている。あるのは本当にちょっとした雑貨だけだ。


 ……そして、朝比奈が最初に買った水色のワンピースと俺のスウェットが、まるで抜け殻みたいに部屋の真ん中に置かれていた。


「朝比奈!」


 名前を呼んでも返事はない。玄関の靴箱も空っぽで、彼女がいつも履いている靴も見当たらない。


 少なくても昨日の夜八時くらいまではこんなことになっていなかったはずだ。一体、どうして……。


「まさか……」


 胸の奥がざわめいた。嫌な予感が喉元までこみ上げる。

 そんなとき――俺の携帯が震えた。画面に写った名前は『朝比奈透花』だった。


「朝比奈!?」


 俺は急いでその電話に出た。


『遼君、助け……』


 遠くに朝比奈の声。後ろからは駅のアナウンスが聞こえる。


「朝比奈!? 今どこにいるの!?」

『すみません、彼女は芸能界に戻ることになりました』


 次にこの前の元マネージャーの声が聞こえてきた。


「ふざけんな!」


 俺の声は自然と荒れていた。目の前が真っ白にも真っ赤にもなりそうだ。


『親御さんの意向です。彼女も納得しています。ですから、もう関わらないでください』

「納得……してるわけないだろうがッ!」


 そんなわけがない。朝比奈は迷って泣きそうな顔になっていた。どうしていいか分からなくなってしまって俺の腕にすがりついてきた。そんな彼女が、俺に一言も言わずにいなくなるなんて絶対にあり得ない!


 誰かに無理矢理――いや、親に押し切られたのか!?

 

「ちょっと代われよ! 朝比奈に代われって言ってんだよ!」


 怒鳴りながら俺は靴を突っかけ、玄関を飛び出す。通話の向こうからはガヤガヤとした雑踏の音と、再び声が聞こえてくる。


『透花! こんなチャンスめったにないのよ!』

『でも……! でも、こんないきなり!』

『あなた、また育成失敗って言われたいの!?』


 今度は朝比奈と知らない女性の声。やり取りを見るに、この声は――。


 そこで通話はプツンと切れてしまった。


「くそっ!」


 俺、最大限に筋を通そうとした! 朝比奈の家の都合も俺なりに考えようとした! それなのに大人たちは全部無視して……朝比奈の気持ちまで無視して話を進めようとしている!


「やれない……」


 そんな大人たちに朝比奈のことを任せられない。任せたくない。


 それに、このままお別れなんて絶対に嫌だ。


 俺……まだ返事をしていない。まだ、もらっていないものだってある! 伝えたい言葉だってある!


「なにが育成失敗だ……! 失敗させたのは……失敗と決めつけたのはお前たちだろうがッ!」


 そっちがそうくるならもう知ったことものか! 大人の勝手な都合なんて、俺が全部ぶっ壊してやる。


 朝比奈は駅にいる。ここから近くの駅なんて一つしかない。


「お前らに朝比奈を渡せるかぁあああああ!」


 俺は全速力で走りだしていた。

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