第8話 今の私に、サインの価値はある?

 手が止まってしまった。気になると、どんどん気になってきてしまう。ポスターも写真も、雑誌の切り抜きも、全然姿を見せる気配がない。

 ……朝比奈透花の家にいるはずなのに子役時代の痕跡がまったくない。朝比奈って、去年の文化祭のチラシなんて残しているくらいだから、物を捨てられない性格だと思うんだけど……。


「朝比奈」

「なーに?」


 朝比奈がぬいぐるみを並べながら、こちらを振り返る。


「昔の……その、仕事してたときの荷物ってもうないの?」


 俺の言葉に、朝比奈は一瞬きょとんとした顔をして、それから小さく「ああ」と頷いた。


「全部、捨てちゃった」

「え?」

「引っ越す前に段ボールに詰めて全部捨てたよ。写真も、台本も、衣装も、サインも全部」


 なんて返していいのか分からなくなってしまった。なんでだろう、俺は全然関係ないはずなのにものすごく悲しい。


「ちなみになんで?」


 衝動的にそう聞いてしまった。朝比奈はちょっと困ったような、でもどこか吹っ切れたような顔を見せた。


「うーん、いっそ手放しちゃった方が楽かなって。過去にすがりついているみたいでみっともないしね」

「それは……」


 “もったいない”って言葉が喉まで出かかったけど、なんとか飲み込む。本人がそう決めたのなら、それが彼女にとっての最善の選択だったのだろう。多分だけど……。


「でもね、最近ちょっとだけ後悔してるんだ」

「後悔?」

「全部捨てなくてもよかったかなーって。今の私も、昔の私も、どっちも朝比奈透花なんだって、久賀くんのおかげでちょっぴりそう思えるようになったから」

「……」


 朝比奈が、並べかけていたぬいぐるみを両手で抱きしめて、小さくうつむく。心臓が少しドキッとした。このズボラで、めんどくさがりで、でもどこか憎めない彼女の、ぽろっとこぼした本音がすごく嬉しかった。


「ごめん、変なこと聞いた」

「ううん、気にしないで」


 朝比奈がまるで自分の気持ちを撫でるようにとんとんとぬいぐるみの頭を撫でている。お互いに無言になってしまったけど、そこにある空気は重苦しいものではなかったと思う。

 ……なにか、こうなってしまったきっかけの出来事があるのかな。俺はなんとなくそんなことも思ってしまっていた。



 片付けを続けていると、あっという間に時間が過ぎていった。


「だっはー、疲れた!」


 気がつけば時間は午後の一時をまわろうとしている。午前からぶっ通しなのでそろそろお腹がすいてきた。


「朝比奈ー、昼メシはどうするの?」

「私、料理できるよ。カップラーメンにお湯入れてこようか?」

「即オチやめろ! それ料理って言わないから!」


 あまりにも不覚……! 朝比奈の手料理が食べられるのかと思って少し胸が高鳴ってしまった。それにしても実に不健康まっしぐら。このゴミの山を見ても、朝比奈の食生活が良くないのは一目瞭然だろう。


「朝比奈ってさ、いつもカップラーメン食べてるの?」

「そんなわけないじゃん! ちゃんとコンビニ弁当だって食べてるよ!」

「どこを誇ってるんだ! ちゃんとの使い方間違ってるからな!」


 ダメだこりゃ。これじゃ体調を壊すのも時間の問題かもしれない。ただでさえ、朝比奈って線が細い印象があるのに。


「朝比奈さえ良ければ、俺、次の学校から弁当作ってこようか?」

「へ?」

「俺、妹の分の弁当も毎日作ってるからさ。二人分を作るのも三人分を作るのも大して手間は変わんないし」


 俺の提案に朝比奈が目をぱちくりしている。すごく意外そうな顔で俺のことを見ている。


「久賀君って料理できるの?」

「人並みにだけどね」

「っていうか、久賀君って妹いたんだ。どうりで面倒見が良いと思ったよ」

「そう? まぁ、朝比奈を再育成するって言った責任もあるしね」


 朝比奈が、俺から少し目線を逸らしてふにゃっと笑った。


「お、お願いしてもいいの……?」

「もちろん」

「じゃ、じゃあ、申し訳ないけどお願いしちゃおうかな……」

「言っておくけど、あり合わせで作っているから文句は言わないでよ」

「言うわけないじゃん! でも、ピーマンは苦手だから! あと玉ねぎもそんなに好きじゃない! パセリも嫌い!」

「はいはい」


 朝比奈とのやり取りにほっこりしつつも、またしても少しモヤっともしてしまった。朝比奈の周りには沢山の大人がいたはずだ。その大人たちは今、どこでなにをしているのだろう。朝比奈のこの生活に文句を言う人はいないのだろうか。


「私、今日もだけどそんなにしてもらってなにも返せないよ」

「じゃあ、サイン頂戴」

「はい?」

の朝比奈透花のサイン頂戴。大切にするから」

「そ、そんな価値のないものでいいの?」

「俺が欲しいものを勝手に価値なしにするなよ」


 朝比奈がぽかんとした顔で俺のことを見ている。照れくささはあるけど、そこに嘘はなかった。だって俺、元々は朝比奈のファンでもあるしね。


「昔のじゃなくて、今の私でいいの? 育成失敗のサインが欲しいの……?」


 朝比奈が、お化けでもみたんじゃないかくらいびっくりした顔になっている。まるで、自分が誰かに選ばれるなんて思ってなかったとでも言いたげな顔だ。


「だから今の朝比奈のサインが欲しいの! 玄関に飾っておくから」

「久賀君、私のこと好きすぎない!?」

「ぐはっ!?」


 吹き出してしまった。一瞬で、自分の顔が赤く染まったのが分かる。顔が熱い、耳まで真っ赤になっている気がする。


「あっ、照れてる」

「朝比奈が変なこと言うからだろ!」

「サイン……あとでいい? 練習しとくから」

「えっ? 練習が必要なの?」

「だって、どうせなら上手に書きたいじゃん!」


 そう言って朝比奈が、はにかみながら太陽みたいな飛びっきりの笑顔を俺に見せてきた。


(あっ――)


 まぶしすぎて、こっちが見ちゃいけないような笑顔。そうだよ、これがみんなを惹き付けた朝比奈透花のSSRの笑顔だよ。


「久賀君、久賀君」

「な、なんだよ」

「タイミング逃しそうだから、今渡しとくね」

「渡す? なにを?」

「今日の報酬」


 朝比奈がとてとてとキッチンのほうから、リボンで包装された紙袋を持ってくる。


「はい、どうぞ」


 ポンっと俺の手の上にその袋が置かれる。


「なにこれ?」

「最初に言ったよね? お菓子で手を打つって」

「へ?」

「初めてチョコ作ったんだ。私の手作りだから味は保証しない」

「してくれ、頼む」

「ちなみに溶かして固めただけ」

「全部言わなくていいから」

「初めてだったからシンクも大変なことになった……」

「あはは、じゃあ一緒に後で片付けようか」


 朝比奈が早口でまくしたててくる。まさかお礼を言いたくて、わざわざ手作りのチョコを作ってくれたのか。なんでチョコなのかはよく分からないけど嬉しいな。


「久賀君、今日はありがとね。これからも私のこと宜しくね」

「う、うん」


 朝比奈に告白みたいな台詞を言われてしまった。彼女のチョコは、ほんのり苦かったけど、それでもとても甘かった。

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