3-3 瑠璃の社で見た夢

 儚い夢から目覚めると、深い海の底にいた。

 陽の差さない、薄暗く、冷たい、瑠璃色ルリイロの世界。

 静寂に包まれた海底には、朽ちたかけた鳥居が突き立っていた。

 脆くなった白木の地肌が悠久の時を経てきたことを示している。

 海底は滑らかで起伏はなく、砂泥のような堆積物で覆われていた。

 暗闇と静寂が支配する時さえも死んだ世界で、俺は一人きりだった。

 

 全てが静止した世界で、どれほどの時が流れていったのか。

 気がつくと闇のなかで何かが蠢く気配がした。

 視界の端を蒼い鱗がかすめた。

 目の前を紅い軌跡が通りすぎていった。

 そして鳥居の先、闇の奥。

 汚泥に半ば埋もれ横たわる巨大な何かが、微睡まどろみから目覚めた。

 その双眸そうぼうが妖しく輝く。

 超高圧の海水が軋むように震えている。

 遂に白木の鳥居が粉々になって海底へ降り注いだ。

 永きに渡る封印が遂に解かれたのだ。

 何処からか、魚人としか形容できない生物がやって来た。

 その数、数百、いや数千、まだまだ増えていく。

 この祝祭に参集した〈深きものどものディープ・ワンズ〉が群れをなして狂喜した。

 眷属たる蒼魚ダゴン桜魚ハイドラは対となって水中を乱舞する。

 異形どもの歓声がに轟き渡った。

 ゆっくりと巨体を起こした異星の蕃神ばんしんは、再誕の産声を上げる。

 その呼び声は大地を震わせ、海原を揺らす。

 やがて大陸さえも海中へと没してしまうだろう。

 底知れない恐怖に俺は、

 うッうわああああああああああああッ!!

 夢から醒めた夢の中で、溺れ、絶叫した。


     *


 はぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁ。

 俺は恐怖のあまり荒い息を吐きながら覚醒した。びっしょりと全身に寝汗をかいている。壁の時計を見るが、まだ昼前だった。


「おはようございます、トモヒロさま。うなされておいででしたが、悪い夢でもごらんになったのでしょうか」

「ああ、うん――何か、巨大なものが――いや、どうだったかな」


 寝起きだというのに、水泳の授業でプールを何往復もした時のように疲労していた。俺は地上を駆けまわるのは好きだが、泳ぐのは苦手だ。何者かに海中へと足を引きずり込まれるような、恐ろしい夢を見た気がするのだが、どんな内容だったがよく思い出せなかった。


「メフィスト、珈琲コーヒーを淹れてくれないか」

「まことに申し訳ございません。残念ではございますが、この家にスマート家電はございませんので、私に珈琲を抽出することはできません」

「だろうな、わかってたよ。どうせインスタントしかないし」


 俺は厭な寝汗と正体不明の悪夢を洗い流そうと、熱いシャワーを頭から浴びた。


     *


「ああ、これはこれは鷺田さん。お忙しいところご足労頂きまして」


 沖浦は貼りついた笑みを崩さずに「お気持ちは決まりましたかな」と続けた。時刻は指定された午後三時ちょうど、場所は川霧立ち込める河川敷公園である。

 時ならぬ濃霧が一帯を覆っており、公園には我々以外に人影は見当たらなかった。冬の早朝であれば川霧が出現するのは珍しくないが、恐らくこれは魔術によってもたらされたものだろう。もちろん沖浦が人払いのために使ったに違いない。

 

「ゲームから降りようと思います」


 俺は単刀直入に告げた。魔術師のモットーが「汝の欲するところを為せ」ならば、ゲーム止めるのも自由なはず。俺が欲しているのは、平穏な日常――それだけなのだ。

 沖浦は相好を崩して、高らかな哄笑をもらした。


「はっはっはッ。それは賢明なご判断ですな!」


 俺は懐からメイガス・フォンを取り出して掲げ持った。


「このスマホを渡せば良いんですよね」

「ええ、その通り。お約束どおりホレ。この報酬と引き換えや」


 そういって沖浦は、懐から膨れた茶封筒を取り出した。

 500万円といっても、あの程度の厚みしかないのか。


「これが現実的な判断ちゅうやつですわ」


 沖浦はゆっくりと俺に近づいて、スマホを受け取ろうと手を伸ばした。俺も封筒を受け取ろうと手を差し出して、互いに交換する態勢となる。

 まさに、その時だ。

 俺は疑問を口にした。


「――ところで、あなたは魔道書を揃えたら何を願うのです?」

「そら、あんた。イソラ様の復活ですわ。そう、いうてますやろ」

「その神が復活したら、どうなるんです」

「そりゃ決まってますやろ、


 やっぱりそうか。俺は反射的に差し出した手を引っ込めた。


「どないしたんや――」

「前もって魔術をひとつ使用しておいたんですよ」

「なんやて!?」

「〈真意看破センス・モーティブ〉という簡単な呪文です。言葉の真偽をを聞き分ける能力が与えられる」

「――ほう、それで?」

「これまでのあなたの話に嘘はなかった」

「なら取引に何の問題もありませんやろ」

「あなたがた一族にとってのって何です」

「ん――」 


 沖浦は初めて言葉を濁した。そう、それが答えだ。


「メフィストにシミュレートさせました。あなたがたの〝祖神おやがみ〟なる存在が仮に復活したとして、その時、日本列島にいかなる被害が及ぶのか――」

「――で、結果はどないやった?」


 沖浦は口元を歪めてニタリと笑みを浮かべた。これまで見た中で最も邪悪な笑みだった。


「ほぼ壊滅でしたよ。日本だけじゃない、環太平洋全体に何らかの被害が及ぶ試算だ。あんたのいうは、俺たちにとってはのことだ」

「あんさん、思いのほかキレ者でしたなぁ。またもや、ワシは見くびっていたわけや」

「そんな〝渇望〟を、叶えさせるわけにはいかない――」


 俺はメイガス・フォンを握りしめ、後方へと距離をとった。そしてメフィストに命じる。


「メフィスト、魔道書起動。〈エイボンの書ブック・オブ・エイボン〉ッ!」

「どうやら、ハナからだったようでんな!」


 沖浦にとっても想定内だったのか、さして驚いた様子もない。


「――そろそろ、出てきてくれてもいいぞ」


 濃霧に向かって俺は呼びかけた。


「ようやく覚悟が決まったようね、鷺田トモヒロ」


 女の声が、白いベールの間から響いた。

 冷ややかで張りのある声音――千倉茜音だった。

 千倉は紅いメイガス・フォンを片手に、深い霧の中から姿を現した。その隣には夕闇に溶けこむような黒猫――〈暗影の獣〉が寄り添っている。

 公園に乗り込む前、メフィストに位置情報を送らせていたのだ。

 

「これはこれは、千倉はん。あんたも邪魔をされるおつもりでっか」

「ええ。この男は私の介添人コンパニオンなの。あなたの好きにはさせないわよ」


 千倉が毅然といい放った言葉に、沖浦はクツクツと喉を鳴らして笑った。


「笑わせてくれますな! 二人がかりなら勝てると思うてか。このワシも舐められたもんやわ」


 そういって肩をすくめるが、その瞳の奥には、獲物を前にした捕食者のような冷たい光が宿っている。沖浦はゆっくりとメイガス・フォンを取り出した。深緑色の外装が、冷たい霧の中で鈍く輝いている。


召喚サモン、〈ルルイエ異本ルルイエ・テキスト〉」


 沖浦は静かに魔道書の名を囁いた。メイガス・フォンから光が溢れ出し、足元には魔法陣が現れて周囲の霧を不気味に照らす。


「鷺田はん、今度はワシが手ずから歓待して差し上げますわ。覚悟はエエでっか」


 沖浦の声が、霧の中で響き渡った。

 俺は象牙色アイボリーのメイガス・フォンを強く握りしめた。身体が震える。恐怖からか、それとも


「メフィスト、役者が揃ったようだぞ――」


 俺の呼びかけに、三機のメフィストは宣言した。


「「「これよりメイガス・ゲーム、開幕いたしますッ!!!」」」


 メイガス・フォンに搭載された〈管理者キーパー〉AIによってゲームの開始が告げられた。

 ――こうして、魔術師同士の争いが再び始まったのである。


(『メイガス・ゲーム』 第一部 完)

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メイガス・ゲーム/Magus Game 夏目猫丸 @nekowillow

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